2013.6.23(日)曇り
「知井村史」という美山町知井(現南丹市美山町)の郷土史がある。平成10年の発行だから既に知井村は無くなってからのことである。知井村史編集委員会という組織によって編集されており、いわゆる市町村の肝いりで発行されている郷土史とは少し趣を異にしているようだ。主に古文書の解読により、近世以降の知井の様子を具体的に表している労作である。
幕末の飢饉に襲われた農村の様子は様々な書物で断片的に語られているが、食い詰めて村を出奔し帳外となった人々のことを具体的に書いている書物にあったのは「知井村史」が初めてである。
食い詰めるといっても、食糧が無いというだけのことなら村を出る必要は無い。村を出てもやはり食料は無いわけだから。
山に入るといっても、山に食糧が豊富にあるわけじゃない。例え村に無い食糧が少しばかりあったとしても、村を捨てて山に入らなくても村に住んで山に食糧を取りに行けば良いはずである。
こんな疑問に「知井村史」は端的に答えてくれた。村を出た人々は食糧に困ったというより、借財に困ったわけである。
幕末には地方の農村にも貨幣経済が浸透し、年貢は貨幣で納めていたし(銀納)、村自体も多くの借財に悩まされていた。それは金を借りたというより、飢饉や災害で年貢が納められなかったために借財となったのだろう。
個人が村を出るのは、いわゆる夜逃げである、公には家出という風に書かれているが、この数が尋常では無い。
天保七年 15家、78人
天保八年 8家、37人
天保九年 3家、18人
天保十年 6家、17人
丹波の小さな村で4年間に150名もの農民が夜逃げしているのである。夜逃げであるからもちろん行き先はわからないが、家出人報告の文中に「酉年(天保8年)に残らず若州山中に引っ越しに仕り候」というのがある。山の中というのが相場となっていたのだろう。逃避行であるが故に行き先は山か人混みに紛れた都市部ということになるだろう。そして持ち物はといえば、着の身着のままと思われる。
残された村では家出人を帳外として処理し、残った財産を競売にかけている。すると借財を精算して、まだ余っているのだ。そのことは食糧に困ってというより借財のために村にいられなくなって、着の身着のままで夜逃げしたということを物語っている。だからこそもう村には絶対に帰れないし、どこの村の出だということも明かせないのである。つづく
【作業日誌 6/22,6/23】
6/22 草刈り(3-3)
6/23 草片付け、らっきょう収穫、1Kg漬け込み
【今日のじょん】
今日は上林川の鮎解禁日、念道では一人だけでなんだか寂しそう。
天気が不安定なのでワンコの来じょんは無いかなと思っていたら、一組の来じょんが有り感激する。しかもリピートであったので大変嬉しい。
クーくん、もうすぐ4才。かわいいですねえ。
小太郎4才は記念写真。
腿の所は染めてるんだって、おしゃれじゃねえか。