2019.7.23(火)晴れ
大栗峠の現存の資料を年代別に並べてみよう。
石標(c) 1824年(文政7年) 左志こた 右わち 山田村世話人中
弓削・山田道分岐石標1824年(文政7年) 右ゆけ道 左志ろ下 山田村 助左エ門
上粟野道地蔵 1848年(弘化5年) 世話人 上林ユゲ川北 シコタ左堀
施主 村中梅原 ホドス岡本
石室の地蔵(左・a)1865年(慶応元年) 施主 ワチ川合村中 カンバヤシ志古田村中
同長野村中
石室の地蔵(右・b)? 右志こた わかさ 左ゆけ 城下
山田道取り付き道標 明治? 迷ワン
1824年の峠は石標(c)の位置で、現在の峠道(A)や石室は無かったと考えると三角道の矛盾や各道標の指し示す方向の矛盾がすべて解決する。地蔵さま(b)は年代がわからないので、A道が無い時ならC道の三叉路付近、A道が出来た後なら現在の位置から志古田道が登り着いた辺りに和知の方向を向いて立てられていたと考えられる。いづれにしても現在の石室の位置は後日移動させられたものと考えられる。
寛政11年(1799年)の丹波國大絵図には弓削道のみが記されていて、かなり古くから主要街道となっていたと考えられる。
当時の大栗峠想像図を描いてみた。
しかし元々の峠道は志古田道ー上粟野道と考えられる。それは田辺(西舞鶴)、若狭から京を繋ぐ最も合理的な峠道だからである。それはアプローチと距離、登高時間の問題で、あくまで徒歩を主体とした行程である。上記石造物の銘をみても志古田村が峠に関する主導権を持っていたのではないかと想像できる。
大栗峠が現在の位置ではなくて石標の位置、弓削道とショートカット道の出合、B,C道の交点(旧大栗峠と記す)であったとする根拠は石標の指し示す方向とその位置、地蔵さま(a)の指し示す方向の矛盾、峠に意味の無いショートカット道(C)が存在することがすべて解決するというものだが、現在最も高度が低い鞍部で最も峠らしい大栗峠はどういう状態だったのだろう。その部分が通行不能であったと考えられる。旧大栗峠より高い稜線が存在した、岩石などの障害物の存在が考えられ、そのどちらもあったかもしれない。いづれにしても現大栗峠(A道)は人工的な感が否めない。
右の地蔵さま(a)は何もかも知ってござる。
もし旧峠と同じ位の高さの稜線が走っていたら、それを取り除いた土砂は相当な量となる。その土砂はどこへ行ったのか。峠東に広がる平坦地、石室周りの小山が考えられるが、岩石説の方がより可能性が大きい。大栗峠からシデ山に向かう稜線、あるいは大栗峠の頭から南東に走る稜線を歩けば、その稜線上にチャートの岩塊を見つけることが出来る。大きなものでは直進が出来ずに捲いて通過するものがある。このような岩塊が大栗峠付近にあったとしてもなんら不思議ではない。つづく
※5月28日から連続で公開の短編小説は応募のため非公開としました、悪しからず。