晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

金印の謎 4/7

2007-04-09 | 旅行記

 2007.4.7(土)快晴  道中最高17度 
   
 7:00 起床 
 9:20 福岡YH発~R3~県道59号(海の中道)~県道542号(志賀島)~
      金印公園~志賀島資料館~県道59号(海の中道)~県道538号~R495~
16:30 神湊スカイホテル着

  九州で最高の天気が訪れた。せっかく福岡市に来たけれどどこも行く予定はない。「博多に来たら、ここは行っておかないとあかんと言うところはどこですか」「博多ラーメンなら、この近所に天狗屋という美味しい店がありますよ」うーん、そんなもんか、地図を見ながら思案する。海の中道は博多湾の北方を志賀島まで10Kmのコースだ。志賀島はご存じ金印発見の地で、金印公園や資料館もある。これだ、福岡市営渡船で滋賀島に渡れば、海の中道を往復走行することもない。インターネットで調べると、渡船は人のみで自転車は乗せられないことが解った。海の中道を往復して行くこととする。
 福岡YHは今年3月にオープンした新規のYHである。廃業が相次ぐ中、貴重な存在である。YHのベテランのご主人が経験を生かして改築されているので、良くできた設備とレイアウトである。各部屋はツインのベッドでテレビ、タオル、歯ブラシ等があり、インターネットは自由に使用できる。洗面所に綿棒があったり、洗濯機が無料であったり(洗剤は有料)で嬉しい。そして一般的にいいことは、とにかく便利なところにあることだ。
竹下駅、国道3号に近く、隣がコンビニで、酒のディスカウントショップも徒歩1分である。別府YHが無くなったことは以前に書いたが、私がついこの間宿泊した桜島YHもYHの看板を取り下げたようである。なんとも寂しい限りである。
 福岡市は大都会だけあってか、他の九州の都市に比べてゴミが多い。そして交通量も多くて、交通マナーが悪い。総ての車がスピード出し過ぎだ。あちこちでクラクションの音が聞こえる。せっかちな性格なのだろうか。筥崎宮(はこざきぐう)の大きな鳥居と九州大を過ぎると名島に向かう市道を走る。名島に向かう都市高速の下あたりが最も汚く、
道路がゴミ捨て場となっている。名島には名島城跡、名島神社と名島の帆柱石という名所がある。帆柱石はカシの幹の化石で、香椎宮の伝説では神宮皇后の三韓出兵の際の船の帆柱が化石になったという。Img_4009 Img_4013

筥崎宮の大鳥居と名島の帆柱石


 海の中道大橋を渡るといよいよ海の中道で、土曜日とあって海浜公園へ行く乗用車が多い。海の中道海浜公園は巨大なレジャー施設で、遊園地、ホテル、マリンワールドなど色々楽しめそうだ。志賀島はかつては離島であったのだが、砂州と橋で繋がり、県道が走っている。Img_4021 Img_4046

海の中道大橋と海浜公園入口

志賀島の最も南のあたりに金印公園がある。天明4年(1784)に田の畦から作業をしている百姓により発見されたということである。魏志倭人伝に書かれている金印が実際に発見されたのだから、日本の歴史上最大の発見である。公園は海からすぐ急峻な斜面で、こんなところに田が有ったのだろうかという疑問が沸く。事ほど左様に金印の出所については、諸説有るようで、その理由は金印が単独で発見されたということから来ているようだ。大きな墳墓から出てきたとなると問題はないのだが、何もない田んぼから、ぽろっと出てきたもんだから、なぜそのような大切なものがそこから出てきたのかと疑問が出てくるのは当然かも知れない。隠匿説、墳墓流出説、金印偽物説などいろいろと有るようである。後からの調査で、金印発見場所が大きな墳墓であればいいわけで、大規模なトレンチ調査が何回か行われたようであるが、遂にそれらしいものはものは出てこなかった。金印だけがなんでもないところから出てきたのである。Img_4020 Img_4023
金印公園と金印のレプリカ


 金印には「漢委奴国王」と記されているのだが、私たちが歴史で習ったのは「漢の倭の奴の国王」つまり奴国(博多湾岸東南部の国)の首長に与えられたものとしている。ところが委奴をイトと読む説も出ており、伊都国(旧糸島郡)の首長に与えられたものという説もある。また、奴の読み方は「の」というのもあり、そうなると「倭の国王」ということにもなる。そのうえ、発見者と言われている甚兵衛なる人物は島には存在しないとか、
発見時期が矛盾するとか、様々な謎があるようだ。しかし、金印は本物で、魏志倭人伝の記述と現物が合致したことは事実である。これほどロマンはないだろう。国宝の金印は福岡市博物館に保管されている、金印だけが事実を知っている。
 志賀の島でもう一つの大事件は元寇つまり、文永の役、弘安の役である。文永の役では志賀島は主戦場ではなかったが、逃げ遅れた元の船が漂着し、捕らえられた220余人の首をはねたということだ。これを供養して、蒙古塚が造られている。弘安の役は、博多湾岸に強固な石塁が築かれていたため、すぐに上陸できず湾内に停泊し、迎え撃つ軍との戦いとなり、志賀島は主戦場となったのである。元寇絵巻物は歴史教科書でおなじみであるが、あの元軍の円い鉄の兜の本物が展示してあり、生々しい。Img_4028 Img_4039

蒙古塚と蒙古軍の兜


 今日は宿泊のあてがないので、早々に志賀島を離れ、東に向かう。福間、津屋崎で宿を探すが、つぶれているところ、満員のところなどで全然とれない。そのうち原野の中の一本道となり、宿やどころじゃなくなる。神湊でホテルや旅館、民宿も現れてやれやれと思う。看板で見つけた一軒目はつぶれていてだめ、二件目の民宿は一名では受けられないということ、飛び込んだ旅館も一名では泊まれないということだ。どこに行ったら一名で泊まれるのかと聞いたら、スカイホテルかロイヤルホテルしか駄目だそうだ。どうも旅館組合かなんかで協定しているみたいだ。やむなくスカイホテルに泊まる。高い上に、夕食は出来なくて、レストランも使えないというものだ。しかし、一人じゃ泊まれないとは、こんなところ初めてだ。4人じゃないと回れないゴルフ場みたいなもんだ。いまどきそんなとこないで。

走行距離83Km  累計8,362Km  経費4,966円
 
★神湊スカイホテル 一泊朝食 8,400円  リゾートホテルでツインの部屋だが、 値段がつらい。

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邪馬台国?を訪ねる 4/6

2007-04-09 | 旅行記

   2007.4.6(金)曇り一時雨  道中最高16度 
   
 7:00 起床 
 9:20 佐賀青年の家YH発~R34~吉野ヶ里歴史公園~R385~
16:20 福岡YH着

  今日は行き先が定まらない。最終的には門司に行くのだが、経路がいくらでもあるので迷ってしまう。とりあえずは、長崎街道を飯塚に行くか、筑前街道を博多に向かうか、吉野ヶ里で決めることにして出発する。天気予報は晴れであったが、すっかり曇り、薄ら寒い。面白くもない郊外の国道を寒さに耐えて走る。神崎というあたりで、例の恵比寿さまがあり、右手に本陣の案内がある。行ってみたいが、吉野ヶ里でどのくらい時間をくうか解らないので先を急ぐ。Img_3954
 吉野ヶ里歴史公園は国営で、とてつもなく大きな公園である。遺跡がいかに大きなものかが解る。広いだけに発掘された埋蔵物も天文学的な数字となる。甕棺だけでも3,000基というから、気が遠くなる。邪馬台国との関連で物議を醸し出す遺跡である。私は北九州説支持者なので、この遺跡は邪馬台国であると思っている。しかし九州にしても畿内にしても決定的な証拠は出そうにないので、永久に解らない事だろう。でもこういうクニであったことは間違いないだろう。Img_3971                                         Img_3985 Img_3967   





左:吉野ヶ里主祭殿  中:墓列、甕棺が並んでいる。  右:物見櫓、三内丸山より小さい

 驚いたことは九州で初の銅鐸が見つかっていることだ。銅鐸文化は畿内中心で、九州は銅矛文化ではないのか。しかも九州の銅鐸が中国地方の銅鐸に影響を及ぼしているということである。なにか政権が九州から畿内へ移っていったことと関連の有ることではないのか。もう一つこの遺跡で特徴的なのは物見櫓である。物見櫓というから物見櫓としての機能を思い浮かべるが、実はそれ以外に、あるいはそれ以上に重要な役割が他にあったのではないかと思う。例えば暦を造るための天体観測の起点とか、測量の為の目印とか、他の村との連絡用の塔であるとかである。登ってみると解るのだが、広い平野の真ん中にあり、周囲に高いものは見あたらないのである。あるのは遠く北方に背振(せぶり)の山々がある。吉野ヶ里の人々にとってこの山々が宗教的にも、実用的にもなんらかの影響を与えているに違いない。これで今日の行く先は決まった。背振を超えて博多に出よう。Img_3958
 売店で「魏志倭人伝の考古学」という本を買う。読んでから感想など披露したいと思うが、ここでまたしてもひとつの疑問が沸いてきた。弥生時代から古墳時代について日本には文字が無いので解らない部分が多いと言われるが、中国には後漢書などしっかり文章が残っているのである。土器や鉄器、稲作などどん欲なまでに大陸の文化を吸収してきた日本がなぜ漢字を輸入しなかったのだろう。中国においても文字は支配者だけの独占的なもので一般的では無かったのだろうか。
 意気込みはよかったが、東背振から峠を見上げてぞっとする。遙か上部を白い道が這っている。しかも東背振トンネルは有料で自転車が通れるか解らないのだ。民家がきれる頃に、背振山修学院がある。なんでもお経を経塚に入れる大きな大祭があるのを博物館で見た。そのうち雨がぽつぽつ降り出した。万事休すである。その時一台の乗用車が50m程先に止まり、おじさんが降りてこちらに向かってくる。「この上のトンネルは自転車が通れるか解りませんよ。旧道の坂本峠はとても登れる峠じゃないですよ」と親切に言ってくれる。実は私もそれを心配しているのだ。「通れるように頼んで、トンネルを通りなさい」ということだ。頼んで通れるものか解らないけど、とにかく行ってみよう。少し行くと料金表があり、軽車両等30円となっている。やれやれこれで大丈夫だ。道路は自動車用になっているので、傾斜はさほど無い。時間さえかければそう苦労することもない。やがて料金所が見えてきた。30円を払って領収書をもらう。数百メートルでトンネルだ。出口が見えているので短そうに見えるが、1、410mありトンネル用の準備をする。歩道はないが通行量が少なく、安心だ。トンネルを出て休んでいると、先程のおじさんが「よかったね、がんばってね」と言って追い抜いていった。私が登るまで待っていてくれたのだろうか。福岡側は古いままの道で、狭くて危ない。それでも強引に下って、あっという間に博多に着く。途中筑紫耶馬溪という渓谷があったが河床はまずまずだが両岸の岩壁が無く、耶馬溪らしく無かった。Img_3996 Img_3997 Img_3998




左:このあたりも低い鳥居  中:背振山修学院の登り口  右:見上げる峠道
走行距離60Km  累計8,279Km  経費6,082円
 
★福岡YH  一泊朝食3,980円  2007年3月オープンの新しいYH
設備完備でシンプルな配置で気持ちいい。場所は竹下駅近くで観光にビジネスに最適。  
 Img_4006
★峠列伝(38) 東背振トンネルの峠 困難度 3  景色 3  水場 無し
 約40分の登りであった。傾斜は緩いがしっかり登って行く、旧道の坂本峠は一級の峠だ。Img_4000 

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