晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

神社の変遷 1/6

2010-01-06 | 歴史・民俗

2010.1.6(水)曇

 正月のニュースに京都市中京区の御金神社(みかねじんじゃ)というのが出てきた。お金にまつわる神様というので、金融関係者のみならず老若男女で賑わっている映像が紹介されていた。株で大儲けしたいとか、宝くじが当たりますようにとか欲の皮の突っ張った絵馬が奉納されていた。主祭神が金山彦命ということで金属に関係があるのかと調べてみるが、その地が金属、金属加工に関係があるとは思えない。金山彦命は金属(metal)、元々は銅の神様であり、決して金(money)の神様ではない。黄金色の鳥居などを見ると単なる受け狙いで、古来からの地元に根ざした、歴史的な価値のある神社とは思えない。
 自転車旅行中に白石市小原の材木岩周辺にゴルフの神様というのがあった。飛不動尊といわれ、空を飛んできたとか、災害の時飛んで厄を逃れたとか言われている不動さまらしいが、「飛」だからといってゴルフの神様とはつらいものがある。Img_1441 Img_1456

小原の材木岩にある飛不動尊跡地と現在の地


 これらは極端な例だが、神様は人間の都合によって変遷するということを以前にも書いた。例えば上林の浅原にある葛禮本神社は御金神社同様金山彦命を主祭神とし、かつては金属関係の神様として奉られたのだろうが、現在では万物生産の神ということになっている。かつては鉱業、冶金、製鉄などの金属業が彼の地に存在し、金属の神として機能していたのが、やがてそれらの民が去ってしまったり、農耕民として生活するようになると金属の神様は用なしとなる。そして農耕の神様、水の神様などにとってかわるわけだ。「古代の朱」松田壽男著にはその辺が詳しく載っており、水銀の女神ニュウズヒメがミズノハメ(水の女神)に変わり、さらにオカミ(雨の神)などと代わっていくというものだ。朱砂というのは露頭に現れているものを発見し、掘り進むが、水が出てくるとそれ以上掘り進めない、そうすると採掘の民は他の地で朱砂を探すか、その地で農耕民となるかということとなるわけだ。そうして祭神までが代わってくることとなる。葛禮本神社のように、霊験は変わっても主祭神がそのまま残っているのは良心的といえよう。Img_3224

葛禮本神社


 祭神はその地の民の信仰というだけでなく、政治的な理由や世の流行などにも影響される。このことは祭神をもって古代の歴史を探ろうとする場合、単純に現在の祭神について過去のことを判断できないということとなる。ただ金属神→農耕神・その他の神々という流れには逆進性は考えられないというのが救いでもある。

今日のじょん:夕べは寝てから二度ばかし唸っていた。面倒だから見には行かなかったが、何者か獣でも来ていたのだろう。ただ、階下で物音がしたので気にはなっていたのだが、朝の様子では何も分からない。雪があるときは侵入する獣が何であるか解るのだが、そうでないときは解らない。お金持ちになったら監視カメラでも買おうか。いずれにしても素晴らしい番犬になっている。Img_3534


番犬のつもりで飼ってるのではないけど、、、、   

コメント
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