晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

立久恵峡大水害 4/20

2007-04-22 | 旅行記

 2007.4.20(金)曇り   
  7:00 起床 
 9:30 城福寺YH発~市道~宅野~R9~県道30号線~県道56号線~県道281号線~R184~立久恵峡~R184~出雲文化伝承館~
17:30 ゑびすやYH着

 二日間お世話になった城福寺を、お礼を言ってお別れする。今日は出雲市、立久恵峡までの予定なので道中ゆっくり見て回ることができる。仁摩の郵便局で小包を送り、立久恵峡のユースホステルに電話する。「現在使われておりません。」えっまたかよ。ユースホステルは廃止や営業中断などが多く、あてにならない。大社前のユースホステルに電話するとOKとのこと、しかしこれで20Km行程が伸びる。こんなことなら、早く出発すればよかった。Img_4511

昨日買った本、グラビアで重いので郵送する。日本の鉱山文化


 温泉津で見つけたタタラの水溜の出所を確かめるべく、宅野の街による。知らない間に通り過ぎてしまうような小さな街、集落と言おうか、だが落ち着いた街である。ここは石見にあって紅い石州瓦を使っている家がほとんど無い。ほとんど黒い瓦なのだ。この地では異様な感がする。郵便局の向かいにひときわ大きな屋敷がある。ここが藤間家かと思うが確かめる時間がない、いや心の余裕がないのだ。Img_4512

宅野には石州瓦が少ない。

 大田市街まで国道を走り、三瓶山に向かう県道に入る。この街道沿いには小豆原埋没林公園があり、遠くなければ訪れようと思う。三瓶川に沿って登って行くと、三瓶ダムの隣に名水がある。甘屋の水と言われ文徳天皇に献上したといういわれのあるものだ。名の通り甘露な味で、ボトルも一杯にする。水汲みのおじさんとしばし談笑、京都なら行列の出来る名水である。Img_4513 Img_4515

三瓶ダムから三瓶山、甘屋の水
 
 埋没林は県道から1.3Kmということで、諦める。ただ走るだけではつまらないのでなにか面白そうなところは無いかなと探していると、山口民俗資料館の看板が所どころ立っている。山口は山の中の集落だが、文化的には豊かな様子で、石見神楽の伝承館なども道中にある。峠道を必死に登り、やっと資料館の近くにたどり着いた。するとひときわ大きな看板があり、「開館日、第二第三日曜日」などと書いてある。最初から書いとけよな。
峠からうねうねした細い道を下る。苗代には田植えの準備が整い、蛙の声が賑やかである。土日は田植えの最盛期なのだろう。飽きるほど下って、国道184号線に出る。下り追い風ですいすい走る。神戸川の堤防が所々崩れていて、補修工事があちこちで行われている。ダンプの走行もかなり多い。立久恵峡のユースホステルに着いて、その悲惨な状況を目にする。一階部分は板で覆われて、もう長い間閉鎖しているようだ。周りのキャンプ場や遊歩道もどうも様子がおかしい。木々に流木が巻き付いていて荒れ放題となっている。立久恵峡のシンボルの吊り橋を見て、その状況に驚く。板がすっかり流されて、ロープだけが揺れている。道路脇で作業している人に聞く。「何かあったのですか」「洪水ですよ、ユースの二階まで水が来たのです」「いつ頃の話ですか」「去年の7月」、、、、、、、
去年の7月と言えば、私が最初に出発して、福知山で洪水に襲われ、逃げて帰ってきた、あの時ではないか。ユースホステルは廃業、公園や橋などは復旧の目途が立たないそうである。田に積もった土砂の捨て場として、この地は埋まってしまうそうである。観光地としての立久恵峡は何時元に戻るのか解らない。3本有る橋の2本が崩壊し、遊歩道へ行く手段もない。国道から対岸の岩峰群の写真を撮って、先を急ぐ。国道沿いにある温泉には立ち寄りのお客が来ているようである。Img_4519 Img_4520 Img_4521_1
 




左:立久恵峡YH  中:すっかり壊れた吊り橋  右:濁流の跡が生々しい

Img_4531 Img_4528
立久恵峡の岩峰群



 出雲市内に入ると出雲文化伝承館という施設が有り、無料なので立ち寄ってみる。出雲の神話や出雲大社の基礎知識を仕入れる。
  

走行距離86Km  累計8,901Km  経費6,198円

★ゑびすやYH(出雲市大社町)素泊まり3,050円 チェックイン4:30、チェックアウト8:30がつらい。

コメント (3)
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石見銀山の間歩を歩く 4/19

2007-04-22 | 旅行記

 2007.4.19(木)快晴   
   
 7:00 起床 
 9:00 城福寺YH発~県道31号線~石見城跡~石見銀山資料館~熊谷家住宅~
旧大森区裁判所~五百羅漢~旧河島家~新切間歩~福神山間歩~龍源寺間歩~佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)~石銀集落(いしかねしゅうらく)跡~本間部~釜屋間歩~大久保間歩~清水谷精錬所跡~県道31号線~湯迫温泉びしゃもん~
18:19 城福寺YH(大田市仁摩町)着

 私の鉱山好きはどこから始まっているのだろう。それはきっと子供の時の珪石鉱山跡から来ているのだと思う。私のふるさとには多くの珪石鉱山があった。物心着いた頃には経営はしていなかったが、坑道やケーブル、トロッコ、そして大量の鉱屑があちこちに残っていた。特に坑道は、柵などで閉鎖してあるわけでなく、冒険好きな子供達の格好の遊び場であった。しかしいずれも山の高いところにあり、勿論親に言ったら叱られるので、内緒で数人で打ち合わせて登って行くのだった。勇んで坑道入口まで行くが、中は結構度胸が要った。真っ暗な上に水が垂れていたり、ほとんどの場合途中で崩れていた。コウモリなんかもいて刺激たっぷりであった。臆病なくせに鍾乳洞なんかも好きで、大学に入ったときは探検部か山岳部か迷ったところである。
 そんなわけで今回の旅でも金銀銅マンガンなど大小いくつかの鉱山を巡ってきた。石見銀山は世界遺産登録が噂されるように、町並み等がしっかり保存されていて、間歩(まぶ・坑道)の調査も順次進んでいると聞く。わくわくしながら、県道を大森に進む。昨日から大きな岩壁が山肌に見えるなと思っていたところに、石見城跡がある。山城なので今回曲輪(くるわ・稜線を平坦にした防御のための設備)まで行けないが、下から眺めることとする。とにかく岩が凄いのだ。垂直あるいはオーバーハングした壁で、ロッククライミングが楽しめそうないい壁である。その下に井戸平左衛門公の碑がある。彼は享保の時代に銀山の代官として赴任したが、いわゆる享保の大飢饉にあい、年貢を減免したり御用米を分け与えたりして、領民に慕われた代官であったそうだ。また、薩摩芋の栽培を取り入れ、飢饉に備えるなどして、「いも代官」と慕われたそうである。Img_4400

この岩壁の上に曲輪がある。


 トンネルを越え大森 を見学する。鉱山業、酒造業、掛屋(かけや・年貢銀を検査秤量する)、郷宿(ごうやど・公式宿泊所のようなものか)など多岐にわたる生業で銀山一の商家である。郷宿を務めていたせいかその調度はもの凄い量と質である。正月の餅の数を書き付けた紙が数枚残っていた。明治36年12月1、501個などと記してある。恐ろしい数字だ。熊谷家で気付いたのは台所など長大であるのに女中部屋が3畳ぐらいの狭い部屋なのである。聞くと住み込みの者は少なく、通いが多くあったようである。
  大森区裁判所跡、五百羅漢などを巡り、代官所地役人の居宅、旧河島家住宅を訪ねる。Img_4403 Img_4406
Img_4430




左:代官所跡の資料館  中:熊谷家  右:五百羅漢

 各地の武家屋敷を巡ってきたが、概ね質素な造りであるのに対し、この住宅はかなり贅沢な間取りである。切米三十表三人扶持の役人にとっては少々豪華ではないかと思う。銀山ならではの措置なのであろうか。
 これらの公開されている住宅の他に、何々家という旧家が沢山あって、看板で案内してあるのだが、実際に居住しておられるので中は見られない。青山家には青山さんが、阿部家には阿部さんが住まいしておられるという感じで、往時から今日まで人手に渡らないで続いているところが素晴らしい。郵便局、銀行、小学校が木造のままでレトロな感じである。家々も茶色に塗られ、障子、襖のたたずまいとなっている。世界遺産登録推薦とあって町を挙げての町並み保存なのだろうが、はっきり言ってわざとらしい気がするのは私だけだろうか。何百という町並みを見てきた私にとって、本当に愛着を感じる町並みは、無理矢理に作り上げたレトロではなくて、自然に現代化していてもそこはかとない落ち着きのある街なのである。それは街に入ったらすぐに感じることであって、ガイドブックや案内でわかるものではない。世界遺産を審査する委員の方々がそういう感性を持っておられるか否か私には解らない。ただ少し世界遺産登録に黄信号が灯っているという噂も耳にする。審査をする委員会から新たな注文がついたそうである。今日も市の職員だろう方々が遺産の調査、整備に走り回っている。名誉のために付け加えておくが、小学校、山陰合同銀行は従前通り、郵便局は前面を少し手直しされたそうである。ちなみに、小学校の生徒は現在十三人、同じ校舎にある保育所には十人の児童や園児が居るそうである。Img_4423 Img_4508 Img_4420
 




左:石見銀山大森郵便局  中:大森小学校、手前に保育所が併設  右:山陰合同銀行

 家並みが途絶えるといよいよ間歩が出現する。間歩(まぶ)とは坑道のことであるが、単に鉱石を掘り出すだけでなく、空気抜きや水抜きの坑道も間歩と呼んでいる。各間歩にナンバーが付けられており、見つかっているだけで529間歩有るそうだ。まず最初に新切間歩が川向かいに現れる。銀山側に直接出ていること、坑道が水に浸かっていることで水抜き坑のようだ。次に現れるのが福神山間歩だ。三つの坑口があり、上部の坑口は空気抜きのようである。下の二つは内部で繋がっているという。いろいろと想像しながら見ていると楽しい。足の下に蜘蛛の巣のように坑道が広がっているのだから。龍源寺間歩にたどり着くまでに名も無い小さな間歩が両岸に続く。最初はまめに写真を撮っていたのだが、きりがないので無視してゆく。Img_4435 Img_4436 Img_4438





左:新切間歩  中:銀山川  右:福神山間歩、とても人が入れるとは思えない。

 龍源寺間歩は唯一公開されている間歩で、600mの坑道の内157mが公開されている。自転車を駐めて受付に行くと、「自転車を押していきますか」と言われた。一体何のことか解らなかったのだが、出口が谷向かいになるので、自転車を押して行けば、そのまま帰れるということである。自転車と一緒に回れる坑道も珍しい。愛車と一緒に坑道に入る。自転車で回れるぐらいだから、整備は行き届いていて、反面変化に乏しい、つまらない坑内である。規模は小さいがひ押し堀の跡や永久坑に続くたて坑の跡など興味深いところもいくつかある。Img_4451 Img_4455 Img_4457





左:龍源寺間歩四ツ留  中:自転車も通れる坑道  右:ひ押し掘りの跡(鉱脈に沿って掘る)

 出口に出ると、どうも欲求不満が残っている。龍源寺間歩はあっという間に終わるし、町並みは、年配のご婦人の嬌声と何をしに来たか解らないアベックの姿態にちっとも落ち着かない。龍源寺間歩出口を少し下ると佐毘売山神社が右手に現れる。鉱山精錬の神として最盛期には重要な地位を占めていたようである。石段の横にも間歩が見られ、左右の石垣は最盛期の住居の跡である。観光客もアベックもここには来ない。見ると栃畑谷、昆布山谷などの道標がある。石見銀山の中心地で、精錬所跡などもあり、日本初の灰吹きによる灰吹き銀の発見も、この奥の出土谷からされている。わたしが行きたいのは銀の山、仙の山山頂付近に広がる石銀集落跡であり、雲上の鉱山都市といった遺跡である。左毘売山神社横の住居跡に愛車を繋ぐと、尾根を登り始める。いきなり竹藪の中に古い墓場が現れ、ゾクッとする。石塔が傾いたり倒れたりで、打ち捨てられた墓のようだ。苔の着いていない墓石の銘を見ると、明治の年号が見える。苔むしているものはそれ以前ということか。登山道脇には小さな間歩がひとつ見受けられたが、薮の中にはもっと沢山あるようだ。あっという間に高度を上げ、米カミ岩(いわれは解らない)を過ぎると、要害山山頂の山吹城跡が眼下となってくる。Img_4466
Img_4467
佐毘売山神社の石段にも間歩がある。
竹藪の中に古いお墓がいくつもある。


  竹藪が切れて広い原野に出る。真ん中に通路があり、小さな穴ぼこがあちこちに有る。比重選鉱をする精錬炉の跡らしい。井戸の跡もあり生活の臭いがする。ここでは居住と精錬が同時に行われていたそうである。掘っ立て小屋で鉱石を砕いている住民達の姿を想像しながら広場を進んでゆくと、No1間歩が現れる。
どういう基準で番号を付けているのか知らないが、なんとなく意味のありそうな間歩である。この近くで灰吹き精錬用の鉄鍋が発見されたそうである。Img_4473 Img_4474
Img_4499




左:No.1間歩  中:石銀集落跡  右:石銀集落の井戸
 石銀の端まで来ると車の通れる林道が出現、ヒイヒイ登ってきた私はがっかりする。ところがその尾根のところに道標があり、大久保間歩の案内があるのだ。しっかり調べていれば当然のことだが、行き当たりばったりの私には大発見である。大久保間歩は石見銀山最大の間歩で明治の時代まで操業しており、個人の所有であり、今は公開していないが、世界遺産に登録されれば公開の可能性もあるという魅力的な間歩だ。実は秘蔵の写真でその内部を昨晩見ていたのである。勿論今は入口(四ツ留という)しか見られないが、これを逃す手はない。ところがこのとき私は空腹で参っていたのである。行動食にビスケットは持っているのだが、すぐに行き着くだろうとして水を持ってこなかったのである。大久保間歩まで500m、なんとかなるかで、谷を下ってゆく。下ったら登り返さなければいけないのだ。なんの変哲もない谷をどんどん下って行き、そろそろ帰ろうかなと思うとき、本間歩、釜屋間歩の凄い景色が飛び込んできたのだ。今までの、草むらに穴の開いただけの間歩でなく、岩壁の中に大小の坑道が口を開き、周りに試掘の跡か堀かけの穴などもある。これを見ないで石見銀山に行ったとは言わせない。釜屋間歩には謎の階段があり、周りには五輪等や地蔵などの坑夫の守り神だろう石仏が見られる。そして一番いいことは、おばさん連中もアベックも誰もいないことだ。よく考えれば随分気味悪い状況なのだが、今回の旅ですっかり平気になってしまった。
Img_4479Img_4482Img_4481




左:本間歩  中、右:釜屋間歩(翌日ロボットによる坑内の探索が行われた)


  大久保間歩までは今少し谷を下るのだが、興奮気味の私には平気である。
あっという間にたどり着き、柵の外から写真を撮る。いつか公開されたら必ず来るよ。
 空腹も忘れ、谷を登り返す。将にシルバーバレイだ。露天掘りの跡や小さな間歩が無数にあり、人間の欲望の結晶と言うべき谷筋をとくと鑑賞しながら石銀に戻る。Img_4487 Img_4480 Img_4491








左:大久保間歩  中:露天掘り跡か?  右:五輪等などが沢山ある。

 地表をよく見ながら歩いているといくつかの道具とか生活用具の破片が落ちている。
 佐毘売山神社に戻り、少し下ると右手に清水精錬所跡がある。ここは明治の時代の遺跡で、巨額の投資でつくったものの一年半で操業停止となった、いわば悲劇の精錬所だ。
覆っていた草や木が取り払われ、石垣がくっきり現れている。調査のためか多くの職員が
測量などを行っており、早々に立ち去ることとする。Img_4497_1 Img_4498 Img_4504





左:精錬の道具か(石銀)  中:精錬炉跡(石銀)  右:清水精錬所跡

 朝来た道を仁摩まで下り、湯迫温泉に行く。老人福祉センターなのだが、誰でも入れてくれる。小さな風呂だが、一人で堪能する。 

走行距離28Km  累計8,815Km  経費3,529円

★湯迫温泉びしゃもんの湯 (大田市仁摩)含重曹弱食塩泉 循環、加温、消毒
 28.5℃ 仁摩老人福祉センター付属の湯で火、木、土、日のお風呂の日に営業。
200円 少し緑がかった湯で、小さなお風呂だが値段が魅力。Img_4509   

★YH城福寺 (大田市仁摩町)一泊二食4,200円 真言宗のお寺、イベントも沢山あるようで、常連客も頼もしい。すき焼きを含む手料理がうれしい。Img_4393

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タタラの水溜 4/18

2007-04-22 | 旅行記

 2007.4.18(水)曇り  道中11℃ 寒い 
   
 7:30 起床 
 9:10 ビジネスホテル末広発~R9~温泉津温泉(ゆのつおんせん)~
15:20 城福寺YH(大田市仁摩町)着

 雨の覚悟をして嫌々スタートをする。道路の温度表示は10℃だが、異様に寒い。浜田から9号線に沿って走るが、何の変哲もない風景で、退屈きわまりない。海側の市道を走ってみるが、工場ばかりで余計つまらない。そのうち江津(ごうつ)に着いてしまった。温泉津までも平凡な道を走り、国道から別れて温泉津の温泉街に入る。温泉津港にゆうゆゆ館という観光案内所がある。二階が資料館となっていて日常の道具や石見銀山で使われていた道具などが展示されている。これは後で知ったことなのだが、温泉津は石見銀山で生産された銀の積出港なの だ。カンテラやわらじなどの道具に混じって、キリシタン壺などが展示されている。鉱山には隠れキリシタンが付きものなのはどの地域でも一緒なのだ。
展示品の中で日祖タタラの水溜という陶器の水溜がある。蛇口が龍の口になっており横に藤間家と書かれている。一体何に使うものか解らず、係の人に聞くが、一向に解らない。Img_4379
Img_4381 
日祖タタラの水溜と隠れキリシタンの壺



 納得いかないまま、温泉街に向かう。車のすれ違いも難しいほど細い街道が、うねうねと続く。風呂の前に何か食べておきたいのだが、それらしい店がない。輝雲荘という旅館でちょっと高いが、高級な昼食をとる。いよいよ温泉津温泉へ、今日のメインエベントだけに、緊張する。外湯は二つあり、元湯と薬師湯が斜めに向かい合って建っている。案内所で聞いたところによると、源泉が違い、元湯の方が熱いということである。熱湯好きの私としては文句なく元湯に行く。300円の料金を払い、湯船に向かう。あつ湯とぬる湯、
座り湯の湯船があり、ぬる湯に入る。ぬる湯たって44℃あって、近頃の若い人には熱いだろう。どこの温泉にもいる、地元の常連さんがいて何かとうんちくを語ってくれる。
土日休日には温度が下がるそうである。そうでないと湯に入れない人が出てくるそうだ。ぬる湯と熱湯では濁り方が違う。源泉は熱湯の方に出ているのだ。常連さんに聞くと、時間の経過で、湯の花が出てくるからぬる湯は濁ってくるのだそうだ。ちなみに一番風呂にはいると、湯の花だらけで凄いそうだ。湯船に付着している湯の花も半端ではない。
 ぬる湯に慣れると、熱湯に入ってみる。46℃で結構熱い。肩を温めたいのだが、その前に足が参ってしまう。一分ちょいというところか、もう身体は真っ赤になっている。今日は身体が冷え切っていたので、温泉がありがたい。適当に出入りして元湯を出る。番台の女将さんが、他のお客さんほったらかしで、街の案内をしてくれる。目の前に飲泉場がある。勿論浴室内でも飲泉できるが、ここは誰でも無料で飲める。ボタンを押すと龍の口から温泉が出てくる。ちょっと塩味が効いていて飲みやすい味だ。ここで例のタタラの水溜めを思い出す。飲み水を溜めておいて随時飲めるようにしてあるもののようだ。どこかの旅館にあったものかと思ったが、タタラの水溜めというのが気になる。タタラとは製鉄のことである。女将に写真を撮ってもらって、礼を言って出発する。Img_4384 Img_4387

元湯の前で記念撮影、龍の飲泉場



 寒い道も温泉ですっかり温まり快適に進む。馬路(まじ)の手前にいくつかのトンネルがある。歩道は無いが交通量が少なく、走りやすい。どの車も大きく避けてくれるが、一台だけすれすれに高速で通り抜けたアベックの乗った軽自動車があった。初心者マーク付けていたので、まあ仕方がないか。大きな下りの先に広場があり、ねずみ取りをやっている。すると先程の軽が捕まっているではないか。やはり横着な運転だったのだろうか、ざまみろと思って通り過ぎてゆくと、一人の警官が寄ってくる。スピード違反はしてないし、先程の立ち小便でも見つかったかと思っていたら、「温泉入りましたか?熱かったでしょう」などと気安く話しかけてくる。先程のアベックが聞いたら怒るやろなあ。
 先程のタタラの水溜について少し解ってきた。藤間家というのは宅野の製鉄業の家で、
製鉄、鍛冶などで石見銀山で使用する鉄製品を一手に仕切っていたようである。それでタタラの水溜というみたいだ。なお、形状からして飲用と思われる。少しは勉強しとけよな。

走行距離58Km  累計8,787Km  経費10,150円

★温泉津元湯泉薬湯 Na,Ca塩化物塩泉(低張性中世高温泉) 源泉掛け流し
 49.6℃  300円 熱湯は46℃、ぬる湯は44℃日によって違うそうだ。源泉近くは透明、時間がたつと濁ってくる。 湯治可 まさに普段着の温泉

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あんのや 浜田城 4/17

2007-04-22 | 旅行記

 2007.4.17(火)曇り  道中12℃
   
 7:00 起床 
 8:40 民宿星旅館発~R9~唐音の蛇岩(からおとのじゃがん)~R9~
16:10 ビジネスホテル末広(浜田市)着~浜田城跡

  嵐の夜が明ければスカっと好天かなと思いきや、今にも降り出しそうな空で、気温だけは冬のように冷たい。星旅館のおばさんが和紙のしおりと自家製のマタタビ酒をお土産にくれた。「お酒が好きみたいじゃけえ、これもっていきんしゃい。おちょこに一杯ずつ飲むんだぞ」ありがたいことです。お礼を言って、中腹の9号線に登る。向かいの山上に津和野城の石垣が見える。将に天空の城だ。
Img_4335
山上左上に津和野城の石垣が見える。

津和野川に沿った9号線を一気に下る。交通量は極端に少なく、適度な下りで心地よい。益田の街も何気なく通り過ぎ、雪舟記念館もなんとなく興味なく、鎌手(かまて)と言うところに着く。ここには唐音の蛇岩というのが海岸にあるというので、2Km近くを寄り道する。海岸には百万本の水仙が植えられており、水仙公園となっている。今は花の時期でないのでつまらないが、11月から2月の時期には見事だろう。蛇岩は海岸の石英粗面岩の大岩に、幅1m程の安山岩帯が蛇のようにうねって巻き付いているためにそう呼ばれている。まあそれだけのものと言えばそれだけのものである。Img_4340
 快調に走っているのに、浜田までは結構時間がかかった。ホテルにチェックインすると、浜田城跡にゆく、これぐらいしか行くところもないのだ。城山を登って行くと、神社があり、いろんな人の石碑や記念碑が建っている。知っているのは島村抱月と木口小平ぐらいである。もっとも抱月のなんたるかも知らないし、木口小平は「シンデモラッパヲハナシマセンデシタ」などと修身の教科書に載っていた兵隊さんである。ナンデオレガシッテンネン。ところが碑文をよく見ると木口さんは岡山県の出身で浜田とどうゆう脈絡があるのか解らない。城跡も無いようだし、あきれて帰ろうとすると、中腹にお中道のような道がある。草深いこの道は山を取り巻くように登っているが、新しく造られた道で、お城とは関係ない。ただ、所々に石垣の石などが散乱していたりして、少しでもお城を偲ぶことができるかなと思いつつ登る。最後に道が途絶えて自転車を担いで坂を登る。と、そこに本丸跡が現れる。一の門、下には二の丸跡、二の門などがあり、しっかりと保存されている。Img_4350 Img_4353 Img_4362





左:この奥に大手門があるのだが、気がつかなかった。 中:草深い道を登って行くと、、
右:本丸跡にたどり着いた。

 教育委員会の説明文も立っており、掃除も行き届いている。しかし、危うく見過ごして帰るところであった。Img_4366
Img_4367Img_4372


   

左:二の門跡  中:出丸石垣跡  右:インチキの大手門(県庁の門)

 本丸から二の丸、三の丸と降りて行くと、大手門が見える。説明文があるので見に行くと、この門は元々津和野藩庁の門で、明治4年に浜田県庁の門として現在の浜田郵便局のところにあった門だそうだ。浜田城とは何のゆかりもなく、本来門は無かったそうである。となると、ここに門を移した理由は一体何なのだろう。お城の登り口には門があるのが一般的という理由で、史実に反して建てられたのだろうか。文化財を守る立場からは何とも稚拙な振る舞いではないか。あの門は浜田郵便局の前に建てるべきである。現に郵便局の前には「明治初年浜田県庁跡」の支柱が立っている。ただこの明治初年というのもお城の門の説明の明治3年と食い違う。少し短絡的すぎではないか。Img_4376

浜田郵便局前の県庁跡

  大体再建されたお城についてはいい加減なものが多い。宮崎の天ヶ城では天守のない城に立派な天守が建っている。熊本城だって、破風が無いと記してあるにもかかわらず、立派な破風がある。文化財を守るということが誤解されているように思う。あちこちで筍のように再建されたお城がどれほど史実に忠実に再建されているだろうか。

走行距離92Km  累計8,729Km  経費23,126円

★ビジネスホテル末広 (島根県浜田市)4,800円

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幻の大間歇泉 4/16

2007-04-22 | 旅行記

 2007.4.16(月)雨後曇り 
   
 7:00 起床 
 9:50 民宿星旅館発~乙女峠~千人塚~津和野城跡~西周旧家~なごみ温泉~
15:30 民宿星旅館着

  早朝から雨の音、覚悟はしていたが、朝食後に連泊の依頼する。途端に晴れてくる。もう少し見たいところもあり、もう1日津和野を回ってみよう。まずは乙女峠だ。長崎に行かなかったら、乙女峠って一体何なんだと言うところだろうが、長崎の資料館、津和野カソリック教会の乙女峠の展示館、永井隆氏の遺作「乙女峠」等々乙女峠のオーソリティのようなものである。ただ現物は見たことがないので、これは行かざるを得まい。津和野駅の裏手の道をどんどん登って行く。駐車場の横に小さな滝があり、その沢に沿って苔むした道が続いている。雨上がりの空気が清々として、草木や苔だけが緑色なのでなく、空気までが緑色しているようだ。虐待に耐えかねた転びキリシタン達が、食料を差し入れに通ったのがこの道かと思うと、乙女峠の物語の一場面が出てくるようだ。やがて十字架とマリア聖堂が見えてくる。マリア聖堂は小さな礼拝堂で、5月3日には乙女峠祭りが行われ、多くの信者で賑わうところである。その奥に光琳寺本堂、キリシタン牢舎の跡がある。浦上村153人のキリシタンが繋がれたにしてはあまりにも狭い地域である。三尺牢、氷責めの池など「乙女峠」の一場面を彷彿させる遺跡がその周りにある。Img_4276 Img_4277 Img_4281_1





左:乙女峠に向かう道  中:マリア堂  右:キリシタンが氷責めにあった池

 光琳寺の敷地から谷を渡り、36名の殉教者の墓、千人塚に向かう道はキリストが十字架を背負って歩いたガルバリオの丘までの巡礼の道として、整備されている。後から来た観光客もここまではやってこない。十字架は背負わないが、愛車初恋号を引きずって行く。小さな峠を越える山道だが、道中にはキリストが十字架を背負わされて、磔に合うまでの過程がパネルに記されており、敬虔な気持になる。杉林から竹林に変わり、檜林に変わったら、千人塚は目前である。乙女峠では36名の殉教者が出たのだが、その方々の名前、洗礼名、年齢が記され、霊を慰めている。Img_4287 Img_4289

巡礼の道、愛車初恋号を背負って歩く。右は千人塚

 ここでキリシタンの殉教に対して、特に明治以降の殉教死に対して、どうも納得のいかない事が数点あるので記しておきたい。彼らはなぜ殉教死したかが、まず第一の疑問である。明治の時代に至るまでかくれキリシタンとして生活していた彼らは、踏み絵も踏んだろうし(その時代まで踏み絵があったのかどうか不明だが)檀家の制度に組み込まれ、表向きは仏教徒として暮らしてきたのではないか。いまさらなぜ、棄教はしないとして、死にまで至らしめられたかということは理解できない。徳川幕府の時代通り、仏教に改宗したふりをして生き延びればいいではないか。外海の資料館だったろうか、踏み絵は指を立てて踏み、足を洗った水を飲むといういかにも日本の禊ぎ的な方法が資料として残っていた。どんなことをしても生き抜くこと、その上で信仰を貫くことこそ宗教の姿ではないか。
死に至ることが解っていても、棄教のふりが出来ないとは、まるで特攻隊と一緒ではないか。明治に入って教会は復活し、司祭などが入国したそうであるが、彼らが信者達に生き延びる術を教授すべきでは無かったのか。もし、弾圧に対し手をこまねいていたのなら、教会はその権威を守るため、あるいは高めるため、弾圧、殉教を利用したと言われても仕方ないのではないか。死んで神様になって銅像やレリーフになって何の意味があるのか。多くの犠牲者を出した責任は、勿論徳川幕藩制度、明治新政府にあるけれど、単にそれだけでは無いような気がする。
 もう一つは拷問に耐えかねて棄教した人々の扱いである。彼らに対する扱いは冷たいもので、まるで裏切り者扱いである。しかし彼らは棄教したわけではなく、虐待に耐えられなかっただけであり、命は永らえたものの、自らは精神的に極限まで落ち込み、それでも
頑張っている仲間達に夜陰に紛れて食料などを届けたのである。勿論以前にも増して祈りを続けたのである。私は彼らこそ救われるべきであり、生きて信仰を貫くという真の宗教者ではないかと思う。今でもって彼らの名誉を回復しない教会は一体何だ。私はどうしても理解できない。イエスが生きていたらなんと思うのだろう。無神論者の私が言うのも何なんだが、、、、、、。
  津和野城は津和野の街やとい面の国道九号線から見ると、凄い山上の城でとても魅力的である。高取城(奈良県)、佐伯城(大分県)、萩城(山口県)などその石垣が城下町から見えないのに、この津和野城はしっかりとその偉容が望まれる。稲成神社に行く坂道の途中に中国自然歩道の大きな看板があり、その横に木で作った階段が尾根を登っている。Img_4322_1 Img_4293

どう見ても看板の左の道を登るはな。やがて道はこうなる。高度なルートファイ )などの山城特有の防御施設の跡を登っているようだ。やがて中国自然歩道のきれいな道に出合う。なんだ登ってきた道は中国自然歩道では無かったのだ。それにしても紛らわしい看板だ。すぐ右手に出丸跡が現れる。ここは本城を守る、防御の要である。ここから250m近く尾根を伝うと、東門、三段櫓、馬立、台所跡などがある。どこの城跡も同じように瓦の破片が落ちているが、ここには普通の黒瓦に混じって、茶色の瓦が落ちている。いわゆる石州瓦というものだろうか。民家も城下から山口市までの範囲に茶色の瓦が主流となっている。左手上に天守台があり、その上段に太鼓丸跡、世間台などがある。天守台より上にこれらがあるのは珍しい。ここからの眺めは最高なのだが、丁度雨が降ってきて、雷の恐怖のため早々に下ることとする。Img_4297
Img_4298Img_4303




左:出丸跡  中:出丸から本丸への尾根道  右:東門から三段櫓跡Img_4317 Img_4321

大手登城道沿いに残された城壁用の石材
大手登城道登り口、正面の森に入ってゆく。



 天守台から降りる際に、「こんにちは」と声を掛けられる。みると先日宿泊したペンション津和野のご主人だ。今日はボランティアのガイドだそうだ。このとき城跡を訪れていたのは私と彼らのグループだけであった。下りはリフト、自然歩道、来た道の他に大手道というか、登城の道がある。すかさずこの道を選び、下り始める。杉林の中をジグザグに下ってゆくが、古い石段や運び上げる途中の石材などもあって、それらしい道である。伝統工芸舎の駐車場に飛び出て、よく見ると小さな案内看板がある。降りてきたからわかるものの、登る際には気がつかなかった。
Img_4306Img_4307  Img_4308




 
左:天守台  中:三十間台  右:太鼓台から津和野の街

 西周(にしあまね)旧居に寄った後、津和野温泉あさぎりの湯に行く。前回落雷で中途半端に終わったので、今日はゆっくり入ることとする。かつ  てこの地に日本一の間歇泉があったのをご存じだろうか。私は知らなかったのだが、ペンションのご主人が教えてくれたのだ。10分間隔で50mもの間歇泉が吹き出していたそうだ。温泉を掘っていて出てきたそうだが、酸度がきつくて、周りの農家や鯉にまで影響するというので、封鎖したそうだ。道の駅ができる前まで数年は公開しており、行きつけの酒屋で観光協会の絵はがきを手に入れることができた。素晴らしい間歇泉だ、なんとか再開できないものか。とにかく今では、幻の間歇泉である。Img_4334
  夜は天気予報に反して大嵐となった。

幻の大間歇泉の絵はがき

 走行距離12Km  累計8,637Km  経費1,285円

★民宿星旅館 津和野駅前 一泊二食7,000円 家庭的、民宿らしい民宿。元気なおばちゃんがトレードマーク、洗濯もしてくれた。晩酌に非売品の地酒頂く。

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長門峡自転車で踏破 4/15

2007-04-22 | 旅行記

 2007.4.15(日)曇り後晴 
   
 7:00 起床 
 8:45 山口YH発~R9~長門峡~県道293~県道310~県道11~R9~
野坂峠~
16:20 民宿星旅館(津和野駅前)着

  山口YHは素敵なホールがあって、本格的な絵画や彫刻が飾ってあり、おしゃれな空間である。食堂の書架にもありとあらゆる書物が並んでおり、一週間ほど滞在して読みあさりたい気分である。昨日はマンドリンの練習会が開催されており、今日はクラシックのコンサートが執り行われるそうだ。朝食のパンは自家製で、残った数枚を包んでいただいてゆく。Img_4240_1
 9号線に出るとすぐに登りとなる。ヤッケを脱ぎ、長袖ジャージを脱ぎ、半袖となったところで木戸山トンネルとなる。歩道のない長いトンネルで、いつものトンネル完全装備で臨むが、意外と簡単に越えてしまった。長い下りをガンガン行くと長門峡入口の道の駅に出る。長門峡は中原中也の「冬の長門峡」の舞台で、是非とも訪ねてみたいところであったのだが、実は難点があったのだ。渓谷沿いに遊歩道が5Kmあまり続いており、往復すると10km歩くこととなる。一番奥の紅葉橋、竜宮淵からは県道が続いており、帰ってくる必要はない。要は自転車で行ければ効率がいいわけだ。入口の道標には諸車通行止め、軽車両除くとなっている。なんだ自転車は行けるのだ。すいすい乗って行けるのだが、日曜日とあって歩いている人はかなり多い。「すいません、ごめんなさい」と謝りながら進んでゆく。500m程行くと、人影は少なくなる。ところがだ、道は段々狭くなりついには歩くようになり、淵のところは断崖絶壁となる。本当はここで引き返すべきであった。Img_4245_1 Img_4246
Img_4250_1




左:気持ちの良い渓谷 中:段々狭くなる遊歩道  右:ただの倒木が大障害

 あの人混みの中を帰るのが嫌で、行けるところまで行ってみようということとなる。
淵のところは断崖の岩をくりぬいた感じで、遂に自転車は通らなくなる。ところが知恵というものは湧いてくるもので、両脇のサイドバッグを右側に寄せる。荷物がはずれて川に落ちたらそれまでなので、カラビナで固定する。それでも押したり引いたり担いだり、探索は冒険と代わってくる。途端に周りの景色が変わって見える。美しい淵やゴーロが恐ろしく不気味に見えるのだ。倒木があったり階段があったり、えらい目に遭いながら鈴ヶ茶屋に着く。丁度中間点になり、もうこうなると戻るわけにはいかない。腹を決めてパンの昼食をとる。パンと水だけだが、生き返るようだ。
 少し行くと青洞門まがいの岩のトンネルが現れる。ここで自転車が通れなかったら戻るしかない。大丈夫、なんとか通過できる。Img_4251Img_4253  Img_4257




左:鈴ヶ茶屋、少し開けてほっとする。  中:最初のトンネル  右:やっと紅葉橋が見える。
 同じような淵をいくつか通過し、やっとの事で紅葉橋の紅い姿が前方に見える。助かった、なんとか踏破出来そうだ。ところが橋にたどり着くとそこには無情にも通行止めの看板がある。もっとも通行止めでなくても、橋までは十数段の階段で自転車はあがれない。やむなく竜宮淵まで600m頑張るしかない。
またしてもトンネルがあり、竜宮淵から来る人に会う。なんとなく安心感が湧いてくる。
あと少しなだけに、ここで通過困難な状況となったら、5kmを戻らなければならないという不安が大きい。幸い、障害物はなく竜宮淵の終点に着く。みると靴もタイツも泥だらけで、自分自身良くやったなあと感心する。長門峡発電所で記念撮影、自転車で長門峡を踏破したのは、ひょっとしたら初かな、などと一人ご満悦。Img_4258 Img_4260 Img_4263





左:紅葉橋は通行止めだった。 中:二つめのトンネルが見える。 右:最後の難所

 湯ノ瀬温泉から右に登る峠は、名前は解らないがえらい急登で、車も通らず心細い。
落石の跡がいっぱいあり、耳を澄まして登って行く。かつて清滝の林道で、上部の林でバキバキと音がしたと思ったら、目の前に20cm大の岩が落ちてきたことがあるのだ。幸い岩の音は聞こえなかったが、峠付近で谷底でバキバキと音がする。獣か人か、結構大きいもののようだが目をこらしても姿は見えない。気味悪くなってあわてて峠を越える。Img_4268 Img_4269
 
長門峡踏破してご満悦、右は名もない峠


県道をつないで9号線に戻る。国道の通行量に飽きて、願成就温泉の道の駅手前で左の間道に道をとる。すぐに国道に戻ると思いきや、段々左に離れていく。そのうち津和野町の古い道標が現れ、快適な下りとなる。戻るのも面倒なのでどんどん下る。少し不安になってきた頃に、杉木立の間から津和野の街が見える、よかった、それにしてもいい峠だ。車で来て写真を撮っている人も何人か現れてきた。山口線の線路を越え、森鴎外記念館のあたりに出て、憶えのある大橋にたどり着く。そこで正面の山に異常な煙を発見、橋のあたりも大勢の人だかりで山の方を見ている。これは火事だ、えらいところに出くわしたと思った途端、大橋と並行している鉄橋を汽笛を鳴らしながらSLが通りすぎていった。C57、SL山口号の最終便だ。カメラを構える暇もない。目に焼き付けておこう。
 なお、下ってきた峠は野坂峠と言って旧の9号線ということである。津和野に行くならこの峠だ、いい峠である。Img_4275

野坂峠下から津和野の街


 なお、中原中也の詩で最も好きなのは「ゆやーんゆよーん」でもなく、「いとしめやかになりました」でもなく、次の一節である。山羊の歌、無題Ⅲ。

 かくは悲しく生きん世に、なが心
 かたくなにしてあらしめな。
 われはわが、したしさにあらんとねがへば
 なが心、かたくなにしてあらしめな。

 かたくなにしてあるときは、心に眼
 魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
 なごやかにしてあらんとき、人みなは生まれしながらの
 うまし夢、またそがことわり分かち得ん。
  おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
 悪酔の、狂ひ心地に美を索む
 わが世のさまのかなしさや、

  おのが心におのがじし湧きくるおもひもたずして、
 人に勝らんこころのみいそがはしき
 熱を病む風景ばかりかなしきはなし。

走行距離66Km  累計8,625Km  経費1,000円

★峠列伝(41)木戸山峠333m R9山口市、阿東町境 約6Km 困難度 3  景色 2  水場 無し  旧道木戸峠309mの西にあり、交通量多く、走りにくい。峠もトンネルも歩道無し。

★峠列伝(42)長門峡竜宮淵の先、湯の瀬温泉から県道310に抜ける峠   
困難度4 景色3 水場無し   細く、急坂、交通量ほとんど無し

コメント (1)
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