2010.11.14(日)曇
昼食を済まし、持参のコーヒーを戴く。峠というのはその街道を自らの脚によってのみ往来した過去の人びとにとって、喜びにつけ悲しみにつけ最も感情の高揚した地点であろうと思う。藪入りで里帰りする丁稚どん、見知らぬ土地に嫁ぐ若嫁、女衒に連れられた娘さん、若狭から鯖の入った樽を背負い都に向かう行商人、丹波から炭俵を背負い浜に向かう炭売りなど悲喜こもごもあらゆる人びとが、それぞれの思いを万感にして峠を越えたのだろう。今は私たち以外には誰もいない峠だけど、眼を瞑ってそれらの人びとの光景を思い浮かべるのだ。
そんないつもの儀式を終え、再度尾根道を戻る。この尾根道にはいわゆる朝日夕日伝説があると言われている。それはとりもなおさず、金属の鉱脈があると予想されていることと私は思っている。日置側の斜面は植林、川上側は落葉の樹林とはっきり分かれている。川上の心ある方が倒木を伐採し、青いテープで道案内をしてくれているようだ。それでも来訪者の少ない道は見失いがちで、ふぉれすとさんのルートファンディングで鳥止まらずに到着。ここは490mのピークで宝型造りの塔があったと言われている。雑木の茂った広いピークで、塔があったとしてもおかしくはないが、それらしい跡は何もない。
塔の先端が尖っていて鳥がとまれないから鳥とまらずというのか。
その後、おなりのだん、おだらのだん、あんだら、むかんだらと一乗寺の伽藍があったと言われる平地を彷徨う。孟宗竹の竹藪で歩きにくいことこの上なく、展望がきかないので彷徨という言葉がぴったりである。仏教伝来と同時代に建立されたという寺院、それより時代は下るが重要な仏像や遺物が残されていたこの地域の発掘調査がなされていないと言うことはどう解釈したらいいのだろう。一乗寺縁起の古文書がまるっきり信憑性がないのか、それにしても宝尾から重文級の仏像など出ている以上発掘調査が行われてもおかしくはないと思うのだが、、、。
山の斜面に広大な平地があり、これが伽藍の跡というのだが、、、。
道なき道を東に向かって進んでいると、足下に茶碗などのかけらが出てくる、戦前まで住民が居住されていたと聞くから、それらしいものがあっても不思議ではないし、何もない寺院跡よりも臨場感が沸く。そして石垣や壺、石臼、手水鉢などが現れ、水場の跡も生々しい屋敷跡が現れる。これが弥兵衛屋敷と言われるものだろう。宝尾最後の住人かと言われていると聞いたが、この山上に一軒の家に住むと言うことがどのようなものか想像を絶する想いである。
茶碗などが落ちている。右は弥兵衛屋敷跡の石垣、柱も朽ちて残っている。
水瓶や手水鉢が残っているその上に、水源があった。
(奥の木の根もと)
少し行くと、墓場の跡があった。六地蔵とお供えの茶碗などが残っていたが、周辺に黒い位牌のような破片と錆びた蹄鉄が落ちていた。おそらく森林伐採作業に使われた馬のものだろう、人間と同じく墓地に葬られたのか、蹄鉄が魔除けなどの道具として使われたのか、いずれにしても馬が村に居たには違いない。
墓場の六地蔵か。蹄鉄と位牌かと思われる石が落ちていた。
そしてまもなく登ってきた日置坂に出合う。下山路は解っているだけに快調に下る。
あっという間に登り口に到着して、今回の山行を終えるが、一般の登山道ではなくて、複雑怪奇なルートだっただけに、同行していただいたふぉれすとさんに感謝申し上げる。というより、私一人ではとても行けなかったルートだし、行く気も起こらなかった山行であった。感謝。
今日のじょん:じょん語録(56)うらめしじょん
今夜は暖かいせいかじょんは仰向けにお腹出して寝ている。かみさんが、「うらめしじょんやなあ、バックライスなんて言ってたのは誰やったけ」なんて団塊世代以前の人間にしか解らないしゃれを言っている。「そりゃあ、ダイラケやがな」などと答えながら、上手く言ったもんだと感心する。
このスタイル、うらめしい~(10.12の写真)