晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

古代の生活を想像する(2) 1/20

2010-01-20 | 歴史・民俗

2010.1.20(水)晴

 部民(べのたみ)については、歴史の授業で習うのだが、実はよく解らない。五世紀の中頃になると、大和政権は河内平野の大規模な開拓事業や、巨大な前方後円墳の築造、あるいは朝鮮経営をめぐる軍事力拡充などのために、多くの労働力や技術者を支配掌握することが必要となり、そのために部民制をつくったといわれる。中略この部民制が全面的に廃止されるのは大化の改新であるが、手工業者は品部として残され、律令国家の体制に組み入れられるものが多かった。(綾部市史)とある。これでも納得することは不可能だが、とにかく、大和政権の都合によって帰化人などの特殊技術者が集められ、各地に定住したということだろう。日下部氏、弓削氏、日置氏は上林にゆかりの氏族と言えようが、綾部には漢部(あやべ)、八田部、物部、私部(きさいちべ)、唐部、三宅、など多くの部民があり、古代の重要な地域であったと思われる。このような部民について考えるとき、私たちは例えば弓削部は弓矢を作る専門家、日置部は日神祭祀の専門家とかいうふうに、分業的な特殊な技術の専門家という風に考えてしまう。だから上林の3部民についてどのような特殊の技術があったのか調べてきた。ところがだ、様々な書物を紐解くと日下部氏も弓削氏も日置氏もすべて製鉄や冶金、採鉱に関係があるのだ。それどころか物部氏も漢部氏も製鉄などに関連しているのである。これは一体どういうことだろうか、弓削氏は弓を作っているんじゃないのか、漢部は織物の専門家じゃないのか、日置部は大陽の祭祀をしていればいいのではないかと思うのが普通だと思う。今読んでいる忌部(いんべ)についても、忌部氏といえば天皇家の祭祀ばかりをしているのかと思えば、伊勢・筑紫の忌部は製鉄に深く関与しているとかの文章が出てくる。つまり部民とはどの部民も大なり小なり金属の精製に関係しているようだ。Img_3106

睦寄町草壁

 ここで、わたしたち(わたしだけかも知れないが)が陥りやすい、古代の部民の生活について考えてみよう。部民とは渡来の近代的技術(当時の)を持ったエリートで、ヤマト政権から職を託され、居住と生活の保障された集団であり、特殊技能を分業として営んでいたという風に考えがちである。ところが冷静に考えると、各地に点在する部民の生活を保障し得る力が当時の政権にあったとは思えない。彼らが渡来であれば、その居住地ぐらいは与えられたかも知れないが、生活といえば自給自足で、特殊技能によって作り出された製品も、貢物として捧げたのではないだろうか。これはわたしの想像でしかないが、それは部民に関する書物を見ても、彼らの実際の生活というのは未だ見つからないからだ。
 そう考えると、特殊技能集団といえども、根本には農耕があり、農耕をするためには金属、特に鉄の生産が必須だったのではないだろうか。つづく

今日のじょん:写真はじょんの夕食である。量的には私たちの食事よりも多い。よくこれだけ食うなあと思うが、数分で平らげてしまう。その前にはおやつ貰っており、その後には少量のご飯やおかずを食べている。ペットの専門家が目をむきそうだが、じょんの体重はずっと同じだし、肥満の様子も無い。それは朝夕の運動と、野菜の多さのようだ。キャベツ、白菜、人参、びっくりするような量の野菜が入っているんだって。Img_3786

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