晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

進化する寿命延ウォーク-5 1/21

2019-01-21 | 寿命延ウォーキング

2019.1.21(月)曇り

 地下足袋を履いて河原を歩き始めたときは散々な歩行だった。つまずくは石は踏むは浮き石に乗るはで足はボロボロ、目線は足元から離れない。最も悲惨なのは足裏で石を踏んだときで、長いときは一週間ほど痛みが取れない。足裏というのは実は急所なのではないだろうか。
 人類の歩行の歴史はそのほとんどが狩猟生活だと考える。直立二足歩行のリスクを回避すべく進化を続けてきたとすれば、それは狩猟採取生活の間に違いない。例えば石器時代、縄文時代の狩猟における歩行を想像して欲しい。マンモスとまで言わなくてもイノシシや鹿を手製の槍で突いたとして果たしてその場で倒れるだろうか。野尻湖のマンモスは逃げ場の無い湖に追い込んだと言われているが、最初の槍を打ってから何日かかって追い込んだのだろう。イノシシや鹿だって今時の猟銃ではないのだから、何日も追ったに違いない。人類の行動を積算すれば睡眠が一番だろう。次は獲物を追う歩行が来るのではないだろうか。獲物を追う歩行こそが人類の歩行の基本だと考える所以である。

槍を打たれた獣はどんなところでも逃げていく。
 傷ついた動物は退路を選ばない、山であれ谷であれ、藪であれ河原であれどこでも走り続ける。追う人間も目を離してはいけない、数百メートル先を常に見続けていなければならない。足下など見ている隙に獲物を見失ってしまう。慣れとは恐ろしいもので何回も足下を見ることもなく、遠くを見て歩いていると、つまずくことも石を踏むことも、転ぶことも無くなってくる。そしてスピードを上げることも可能になってくるのだ。
 なぜそうなるのか考えながら歩いているといくつかの理由が見えてくる。ひとつは、かかと着地親指つけ根から親指で蹴り出すというウオーキングの基本が自然と出来ることである。

 この足の運びは革靴では無理であり、ウオーキングシューズでも習わないと出来ないものである。底の薄い地下足袋で足下を見ずにゴーロ(石がごろごろしている河原など)を歩くと考えなくてもできる。

ゴーロ歩きはこういった河原を1Kmほど歩く。
 それは足裏で地面の状態を察知し、障害物があると対処できる歩き方なのだ。多くのウオーキングの本にこの足の運び、荷重ラインのことは書かれているが、なぜそうなのかはどこにも書かれていない。今はっきりと解った、それは足底を守るためである。ではなぜ足底は守られなければならないのだろうか。
 裸足で野山を駆け巡る石器人や縄文人の足裏は革靴の底のように分厚く頑丈に出来ていると思っていた。ところがこれは間違いのようで、おそらく現在と似かよった状態だろう。動物たちの足裏を見ても肉球のあるもの、毛に覆われているものなどあるが実に軟らかく薄いようだ。蹄に変化しているものでもその間は軟らかそうだ。どの動物にせよ移動するためには地面の情報を得て筋肉を動かさなければならない。視覚で情報を得ることも出来るがその場合は脳の介在が必要となる。足裏で得た情報は直接筋肉を動かして走行や歩行を行っているのだろう。いちいち脳で考えていたら、たちまち餌食になってしまうしハンターは獲物を逃してしまう。そのためには足裏は繊細で軟らかい状態でなければならない。ゴム長の靴底のように分厚くなったら地面の情報を収集することは出来ない。だからこそ足底は守られなければならないのだ。つづく

コメント
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