2007.5.13(日)曇り後快晴 風有り
7:00 起床
9:05 公共の宿神原荘発~かぐら街道~吉岡銅山笹畝坑道(ささうねこうどう)~旧広兼邸(きゅうひろかねてい)~ベンガラ館~史料館~県道33~用瀬嶽フリークライミング広場~R313~市道~
17:30 公共の宿神原荘着
銅鉱山町吹屋は高梁では最も人気の出てきたエリアである。日曜日の観光地はあまり好きでないのだが、この好天では行かにゃなるまい。行くところ総てが独占で贅沢な旅をしているせいか人の多いところはどうもつらい。それとお馬鹿な観光客が大きな声で話しているのが耳に入り、しらけてしまうのだ。例えば高知城の日曜日、板垣退助の銅像の前で「この人が、このお城作ったの」なんてほざくおばさん。お前知ってるやろ、100円札!!
今日はベンガラ館で、ベンガラを粉にする水車の粉着き場で、「おかあさんなにこれ?」「お米でもついとんじゃろう」ベンガラ工場で米ついてどうすんねん。吹屋資料館で若いカップル「吹屋ってなにやさん?」みな、出直してこい。ついでにもう一つ床鍋の学校宿であった20代のカップル、館長が得意の怪談をやっている。「平家の落人がね、、、、」「へいけってなんですか?」「えっ知らんかえ、平家ってのはねえ、平清盛がね、、、、」これじゃ怪談にならない。ところが彼女、カラオケが始まると古い歌うまいのよね、もうちょっと古いことも勉強してね。
吹屋を訪ねるその日の朝、石見銀山の世界遺産登録の延期が諮問されたとのニュースが入る。仁摩の城福寺の住職の予想というか情報が当たっていたのだ。普遍的な価値の証明が不十分であるという、わけの解らない理由だが、政府が推薦した事項に対しては初の延期勧告ということだ。頑張っていた町の人々ががっかりしているだろうと思うと、気の毒な感がする。しかし私個人はわけのわからん観光客がどっと来るよりも、本当に町の良さの解る人が静かに訪れることができる方がいいと思う。大体世界遺産って騒ぎすぎだよ、観光地も起死回生の手段と考えずに、地道に町づくりを考える方がいいのではないか。登録から漏れた場合、石見銀山が今後どのような方向に行くか、私は楽しみである。
吹屋の街並みも石見銀山よろしく街並み保存に頑張っている。ここの特色はベンガラである。鉱山の副産物といえるベンガラが巨大な富を生み、広兼邸や西江邸などの豪邸を造り出している。街並みはベンガラで統一されていて、逆に総ての家がベンガラで塗られていたのか不審を抱く。写真は多く残っているのだが、白黒なので解らないのだ。
ベンガラの街吹屋と笹畝坑道の四ツ留
まず笹畝坑道に入る。吉岡銅山の支山であるが、上手に保存してあり、石見銀山龍源寺間歩よりも臨場感があっていい。ただ、あの人形は意味がない。それよりも文字による説明を増やした方がいいと思う。坑道を公開する意味は何か。往時の鉱夫、いわゆる堀大工や堀子がどのように働いていたのか、鉱山というものがどのように開発され、維持されていたかを解りやすく説明すべきではないか。ただ洞穴を歩かせるだけでは、何の意味もないのではないか。出口の上部に露頭(鉱脈が地表に出ているところ)があり、試堀の跡も残っている。興味が無いのか、誰も登ってこない。また、下り道には床場(精錬所)の跡もあり、沢山のからみ(精錬後の残渣)が残っている。
坑道の中と露頭跡
続いて鉱山の経営とベンガラの製造で巨万の富を築いた、広兼邸を訪れる。その途中、狭い道の上部に、金精神社(こんせいじんじゃ)を見つける。東北ではいくつもあった金精さまがこの地にあるのだ。関東以西では初めてである。旧知の友に出合ったような気持で、急な階段を登って行く。そこには遠野で出合ったコンセイサマが鎮座されていた。周りにはお礼に納められた大小新旧の陽物が納められている。いやあ懐かしい。その右傍らに細長い祠があり、これまた立派な木製のコンセイサマが鎮座されている。男だけでは寂しかろうと、連れ合いまで奉納してあり、なんともありがたいことである。出雲大社でも賽銭は納めなかったがさすがにここでは少しばかり納めてきた。吹屋を訪れる方は必ずここを訪れて欲しい。村の人に聞くと、かつて東北から分祠のような形で神主さんが来て祀ったということだからやはり元は東北地方のものらしい。駐車が出来ないので、笹畝坑道の駐車場に置いて、徒歩で行くといい。金精神社まで1Km、広兼邸まで2Km程である。
お礼の奉納と珍しい木像
広兼邸は映画八墓村の多治見家となっている屋敷で、見ればあああれかと思いつく建物である。峠を越えて、山の中に城郭のような建物と石垣を見ると、異様とさえ思われる。特に石垣はまるでお城同様で、算木積と打ち込みハギの石垣が華麗なカーブを描いている。
石垣は3分の2は土に埋まっているそうで、全容が出現すると、将にお城なみとなる。不寢部屋、門番部屋を持つ楼門をくぐると、正面に母屋、右に離れ、蔵、左に下男下女の長屋、牛馬屋や農作業場など細長い造りとなっている。巨大な石垣の材料をどうしたかというと、屋敷の土台となる岩盤を削って作ったということである。屋敷の裏側に回ると、切り崩された後の岩壁で、その岩が石垣となっているのだ。部屋数は50いくつと放送していた。多いときは30名程度が居住していたということだが、この屋敷には井戸が無い。母屋の左端に水汲み場があり、岩盤から水が湧いている。湧き水だけで間に合うのだろうかと思うが、常に切れることのない湧き水だそうだ。宴会をするときは神戸から芸者衆を呼んだと言うが、お金持ちというのは私たちの想像を絶するところにあるものだ。
お城のようなカーブの石垣と全景
京都市北部、北山の家々はベンガラで塗られている。丹波の私のふるさとでも玄関の柱などはベンガラで紅く塗られていた。インド、ベンガル湾に由来するこの紅い染料は京都に住む者にとって懐かしい色だ。赤といっても上品な赤で、決してけばけばしくない。祇園花街で見かける薄赤い壁もベンガラの様である、そのベンガラがこの地で作られているのは知らなかった。吉岡鉱山から出る廃物の磁硫鉄鉱から偶然に産出されたベンガラが、ほぼ独占的に吹屋で生産されていたのである。それは昭和49年までと言うから、ついこの間までの事である。ベンガラ館では明治時代のベンガラ工場を再現し、その製法を展示している。ベンガラ、紅い色で心が落ち着くというのは、不思議な染料である。
ベンガラ工場とその内部
吹屋の街並みはベンガラで統一され、落ち着いた風情を醸し出している。最近では過疎化が進み、空き家が増えて困っているそうだ。町が買い取って補修をし、展示をしているそうだが、これ以上過疎化が進むと維持が難しくなりそうだ。
郷土館はあまり面白そうになく、無料の資料館に行く。三菱吉岡鉱山の沈殿池や廃泥堆積場、その決壊の様子などの写真があり、鉱毒被害の一端が垣間見られる。この銅山に置いても鉱毒被害、煙害などの公害があったと思われるが、他の鉱山同様、公表されることは無かった。
四ツ留に 鉱夫迎えし 藤の花
空の青 ベンガラの紅 藤紫
緑青に 先人の汗 坑の藤 うとく
今日は井倉洞、備中松山城など訪問予定だが、吹屋だけで2時を過ぎてしまった。諦めて、成羽川沿いに降り、西江邸、夫婦岩、用瀬嶽フリークライミング場など見て帰ることとする。西江邸は広兼邸同様、鉱山経営で財をなしたところの豪邸である。吉岡銅山跡は
道標が見つからず行けなかった。
成羽川沿いは石灰岩で形成されており、あちこちで採鉱されている。その一角に用瀬嶽フリークライミング場がある。王子が岳のような花崗岩のボルダリング場を予想していたのだが、石灰岩の壁を登るものであった。小屋やキャンプ場を備えており、このような施設は珍しい。来場している車は、大阪、なにわ、神戸、愛媛などのナンバーも見え、人気があるようだ。登っているところを見たかったが、時間的に合わなかったようだ。
対岸から用瀬小屋、右はフリークライミングルート
少し下ったところ超スピードで走っていたところ、あっと言うものを見つける。2,30m行き過ぎたのを戻ってみると、それは木口小兵の生家という案内板だ。4月17日浜田城を訪れた際に、木口小兵の像があり、岡山県の出身云々と記されていたのだが、まさかこの地であったか。コンセサマといい木口さんといい懐かしい感じがするものだ。その生家は対岸のやたら高い山の中腹にある。勿論登って行く度胸はない。下から写真を撮ってお別れする。
宿に帰るともう5時を越えていた。高梁市内は明日覗いてみよう。
走行距離75Km 累計10,123Km 経費2,265円