2010.11.15(月)雨
先日廃村宝尾を探訪した帰りに、本章で書いてきた遺跡などを訪問し写真撮影してきたので御紹介するとともに、少し考察してみたい。
逆谷、馬ころがし
左:馬ころがし
右:逆谷(画面中央、右上から左下に下りている谷)
大唐内のこと(6)(2010.10.28)でその内容は述べたところだが、府道一号線を通るたびにここではないかと目を付けていた。今回川上の楽しい村づくりの会が作製された川上案内図を見て確信を持ったところである。上林側から永谷坂峠を越えて1Km弱の所にスノーシェードが現れる。その上は岩壁となっており、その辺りが馬ころがし(案内図では馬こかしと呼んでいる)である。その手前永谷川左岸に、馬ころがしの上部に遡る急な谷がある。これは左岸の谷の支流であり、本流は永谷川とほぼ直角に合しているが、逆谷(案内図ではさかさだんと呼んでいる)は永谷川とは逆の方向に流れている。典型的な逆谷である。
全国には同様の地形、同様の地名は沢山あり、どういう訳か鉱山、金属関連地が多い。その理由等は前回述べたので略すが、もちろん100%そういう結果になるとも限っていない。想像するに、山形県の吉野川のように大きな鉱山地帯にある逆川地形が鉱山労働者によって各地に伝承を運ぶこととなったのではないだろうか。或いは新たな鉱山を探す際のひとつのヒントとして経験的に逆川地形があったのではないだろうか。この川上の逆谷自体が鉱山、鉱脈とは言えないが、佐分利川流域がかつての重要な鉱山であったことは確かである。
廃村佐分利
左:瓦も残されている。
中:井戸跡
右:府県境はすぐそこ。
大唐内のこと(7)(2010.10.29)で紹介した廃村佐分利は永谷坂峠のすぐ先と言うことだった。川上案内図には角兵衛茶屋跡と記されているが、Wさんに聞いた渡辺姓の家はこれに当たるのだろうか。井戸の跡なども残っていると言われていたのでおそらく同一のものだろう。いずれにしても佐分利という地名で数軒の家があったと言うことである。国土地理院2万5千分1地形図では3軒の家が記されている。
この地点が佐分利という地名であったとしたら、旧佐分利村の最も端の小さな集落であるにもかかわらずその村名の元となっているのは、何かを思うのである。佐分利村、幕藩時代には佐分利組十七ヶ村だと思うが、その地名が佐分利川から来ているとしたら、その最上流にある佐分利が川名の元であってもおかしくはないが、佐分利の辺りは永谷川であり、やがて鳥谷になり、佐分利川となっているようで、なにか納得のいかない感がする。福井県の資料は何も持ち合わせがないので、雲をつかむような想像をしているのだが、資料館にでも行けば簡単に解ることかもしれない。今のところは佐分利、元は佐文とか佐分と呼ばれた地名がこの地域の重要な意味を持っているように思うのだが、、、。つづく
(大唐内のこと(9)は2010.11.12)
今日のじょん:朝のじょんはクンクンといつもと違う鳴き方をする。クワーンというあくびのような鳴き方もあるが、「オト~」と言うもんだから驚いてしまう。