晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

九州道路事情 4/8

2007-04-10 | 旅行記

 2007.4.8(日)曇り  道中17度 
   
 8:00 起床 
10:00 神湊スカイホテル発~R495~遠賀川自転車道~中間市~県道48号~
R3~スペースワールド~R199~
15:20 東横イン小倉南口着

  高い宿泊代を払って、憮然として表に出ると、隣の料理旅館の看板に「一客一亭の心でお迎えいたします」と大書きしてある。一人じゃ泊めないくせに何が一客だ。頼まれてもこんなところこねえぞ。
 日曜日の宿泊は東横インと決めている。3月までのサービスだが、3、950円なのだ。
4月からは3割引とか聞いている。値段はともかく、高速インターネットが各部屋で使えることがありがたい。ブログの更新はほとんどここでやっているが、少なくとも7日分はたまっているということである。小倉までの距離だからのんびり出発、のんびり走行となる。国道495号線の垂見峠に至る界隈は、匠ロードといって陶芸家、ガラス工芸家、木工など様々の工芸家がアトリエを構えている。流木アートなどもあって、時間があれば楽しく寄り道できるだろう。Img_4047 日曜日とあって自転車の走行も多く、声を掛けてくれる人も多い。垂水峠を越えて湯川山への登りも良いトレーニングの場となっているようだ。
 やがて遠賀川にぶつかる。真っ直ぐ行ってもいいのだが、右岸に楽しそうな自転車コースがあるので走ってみる。というより山崎君が「中間市は中間君のふるさとだから、酒の肴に寄ってきてよ」などとメールしてきたものだから、中間市にも寄ってみることとする。
遠賀川は大きな川で、ボート、野球、サッカー、野草摘み、ジョギングからフリーマーケットまで大賑わいだ。勿論自転車の走行も沢山いる。Img_4050 あっという間に中間市に着く。
Img_4051

遠賀川自転車道と中間市の証拠写真


 中間市 は30余年前仕事で訪れた街だが、全然面影がない。新しくて綺麗な街だ。もっとも県道48号線沿いしか見ていないが、、、、。なにか立ち寄って面白そうなものはないかと注意するが、何もない。証拠に郷社総社神社の写真を撮って先を急ぐ。すぐに北九州市となり、3号線を東進する。ところが八幡駅のあたりで、トンネルとなり急に自転車、人通行禁止となる。予告も何も無しである。最低、どうすりゃいいんだよ。やむなくバックし、北へ迂回する。すると自然とスペースワールドに到着する。こんなとこ来たくないのに、と思っていたらいのちのたび博物館というのがでてきた。そこで博物館の職員に道を聞く。親切に教えてくれるが、博物館を見る余裕はない。こんな事なら中間になんか寄るんじゃなかった。なんて言ったら中間君に悪いか。今度は国道199号線となり、結構迷いながらも、小倉に着く。今日の目的はブログの更新、夜中の1時まで頑張る。
  九州もあと一日なので、九州の道路事情など記しておこう。九州は道路が広い、南部では車も少ない。ブログの中でもかつては道路と車に対する不満や怒りが多かったと思うが、九州ではそれが影をひそめている。長崎県などは道路も狭く、福岡などは車も多い。私自身がこれらに順応してきたのも有ると思う。少々のことでは腹を立てることも無くなったし、イライラすることも無くなった。九州では歩道を走る必要も少なかったが、福岡県では歩道走行が必要であった。ところが、段差がきついのである。福岡特有のきつさである。ブレーキを掛け、腰を浮かして越えなければならない。3~5cm程度の段差か。目の不自由な方の黄色の誘導帯が設置してあるが、果たして目の不自由な人があの段差を越えられるのだろうか。ましてや車いすでは絶対無理だ、障害者対策もお役所仕事のようだ。
自転車走行については、九州は絶好である。近畿、最悪、自転車道を探せ。北陸、交通量多し、トンネル多し、走行注意。中部、坂道多し、トンネル多し、困難性高い。東北、道路狭し、交通量少なし、快適走行。北海道、道路広し、交通量少なし、快適。関東、最悪、
自転車道探せ。東海、交通量多し、自転車道探せ。沖縄、道路狭し、交通量少なし、快適。九州、道路広し、交通量少なし、快適。と言うところか。

 
走行距離60Km  累計8,422Km  経費15,058円

★峠列伝(39)垂水峠(100m) 福岡県、国道495号線 困難度 2
 風景 3  水場無し

コメント (2)
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金印の謎 4/7

2007-04-09 | 旅行記

 2007.4.7(土)快晴  道中最高17度 
   
 7:00 起床 
 9:20 福岡YH発~R3~県道59号(海の中道)~県道542号(志賀島)~
      金印公園~志賀島資料館~県道59号(海の中道)~県道538号~R495~
16:30 神湊スカイホテル着

  九州で最高の天気が訪れた。せっかく福岡市に来たけれどどこも行く予定はない。「博多に来たら、ここは行っておかないとあかんと言うところはどこですか」「博多ラーメンなら、この近所に天狗屋という美味しい店がありますよ」うーん、そんなもんか、地図を見ながら思案する。海の中道は博多湾の北方を志賀島まで10Kmのコースだ。志賀島はご存じ金印発見の地で、金印公園や資料館もある。これだ、福岡市営渡船で滋賀島に渡れば、海の中道を往復走行することもない。インターネットで調べると、渡船は人のみで自転車は乗せられないことが解った。海の中道を往復して行くこととする。
 福岡YHは今年3月にオープンした新規のYHである。廃業が相次ぐ中、貴重な存在である。YHのベテランのご主人が経験を生かして改築されているので、良くできた設備とレイアウトである。各部屋はツインのベッドでテレビ、タオル、歯ブラシ等があり、インターネットは自由に使用できる。洗面所に綿棒があったり、洗濯機が無料であったり(洗剤は有料)で嬉しい。そして一般的にいいことは、とにかく便利なところにあることだ。
竹下駅、国道3号に近く、隣がコンビニで、酒のディスカウントショップも徒歩1分である。別府YHが無くなったことは以前に書いたが、私がついこの間宿泊した桜島YHもYHの看板を取り下げたようである。なんとも寂しい限りである。
 福岡市は大都会だけあってか、他の九州の都市に比べてゴミが多い。そして交通量も多くて、交通マナーが悪い。総ての車がスピード出し過ぎだ。あちこちでクラクションの音が聞こえる。せっかちな性格なのだろうか。筥崎宮(はこざきぐう)の大きな鳥居と九州大を過ぎると名島に向かう市道を走る。名島に向かう都市高速の下あたりが最も汚く、
道路がゴミ捨て場となっている。名島には名島城跡、名島神社と名島の帆柱石という名所がある。帆柱石はカシの幹の化石で、香椎宮の伝説では神宮皇后の三韓出兵の際の船の帆柱が化石になったという。Img_4009 Img_4013

筥崎宮の大鳥居と名島の帆柱石


 海の中道大橋を渡るといよいよ海の中道で、土曜日とあって海浜公園へ行く乗用車が多い。海の中道海浜公園は巨大なレジャー施設で、遊園地、ホテル、マリンワールドなど色々楽しめそうだ。志賀島はかつては離島であったのだが、砂州と橋で繋がり、県道が走っている。Img_4021 Img_4046

海の中道大橋と海浜公園入口

志賀島の最も南のあたりに金印公園がある。天明4年(1784)に田の畦から作業をしている百姓により発見されたということである。魏志倭人伝に書かれている金印が実際に発見されたのだから、日本の歴史上最大の発見である。公園は海からすぐ急峻な斜面で、こんなところに田が有ったのだろうかという疑問が沸く。事ほど左様に金印の出所については、諸説有るようで、その理由は金印が単独で発見されたということから来ているようだ。大きな墳墓から出てきたとなると問題はないのだが、何もない田んぼから、ぽろっと出てきたもんだから、なぜそのような大切なものがそこから出てきたのかと疑問が出てくるのは当然かも知れない。隠匿説、墳墓流出説、金印偽物説などいろいろと有るようである。後からの調査で、金印発見場所が大きな墳墓であればいいわけで、大規模なトレンチ調査が何回か行われたようであるが、遂にそれらしいものはものは出てこなかった。金印だけがなんでもないところから出てきたのである。Img_4020 Img_4023
金印公園と金印のレプリカ


 金印には「漢委奴国王」と記されているのだが、私たちが歴史で習ったのは「漢の倭の奴の国王」つまり奴国(博多湾岸東南部の国)の首長に与えられたものとしている。ところが委奴をイトと読む説も出ており、伊都国(旧糸島郡)の首長に与えられたものという説もある。また、奴の読み方は「の」というのもあり、そうなると「倭の国王」ということにもなる。そのうえ、発見者と言われている甚兵衛なる人物は島には存在しないとか、
発見時期が矛盾するとか、様々な謎があるようだ。しかし、金印は本物で、魏志倭人伝の記述と現物が合致したことは事実である。これほどロマンはないだろう。国宝の金印は福岡市博物館に保管されている、金印だけが事実を知っている。
 志賀の島でもう一つの大事件は元寇つまり、文永の役、弘安の役である。文永の役では志賀島は主戦場ではなかったが、逃げ遅れた元の船が漂着し、捕らえられた220余人の首をはねたということだ。これを供養して、蒙古塚が造られている。弘安の役は、博多湾岸に強固な石塁が築かれていたため、すぐに上陸できず湾内に停泊し、迎え撃つ軍との戦いとなり、志賀島は主戦場となったのである。元寇絵巻物は歴史教科書でおなじみであるが、あの元軍の円い鉄の兜の本物が展示してあり、生々しい。Img_4028 Img_4039

蒙古塚と蒙古軍の兜


 今日は宿泊のあてがないので、早々に志賀島を離れ、東に向かう。福間、津屋崎で宿を探すが、つぶれているところ、満員のところなどで全然とれない。そのうち原野の中の一本道となり、宿やどころじゃなくなる。神湊でホテルや旅館、民宿も現れてやれやれと思う。看板で見つけた一軒目はつぶれていてだめ、二件目の民宿は一名では受けられないということ、飛び込んだ旅館も一名では泊まれないということだ。どこに行ったら一名で泊まれるのかと聞いたら、スカイホテルかロイヤルホテルしか駄目だそうだ。どうも旅館組合かなんかで協定しているみたいだ。やむなくスカイホテルに泊まる。高い上に、夕食は出来なくて、レストランも使えないというものだ。しかし、一人じゃ泊まれないとは、こんなところ初めてだ。4人じゃないと回れないゴルフ場みたいなもんだ。いまどきそんなとこないで。

走行距離83Km  累計8,362Km  経費4,966円
 
★神湊スカイホテル 一泊朝食 8,400円  リゾートホテルでツインの部屋だが、 値段がつらい。

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邪馬台国?を訪ねる 4/6

2007-04-09 | 旅行記

   2007.4.6(金)曇り一時雨  道中最高16度 
   
 7:00 起床 
 9:20 佐賀青年の家YH発~R34~吉野ヶ里歴史公園~R385~
16:20 福岡YH着

  今日は行き先が定まらない。最終的には門司に行くのだが、経路がいくらでもあるので迷ってしまう。とりあえずは、長崎街道を飯塚に行くか、筑前街道を博多に向かうか、吉野ヶ里で決めることにして出発する。天気予報は晴れであったが、すっかり曇り、薄ら寒い。面白くもない郊外の国道を寒さに耐えて走る。神崎というあたりで、例の恵比寿さまがあり、右手に本陣の案内がある。行ってみたいが、吉野ヶ里でどのくらい時間をくうか解らないので先を急ぐ。Img_3954
 吉野ヶ里歴史公園は国営で、とてつもなく大きな公園である。遺跡がいかに大きなものかが解る。広いだけに発掘された埋蔵物も天文学的な数字となる。甕棺だけでも3,000基というから、気が遠くなる。邪馬台国との関連で物議を醸し出す遺跡である。私は北九州説支持者なので、この遺跡は邪馬台国であると思っている。しかし九州にしても畿内にしても決定的な証拠は出そうにないので、永久に解らない事だろう。でもこういうクニであったことは間違いないだろう。Img_3971                                         Img_3985 Img_3967   





左:吉野ヶ里主祭殿  中:墓列、甕棺が並んでいる。  右:物見櫓、三内丸山より小さい

 驚いたことは九州で初の銅鐸が見つかっていることだ。銅鐸文化は畿内中心で、九州は銅矛文化ではないのか。しかも九州の銅鐸が中国地方の銅鐸に影響を及ぼしているということである。なにか政権が九州から畿内へ移っていったことと関連の有ることではないのか。もう一つこの遺跡で特徴的なのは物見櫓である。物見櫓というから物見櫓としての機能を思い浮かべるが、実はそれ以外に、あるいはそれ以上に重要な役割が他にあったのではないかと思う。例えば暦を造るための天体観測の起点とか、測量の為の目印とか、他の村との連絡用の塔であるとかである。登ってみると解るのだが、広い平野の真ん中にあり、周囲に高いものは見あたらないのである。あるのは遠く北方に背振(せぶり)の山々がある。吉野ヶ里の人々にとってこの山々が宗教的にも、実用的にもなんらかの影響を与えているに違いない。これで今日の行く先は決まった。背振を超えて博多に出よう。Img_3958
 売店で「魏志倭人伝の考古学」という本を買う。読んでから感想など披露したいと思うが、ここでまたしてもひとつの疑問が沸いてきた。弥生時代から古墳時代について日本には文字が無いので解らない部分が多いと言われるが、中国には後漢書などしっかり文章が残っているのである。土器や鉄器、稲作などどん欲なまでに大陸の文化を吸収してきた日本がなぜ漢字を輸入しなかったのだろう。中国においても文字は支配者だけの独占的なもので一般的では無かったのだろうか。
 意気込みはよかったが、東背振から峠を見上げてぞっとする。遙か上部を白い道が這っている。しかも東背振トンネルは有料で自転車が通れるか解らないのだ。民家がきれる頃に、背振山修学院がある。なんでもお経を経塚に入れる大きな大祭があるのを博物館で見た。そのうち雨がぽつぽつ降り出した。万事休すである。その時一台の乗用車が50m程先に止まり、おじさんが降りてこちらに向かってくる。「この上のトンネルは自転車が通れるか解りませんよ。旧道の坂本峠はとても登れる峠じゃないですよ」と親切に言ってくれる。実は私もそれを心配しているのだ。「通れるように頼んで、トンネルを通りなさい」ということだ。頼んで通れるものか解らないけど、とにかく行ってみよう。少し行くと料金表があり、軽車両等30円となっている。やれやれこれで大丈夫だ。道路は自動車用になっているので、傾斜はさほど無い。時間さえかければそう苦労することもない。やがて料金所が見えてきた。30円を払って領収書をもらう。数百メートルでトンネルだ。出口が見えているので短そうに見えるが、1、410mありトンネル用の準備をする。歩道はないが通行量が少なく、安心だ。トンネルを出て休んでいると、先程のおじさんが「よかったね、がんばってね」と言って追い抜いていった。私が登るまで待っていてくれたのだろうか。福岡側は古いままの道で、狭くて危ない。それでも強引に下って、あっという間に博多に着く。途中筑紫耶馬溪という渓谷があったが河床はまずまずだが両岸の岩壁が無く、耶馬溪らしく無かった。Img_3996 Img_3997 Img_3998




左:このあたりも低い鳥居  中:背振山修学院の登り口  右:見上げる峠道
走行距離60Km  累計8,279Km  経費6,082円
 
★福岡YH  一泊朝食3,980円  2007年3月オープンの新しいYH
設備完備でシンプルな配置で気持ちいい。場所は竹下駅近くで観光にビジネスに最適。  
 Img_4006
★峠列伝(38) 東背振トンネルの峠 困難度 3  景色 3  水場 無し
 約40分の登りであった。傾斜は緩いがしっかり登って行く、旧道の坂本峠は一級の峠だ。Img_4000 

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葉隠れの街 4/5

2007-04-08 | 旅行記

 2007.4.5(木)快晴 風冷たい  道中最高16度 
   
 7:00 起床 
 9:20 武雄YH発~R34~
13:45 佐賀青年の家YH着~県立博物館~佐賀城本丸歴史館~大隈記念館~
      佐賀市歴史民族館~長崎街道(旧古賀家、旧牛島家、構口橋、思案橋)
18:15 佐賀青年の家YH着

  出発時夫婦で見送っていただく、記念写真を撮って、 北方の事件が無罪確定し、新聞のトップ記事となっているのは単なる偶然なのか。Img_3908_1
 この通りは長崎街道が通っているのだが、勿論新道にはその影はない。脇道にそれて旧道を走ると、いろいろの遺跡や街道の面影が見えてくる。大町町の福母地蔵板碑や横辺田代官所跡、江北町のカンカン石など興味深い物がある。カンカン石は国道に「カンカン石200m」とだけ書いてあり、一体なんだか解らない。200m矢印の方向に行っても何もないので、玉葱畑のおばさんに聞く、「カンカン石はどこですか。」「あの山の向こうにあると」「カンカン石ってなんですか」「私にもわからんと」これは面白そうだ。やっと探し当てると、その珍石は江戸時代から長崎街道の名物となっており、記録や紀行文中に出てくるという。正式名称を鳴石といい、その正体は磁鉄鉱を含むサヌカイトである。灯籠やその台石などいろいろあるが、その中に一部分がたたかれてへこんでいる石があり、傍らの小石でたたいてみると、まるで鐘をたたいているように、カンカンと乾いた音がする。思わずニヤリとする、楽しい石である。
Img_3910Img_3918Img_3916  




左:福母地蔵板碑 中:カンカン石公園  右:カンカン石
 
 その少し先に日だまりの丘公園というのがあり、あまりに桜が綺麗なので、立ち寄って行動食を食べる。文字通り日だまりの中で老人ホームのお年寄り達が花見会をしており、楽しそうである。写真を撮っていると、古い地蔵様があり、これも長崎街道のなごりなのか。Img_3919
 宿の佐賀青年の家に着くと荷物を置いて、佐賀市内を逍遙する。佐賀市は落ち着いた街である。各地の県庁所在地を廻ってきたが、どこも雑然としていて騒がしいが、佐賀は静かで落ち着いている。自転車で走っていてもイライラヒヤヒヤすることはない。それに何より街が綺麗である。ゴミやタバコの吸い殻、空き缶など一切落ちていない。それが京都や大阪と違うところである。もう一つ気に入ったのが、宮崎県同様博物館などが無料なのである。長崎県がどこに行っても高かっただけに、余計感動する。博物館の隣に佐賀城跡があり、県立の佐賀城本丸歴史館がある。佐賀城本丸御殿を復元し、資料なども展示されている。本丸御殿とは藩主の居宅でもあり、為政の場でもある。大変立派な建物だが、使用されている材は杉なのである。普通は檜とかそれに準ずる高級材を使用するものなのだが、質素こそがこの藩のポリシーであったようだ。長崎の警護に多大の出費を余儀なくされ、自ずと質素にならざるを得ないのかも知れないが、参勤交代の人数を四分の三に減らしたり、藩主自ら一汁一菜を実践したり、念の入った倹約ぶりである。その実、蘭学を重視し、大砲や軍艦の作製や医学、科学の発展などしたたかな面がある。Img_3926
Img_3927
佐賀城本丸御殿 

 佐賀の七賢人というのがあり、筆頭は大隈重信だろう、江藤新平、副島種臣ぐらいまではどなたも知るところかも知れないが、じゃあ一体何をした人なのかというと、心許ないものである。大隈重信も何かと活躍しておられるのだが、早稲田大学(当時は東京専門学校)の創始者ぐらいしか解らない。明治の偉人と言えば、北朝鮮の高官みたいに重いほど勲章をぶら下げているのだが、大隈重信はひとつも勲章を着けていない。何でも勲章をやろうという時に「私は頑張っているが、隣のおやじも同じように一所懸命頑張っている。彼にも勲章をやってくれ」と言って、断ったという話を聞いたことがあるが、本当だろうか。佐賀城跡と佐賀市歴史民族館の間に大隈重信記念館がある。入館すればそのあたりのことも解ったかも知れないが、時間的に無理なので外から写真だけ撮って失礼する。
 佐賀市歴史民族館は旧長崎街道沿いの旧古賀銀行、旧古賀家、旧牛島家、旧三省銀行、そして二筋南の旧福田家など歴史的な建造物を無料で開放しているものである。時間的に内部を見ることができたのは旧古賀銀行だけであった。一階の半分が浪漫亭なるレストランになっており、大正ロマンあふれる店は人気が高いようである。その隣が旧古賀家で、向かいが旧牛島家である。写真を撮っていると、牛島家の隣の「富士の煙」製造元の末裔らしき、がばいおばちゃんが出てきていろいろと昔話を聞かせてくれる。なお、富士の煙とは、国独占となる前の煙草で、長崎街道の名物だったそうだ。Img_3940
Img_3932
旧古賀銀行とその内部

 がばいばあちゃんと言えば武雄市がそのロケ地として売り出しているが、それはテレビのロケだそうだ。映画の方は佐賀市が中心で、靴を買う場面や、古賀銀行で働いている場面など近所の人も総出で出演したそうである。お礼を言って出かけようとすると、目の前に恵比寿さんの像がある。そういえば長崎街道沿いには恵比寿像が沢山あると、博物館に展示していた。「これは長崎街道に前からあったものですか」「それがそうじゃないとよ。前の市長さんが、長崎街道にはこれがないといけんばってん、お寺にあったのを持ってきたとよ」歴史ってそんなもんか、偽物ではないからまあいいかとも思うが、なんとなくしらけてしまった。Img_3942
Img_3951
旧牛島家、隣が煙草工場跡、恵比寿さんも見える。
右は構口番所跡、道標と恵比寿さま。

 街道を象徴する二つの橋を見に行って、今日の仕事とする。ひとつは遊郭の手前にあった思案橋、名の通り行こか戻ろか思案するものらしい。もう一つは東構口橋、構口は宿場や城内の入口である。番所跡があり、こくら、ながさきの道標と恵比寿さんが並んでいる。いかにもという場所だ。

走行距離53Km  累計8,219Km  経費6,082円
 
★佐賀青年会館YH  一泊二食4,475円  設備古い、TV一時間100円

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黒髪山 4/4

2007-04-08 | 旅行記

 2007.4.4(水)晴れ  寒い 
   
 7:00 起床 
 9:30 武雄YH発~黒髪山~エポカル武雄~御船山~武雄神社~塚崎の大楠の木~      武雄温泉元湯~
17:55 武雄YH着

登山タイム
 乳待坊公園上の駐車場10:15~見返峠10;28~黒髪山山頂11:08ー11:28~駐車場12:08
 
 晴天の予報、今日は魅力的な山、黒髪山(518m)と御船山の山頂を目指す。九州に来てまともな登山が出来ていないので、今日は自然と親しむこととする。黒髪山は修験道の山で、榛名の黒髪大神と同様黒髪とは関係ないのではないか。榛名の場合は、闇龗神(くらおかみのかみ)つまり雨をもたらす龍神、水神が訛って黒髪になっているのである。従来、水は重要なファクターであるが、黒髪はそう大切なものでは無かったようである。
 黒髪山へは直接頂上直下まで登る車道もあるが、乳待坊(ちまちぼう、修験道の業場を坊と言う)からの道が、夫婦岩の物語も味わいながら登れて正解の登山道と思える。山内の町内に入ると黒髪山の岩峰が目につき始める。そしてもう一つの今日の主役は桜だ。九州のどこかで満開日に合うだろうと思っていたが、それが武雄だった。平戸も満開には違いなかったがなぜか花の密度が緩慢なのである。武雄の花は蜜である、やはり桜はこうでなくてはいけない。Img_3838 Img_3839 Img_3840








左:御船山  中:武雄神社 右:武雄神社池

 林道が切れる回転場所に自転車を置き、歩き始める。私はこういう岩の景色のある山が大好きなのだ。中国の墨絵に出てくる桂林のような山が一番である。岩峰の左側、最も大きい二つの岩峰が夫婦岩である。古場村の庄屋清助の一人娘お君とキリシタン新三郎の恋物語が、この夫婦岩を生んだ。右の大きな岩が雄岩、左の清楚な岩が雌岩ということである。
 夫婦なる 岩をとりもつ 花吹雪   うとくImg_3842

黒髪山の岩峰群、左の大きな二つが夫婦岩

 その鞍部が見返峠で、そこから尾根づたいに800m、最後に天童岩の鎖場を抜けると、黒髪岳である。この間は西国三十三カ所を祭った巡礼場所となっており、弘法大師をはじめ不動様やお地蔵様が祭ってある。登山道は沖縄などと違い乾燥しており、明るさがある。一人きりで登っていても不気味な感じは微塵も無い。山頂の天童岩は硬い岩の絶好のゲレンデで、かつてはロッククライミングが行われていたようである。そこかしこにボルトやピトンが残っており、ロッククライミングが禁止されたためか、そんなこと誰もしなくなったためか解らないが、最近登っている様子は無い。登山ルートは壁を右に捲いた鎖場となっている。山頂は360度の展望の利く、岩の広場である。そびえ立っていた岩峰群も遙か眼下となり、気持ちのいいこと限りない。陶磁器の里らしく陶器の案内板が埋め込まれている。Img_3854 Img_3864

頂上直下の天童岩と登頂の写真




 下りがけに雌岩に行く道があり、雌岩の山頂付近まで行くことができる。ここにも地蔵さんが祭ってある。見返峠から転げるように降りてゆくと、なん組かの登山者が登ってきた。なかなか人気のある山のようだ。下ったところに、いつものように白い愛車が待っている。

 あるぢ待つ 自転車に積む 桜かな   うとく

 乳待坊に降りると観光バスが登ってきており、おばさん達の賑やかいこと。急に現実の世界に引き戻されたようだ。ここからは夫婦岩の風景が抜群なので、写真を撮ってさっさと下りにかかる。Img_3868

夫婦岩と桜

登るときに見つけておいた黒髪の森温泉に寄ってみる。足湯と温泉スタンドがあるようなので、足湯で疲れを取ろうという算段だ。ところがいざ行ってみると、殺風景なところに殺風景な建物があり、本日休業の看板が立ててある。よく見ると足湯200円と書いてある。いままで沢山の足湯を見てきたが、有料の足湯は初めてだ。営業していても入らない。このあたりから国道にかけて、おしゃれな窯元が立ち並び、展示販売をしている、陶芸ファンにはたまらない地域だろう。
 武雄に戻り、次の目標は武雄の象徴、御船山だ。マチュピチュを思わせるあの風貌は魅力的だ。昨日YHで、「あの山は登れますか」と聞くと「登れますよ」と気安い返事、私は東にある公園から登山道がついているものと勝手に決め込んでいた。地形的にも、最も安易に登れるのはそのルートだからだ。武雄センチュリーホテル横の公園から登って行くが、やがて行き止まり、やむなく戻る。その隣の御船山観光ホテルに登って行く。ホテルの裏手に回ったり、民家の中に入ったり、苦戦をするが登山道は見つからない。その隣御船山楽園に行く、ここは有料なので、入口で聞くこととする。「御船山へ登る道は有りますか」「岩壁の下までは行けますが、それ以上行けませんよ」「御船山へ登る道はどこにあるのですか」「聞いたこと無いですね、岩壁はロッククライミングの人が年に何度か登ってますよ」地元の人が言うのだから、登山道は無いのかも知れない。諦めきれないで、山の周りを時計回りに回ってみる。不動尊や塚崎城石門など文化財があるが、結構荒れている。もう少し整備をして欲しい。がばいばあちゃんより大切かと思うのだが。
 登山道は諦めて、歴史資料館に行く。図書館と一緒になった施設で、入館は無料だが、資料は武雄における蘭学の資料のみで、少し物足りない。
 山の麓を一周しようかというとき、御船が丘梅林という案内板が目につく。登れなくてもピークに近づけるだけ近づいて諦めようと、自転車で登って行く。梅林が切れるあたりに登山道では無いけれど、切り開いた道が現れる。ロッククライミングの下り道にしては広く切り開けている。人が歩いている様子は無いが、道には違いない。自転車を梅の木に駐め、歩いて登りにかかる。すぐのところに古びた地蔵様がある。これは間違いないとどんどん登って行く。所々ピンクのテープが木に巻いてあり、目印になっているが、道は荒れていてついつい見失いがちだ。行きはいいけど、ちゃんと帰ってこれるか不安である。
東側へ乗り越すところに大岩をワイヤーで囲ってあり、平成18年工事と書いてある。どうやら工事用の道らしい、ここまでかとがっくりする。来た道を戻ろうとするとき、東側に下る道を見つける。下ってしまえばそれまでだが、ひょっとしたら岩場を捲いて頂上へ行ってないかと、辿ってみる。予想通り、危険な岩をコンクリートで固定しながら頂上へ向かっている。登山道ではないので、苦労する。枯れ葉が積もって滑る上に、倒木や岩場もある。難しさと心細さで黒髪山の比ではない。段々周りが開けてきて尾根に出ると、しっかりした踏み跡がある。岩の尾根を少し行くと、岩のピークに出て、祠が一つある。小さな山だけど、未踏峰に登ったような嬉しい気持が湧いてくる。諦めていたピークは沖縄の金剛林山と同様だ。地元の人が登山道は知らないと言うのも同じだ。360度の眺めはみんな知っているところばかりで楽しい。さっきまでうろうろしていたところが眼下に小さく見える。
 下りにかかると、すぐに来た道とは違う道に入る。そちらの方がしっかりしているのだ。
方向的には間違いないので、下って行く。岩の窟に風化した地蔵様がある。ここも信仰の山らしい。やがて先程の大岩のワイヤー工事の箇所に出た。なんだ最初から岩を登って行けば良かったのだ。それから先も来た道とは違うはっきりした道を下る。やがて稲荷社が現れ、石段となってきた。降りきったところは自転車を置いたところではないが、そこと50mと離れていなかった。解ってしまえばそんなもんだ。Img_3877 Img_3880 Img_3881





左:御船山楽園から御船山  中:荒れた塚崎城石門 右:山頂の祠

 満足して武雄神社の大楠を見に行く。期待はしていなかったのだが、なかなかの木で、感激する。写真に撮っても大きさが解らないので、観光のお嬢さんに私を入れて写真を撮ってもらう。樹根の空洞部分は畳12畳の広さで、天神様が祭ってある。塚崎の大楠も凄いですよと言われ、行ってみる。高さはともかく、根回りの大きさには驚く。ここも観光客の人に写真を撮ってもらう。大津からきた人で、長岡京のオムロンに勤めておられたそうだ。オムロンの知り合いを数人言うとびっくりしておられた。Img_3897 Img_3903

武雄神社の大楠と塚崎の大楠




 うどんで腹ごしらえし、今日も元湯に行く。山登りで疲れた身体にあつ湯がうれしい。

 はなひらも 湯に入りたがる 武雄かな   うとく

走行距離48Km  累計8,166Km  経費1,160円
 
★武雄YH  一泊朝食サービス3,300円 夕食1,500円  夕食、朝食ともすごいごちそうで、感激物。お風呂は温泉で設備は完璧、値打ちあるYH。

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佐賀県に入る 4/3

2007-04-08 | 旅行記

 2007.4.3(火)晴れ  寒い 
   
 7:00 起床 
 9:30 たびら平戸口YH発~R204~伊万里市~R202~有田町~R35~
16:00 武雄YH着~武雄温泉元湯

 いくみ嬢は10時頃出発ということなので、一足先にスタートする。夕べから強い風が吹いていたが、朝になっても冷たい風で、やたら寒い。日差しは暖かいのだろうが、風が冷たくて、真冬のようだ。今日も昨年12月と同様の服装で走っている。長崎の道は最後の最後まで狭かった。追い越し禁止の歩道のない道路で、大型車の通行も多い。島原を出てからアップダウンが続き、平坦なところがない。海か山の地形で平野部がないのだから致し方ないか。交通量が比較的少ないのが救いである。御厨(みくりや)と言うところに着く。変わった地名なので所以を知りたいが、田平(たびら)にしても御厨にしても松浦水軍(まつらすいぐん)のその土地土地の武将というか頭目の氏名のようだ。郵便局の同僚に御厨君というのがいたが、この土地の出身なのだろうか。平戸周辺で気になったこと二つ、ひとつは神社の鳥居が低くて太いのである。道産子のようにずんぐりしている。
極端なものになると腰をかがめて、くぐっていかなければ入れないぐらい低い。どうしてなのか聞こうと思いながら、聞けずに来てしまった。もう一つは集落の後に免(めん)と言うのが着いているのだ。野田免、大久保免などという類である。田平の駐在所やYHで聞いてもなぜか解らず、里田原の資料館で、多分ということであるが、平戸藩における行政区域の呼び名ではないかということである。奄美地方で言った間切りのようなものである。一応納得するが、肝心の平戸島にはそのような地名が見あたらないのである。ますます解らなくなってきた。
 松浦火力発電所のあたりで、松浦鉄道の一両車両がやってきた。地方路線の廃線が進む中この路線だっていつそんな話が湧き出てくるかも知れない。写真に納めておこうとシャッターを押す。よく考えればいくみちゃんの乗る電車だ。Img_3820Img_3822

松浦鉄道佐世保行きと松浦水軍像

松浦水軍ゆかりの城とか古墳群とか出てくるが、寒くて立ち寄る気にならない。雨の日や寒い日などに通過するところには大変申し訳ない。そうこうしているうちに伊万里市(佐賀県)に入った。するとどうだろう、同じ国道でもうんと広いのだ。どうも地形的なものだけでなく、力関係が作用しているように思えるのだが、いかがだろう。伊万里は陶磁器で有名だが、窯らしいものは一向に見あたらない。もっと東側に発達しているのだろうか。有田町に入ると窯や売店、展示場など陶磁器の街らしいものが次々出てくる。美術館、博物館など現れるが、どうも訪問する気にならない。焼き物は嫌いなわけではないが、芸術品がずらりと並んでいるのを
眺めて歩くのはなぜか気に入らないのだ。
 北面に大きな岩の見える山が出てくる。黒髪山の一部らしい。高くは無いけれど、魅力的な山だ。できれば明日登ってみよう。武雄(たけお)に着き、街の様子をチラッと観察する。なんとなく情緒のある街で、見所も沢山ありそうだ。宿を連泊にし、明日は一日町中を散策しよう。とりあえず今日は武雄温泉元湯に行く。辰野金吾という明治から大正時代の第一級の建築士、何でも東京駅の設計者だそうだが、彼の設計の楼門と新館があり、どちらも国の重要文化財指定だそうだ。元湯の建物も明治9年築の木造の建物で、レトロな雰囲気満点である。Img_3828_1 Img_3831
武雄神社の桜、丁度満開である。右は武雄温泉楼門

 

走行距離84Km  累計8,118Km  経費29,458円
 
★武雄温泉元湯 300円 源泉掛け流し 単純温泉(低張性弱アルカリ高温泉)
 ph8.2  51度 重要文化財の楼門が有名、お湯は明治9年設立の木造の建物にあり、あつ湯とぬる湯の二つの湯槽がある。石鹸、シャンプーなどは無いので用意すること。

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平戸満開 4/2

2007-04-08 | 旅行記

 2007.4.2(月)曇り 
   
 7:00 起床 
 9:40 たびら平戸口YH発~平戸城~平戸和蘭商館跡、常燈の鼻~オランダ埠頭、オランダ井戸、オランダ塀~松浦資料博物館~平戸観光資料館~旗松亭楽天の湯~六角井戸~うで湯あし湯~
16:40 たびら平戸口YH着

 いくみ嬢お出でなので今日は平戸界隈を散策することとする。平戸市街は適度に史跡などが存在し、ショップも観光客受けするように、それなりの町並みを形成しており、我々の世代で言うアンノン族に受けそうな街である。ただ現実的には歴史的なものをしっかり押さえて訪れないと、それが一体なんやねんという事になりかねないようである。メインとなるべき平戸城も現実に訪れてみると本来のお城の構造とはかなりかけ離れた感じで、随分乱暴な再建であるように思う。いくつかある櫓についても、櫓本来の構造は抹消されコンクリートで固めた単なる陳列フロアとなり、古い農具や地元の磁器陶器などを陳列している。鉄砲狭間にしたって、この位地にこの形で有っても意味がないのじゃないかと言うのもあり、お金をとってお見せする代物ではない。ただ一つ、石組みのままの鉄砲狭間があり、これはどこのお城でも見たことが無く、値打ちのあるものかと思う。平戸城は遠くで見るお城である。平戸市街からのお城はなかなか絵になるお城である。Img_3776 Img_3774

平戸城天守と石造りの鉄砲狭間






 お城の公園は桜が満開である。でも木が若いのか花がまばらで、あのもりもりっとした桜の感触が無いのだ。公園に山頭火の歌碑がある。「酔いどれも踊りつかれてぬ

満開だけどなにかもの足らない桜

 平戸における海外貿易の歴史は、私自身歴史で習ったことは間違いないのだけれども、長崎との関係、その脈絡など理解の範疇を越えていた。海外貿易の歴史について、平戸と長崎の地理的、時間的な相違を教科書で理解することは困難であった。「百聞は一見にしかず」という」ことわざがある。長崎、平戸と訪れて初めて、こういう歴史が有ったのだということを理解できえたのである。和蘭商館跡は現在発掘調査中であり、再建の可能性も随分あるようだ。井戸にしても埠頭にしても塀にしてもよくぞ残っていたものと思う。それは地理的な要因が大であると見るのだが、例えばこの地域、山と道と海と何百年たっても変わりようのない狭い地域なのだ。Img_3784 Img_3790
Img_3794




左:発掘中の和蘭商館跡  中:常燈の鼻  右:オランダ井戸
Img_3796Img_3791
オランダ塀にオランダ埠頭

 
 多くの文化遺産があり、案内や整備もしっかりされている、足湯や腕湯、立ち寄り湯の温泉施設も充実して、資料館や博物館の収蔵物も豊富である、しかし桜と同様なにか物足りないのだ。あまりに多くの観光資源があるばかりに、街としてのポリシーが見えないのではないか。強烈な長崎から来たばかりに、そのように思うのか、愛すべき平戸が散歩するだけの街になってしまってはとても淋しい。Img_3805 Img_3812
 
お城の見える露天風呂と腕湯・足湯

走行距離26Km  累計8,034Km  経費3,280円

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西日本縄文は東北を凌ぐか 4/1

2007-04-08 | 旅行記

 2007.4.1(日)曇り時々雨 
   
 7:30 起床 
10:00 たびら平戸口YH発~平戸口駅~平戸界隈~里田原歴史民俗資料館(さとた         ばる)~笠松天神社古墳~
17:00 たびら平戸口YH着

 今日は生月島に行くべく張り切って準備するが、どうも天気が怪しい。平戸は明日じっくり回ることとして、下調べだけにしておく。バスの時刻等調べに平戸口駅に行ってみる。
松浦鉄道は昨日から気になっていたのだが、島原鉄道以上の閑散路線である。第三セクターで経営されているそうだが、なかなか厳しそうだぞ。たびら平戸口駅は日本最西端の駅ということだ。鉄道博物館になっており、誰でも自由に見学できる。国鉄時代からの各種の備品などが展示されている。鉄道ファンにとってはたまらない品々であろう。私が一番気に入ったのは、鉄路自転車とでも言うべき代物である。こういう物で新幹線の線路を走ってみたい。 Img_3747
Img_3739
日本最西端の駅の碑と鉄路自転車(本当の名称は不明)



 県道19号線を走り出すと雨が振り出し、5分走っては10分雨宿りの状態となる。峠のあたりに冨春園という、日本におけるお茶の栽培の創始と言うべき茶畑がある。臨済宗の創始者栄西が宗から茶の種を持ち帰り、初めて栽培しここから喫茶、いわゆる抹茶の飲み方や栽培の法が広まったという。それにしてもなんとも荒れ果てた名跡で雑草の中に伸びきった茶の木がゴミの中でもの悲しい。言ってみれば茶道の根源のような聖地ではないか。ぼろ儲けしている茶道の家元がその何千万分の一かを投じれば、永久に日本におけるお茶の始まりとして保存できると思うのだが。私が裏千家、いや表千家、いや横千家の家元ならそうしますなあ。臨済宗のお寺もちょっとぐらい気が付けよなあ、旅の乞食僧でもそう思ってんだぜ。Img_3743

冨春園、手前にはゴミが捨てられ、右手の茶は伸びきっている。

  峠を下り、もう生月島は諦める。さっさと帰って温泉でも浸かろうと川内を回るべく急ぐ。右に半元キャンプ場を見たところで川内峠への道がある。これは近道と峠道を登る。このあたりから雷がひどくなってきた。雷が鳴ってるのに高いところへ急ぐのは、何か矛盾している。右川内峠、左木引という分岐が出て来た、木引ってどこだか解らないが、とにかく下りだ。ガンガン下って民家の駐車場に飛び込む。一時間ほど雨宿りするが、ここが一体どこか解らない。友川君に電話する。「木引と言うところにいるのだが、この道を下るとどこに出るんだい」「そういわれても解りませんよ」「西海岸か東海岸か」「多分西海岸と思います」「そうかわかった、赤ん坊の声がするなあ」「12月生まれちゃんです、女の子」「おめでとう、よかったなあ」、、、、、訳のわからん会話である。小降りになったので目の前の道を下る、ものの五分で先程雨宿りした道に飛び出す。人生ってこんなもんか。
 帰ることに決めたら、やたら晴れだした。田平町に戻ると里田原(さとたばる)の遺跡に出合う。縄文後期から弥生時代の遺跡なのだが、湿地帯のために多量の木製品の出土をしているのだ。旧石器、縄文、弥生の遺跡を考える場合文書がないのだから石器、土器、木器などの出土品に頼るしかない。ところが木製品は一般的に腐ってしまうため、出土することは難しい。木製品が残るにはごく希な自然条件が必要である。ところが条件が揃ったところには夥しい木製品が出土する。考えてみれば石器、土器よりも工作が簡単で原料の豊富な木製品は数量的にも最も多いはずだ。この里田原遺跡の出土品を見ていると、東北や北海道の縄文文化の隆盛が西日本を凌いでいたという定説がどうも怪しいと思えてくる。三内丸山遺跡で、なぜ気候の厳しい東北に縄文文化が花開き、温暖な西日本はそうでなかったのかと尋ねたとき、「雪の降る東北は狩猟にとっては最適なのです」という答えがあった。雪の上の足跡は確かに狩りには有利だけれど、やっぱり温暖な地域に住みたいだろうという基本的な思いがあるのだが。そんなとき地元紙の東名遺跡(佐賀市)の新聞記事が目に付いた。木製品では西日本が東北を凌ぐのでは、、と言う記事だ。将に里田原の遺跡もそうでないか。北九州の旅の楽しみがまた一つ増えた。
 この遺跡で懐かしい木製品がある。遠野のコンセサマを思い出す陽根状木製品である。長さ73cm、直径34cmの巨大な陽根が直立して出土したのである。性器というのが五穀豊穣、子孫繁栄のシンボルとなるのは人類の根源的な発想であると確信する。Img_3749 Img_3751

木製の陽根と木製農具、農具は弥生時代にその基本が
形作られている。


 里田原には3基の支石墓が残されている。支石墓は宮崎、長崎、福岡などに見られる墓制で石棺、甕棺、土壙の上に大石を乗せたものである。田んぼの中を見に行く。縄文後期から弥生時代のものだとか。線路の反対側に笠松天神社古墳という前方後円墳がある。盗掘されており時代設定など不明のところが多いが、里田原の遺跡との関連が注目されているようである。Img_3759 Img_3761
里田原1号墓と2,3号墓。支石墓は朝鮮半島に由来する墓制で、西九州に存在する。私が現物を見たのはここだけである。

 
走行距離43Km  累計8,008Km  経費1,693円

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佐世保バーガー、平戸街道 3/31

2007-04-08 | 旅行記

 2007.3.31(土)曇りのち雨 
   
 8:00 起床 
10:00 佐世保レオプラザホテル発~R35~R204~
15:20 たびら平戸口YH着

 昨夜はブログ更新のため遅くまで起きていたので、今朝は朝寝する。昨晩郵便局の同僚友川君に電話する。たしか長崎の出身だったように思う。「友ちゃん島原やったっけ」「平戸です」「平戸なら明日から行くで」「よかとこばってん」「ところで佐世保はなんだい」「佐世保は佐世保バーガーです」「他には無いの」「無いですねえ」佐世保の夜のメインストリート、アーケード街に行くと多くのハンバーガーショップが並ぶ。アメリカの駐留軍が伝え、日本初のハンバーガーということである。いろんな種類があり、懐かしのクラシックタイプを購入、朝飯として食したが、冷えており大してうまくなかった。やはりその場で食するべきか。Img_3720_1
佐世保バーガー、昔ながらのハンバーグ


 ホテルを出るまで天気は解らず、暗い空にがっかりする。サングラスを掛けると暗くて見えないので眼鏡で出発する。国道は交通量が多く、歩道をのんびりと進んでゆく。所々路地に入る平戸街道の案内板がある。郊外に出た頃、四反田遺跡の立て札がある。縄文から弥生の大きな遺跡だが、あるのは案内板だけである。広い歩道があるのもこのあたりまでで、やがて追い禁の歩道のない道となり、平戸までその状態である。
 佐々町鴨川免というところで、国道が嫌になり平戸街道の道標に沿って小道に入る。
何の変哲もない杉林の小道が何キロも続いて、国道どころか村からも遠ざかってゆく。たまに出てくる民家は廃屋ばかりで気味悪い。街道に付きものの石碑や地蔵様も一向に現れない。林の中に市ノ瀬小学校跡というお寺跡のような建物がある。かつては民家も多くあり、子供達の姿も見えたのだろう。家はあっても人影はなく、車があっても誰もいない。Img_3725
Img_3724Img_3727 




左:長崎の鳥居はずんぐりしていて、背が低い、中にはくぐってはいるようなものもある。
中:ライオンズクラブの案内看板が続く。   右:山の中の市瀬小学校跡

 やがて人の住んでいる一軒の家があり、江里峠に出る。平戸に行く者は必ず通ったという重要な峠であるが、平戸街道の道案内では峠を越えるというより、峠に登り同じ斜面を降りていくような気がしてならない。詳しい地図を持たないので何とも言えないが、釈然としない峠ではある。江里峠の語源についてエリはイリの転化したもので谷の奥、山寄りという意味とあるが、これは京都の北山などでユリ(トンボユリなど)と呼ばれているものと同義ではないだろうか。天気も怪しいので、案内通り国道に向かう。山間部の棚田にはちゃんとレンゲが咲いている。コンバインを使わないので、昔通り咲いているのだろう。   Img_3728 Img_3729 Img_3732


左:江里峠の案内板  中:レンゲも健在  右:本陣跡、現在は造り酒屋となっている。

 走行距離49Km 累計 7、965Km  経費5,690円

★たびら平戸口YH 一泊二食5,190円 温泉、露天風呂有り 料理は最高 設備も立派。Img_3815平戸は魚が豊富、特にヒラメは一級品。


★たびら平戸口YHの温泉 ナトリウム炭酸水素塩泉(低張泉弱アルカリ高温泉)42度
 循環、加温、加水、消毒だがいいお湯である。

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池島炭坑は今 3/30

2007-04-08 | 旅行記

 2007.3.30(金)快晴 
   
 7:00 起床 
 8:50 長崎カトリックセンターYH発~R206~県道28号線滑石峠~R202              ~外海歴史資料館~R202~県道43号線~R202~R35~
17:20 佐世保レオプラザホテル着

 夜中にはきつい雨が降っていたようだが、朝は綺麗に晴れて絶好の日和となった。「天気はよかばってん、桜もよかとよ」というレストランのお姉さんのお言葉。75年間草木も生えないと言われた長崎にも木々が茂り、今日は桜が八分九分の咲きだ。Img_3701

桜も満開、パウロ二世も満足げ。

 サントス通りを北に行くと如己堂(にょこどう)という永井隆博士の記念館がある。永井博士は長崎医科大学の出身で放射線専門であったことから、放射線を浴び骨髄性の白血病となった。原爆に被爆し、妻を失うも二人の子と共に暮らし、被災者の救援に当たり、病床からも多くの著作を発表し、名誉市民となっている。敬虔なクリスチャンで、私は彼の名著「乙女峠」を昨日購入し、夜の間に読んでしまった。浦上のキリシタンがいわゆる「浦上四番崩れ」という大弾圧にあい、ついには津和野(山口県)に流され、その地においても惨い仕打ちを強いられ、多くの殉教者を出した事件についての著述である。驚くべき事はキリシタン禁教令は徳川支配による封建時代が終焉した明治の時代になっても六年間も続いていたのだ。琉球における人頭税と期を一にしていることは明治政府の野蛮性、非人間性を端的に表していると思う。そもそも権力者、歴史的には征服者というものは野蛮の象徴のようなものである。大和政権、律令国家政権、平安貴族、戦国武将、徳川幕府、明治政権、そして今の政権まで、野蛮でなければ権力は握れない。しかし一旦権力を握ったら、如何に自らを美化するかに腐心する。大和朝廷が作り上げた神話など代表的なものだが、明治政府においても薩長の田舎侍がその政治的センスのなさで如何に民衆を苦しめたか、その一端が解る著作である。
 長崎、佐世保を結ぶ206号線はあまりに交通量が多いので、県道28号線をたどり西海岸に向かう。滑石峠は今日一番の難所と思っていたが、これまた簡単に越してしまった。それよりも、とことん続くアップダウンが足腰に来る。昨日まで口ずさんでいた歌は「長崎は今日も雨だった」と「長崎から船に乗って神戸に着いた~」というやつである。長崎から神戸に行くフェリーがあるのか?責任者出てこい。今日からはユーミンの「瞳を閉じて」になっている。これは五島列島久賀島だったろうか、高校の校歌になっているのである。郵便局の同僚で倉富君がそこの出身で、スナックに行ったらいつも歌っていた歌である。特に上り坂でスピードが出ないときは、リズムがぴったりである。Img_3708
Img_3709_1
外海(そとめ)の海岸風景

 外海町(現長崎市外海)の歴史民俗資料館に立ち寄る。この地は隠れキリシタンの里で、乙女峠に出てくるバスチャンの予言はこの地から出たらしい。また大村「郡崩れ」のキリシタン迫害の舞台でもあるようだ。Img_3714

この地ではドロ神父は大変尊敬されている。

 池島炭坑といえば、近代的な工法で最後まで石炭を掘り続けてきた炭坑として有名であるが、この地にあるのは知らなかった。平成13年に閉山となっているが、その高い技術を海外に引き継ぐべく、研修を行っていると言うのがNHKでやっていたのを思い出す。島には全盛期の数千人の居住する高層のビルなどがそのまま残され、国道からも遠望される。これはいわゆる軍艦島(高島炭坑)とは違うのだが、似たような境遇であることは違いない。Img_3718

池島炭坑、連立するビルが寂しい。


 七釜鍾乳洞の手前の峠を登っているとき、バイクのお兄さんに声を掛けられる。「どちらに行かれるのですか」「京都です」「どこから来られたのですか」「京都です」「ジュースおごりますから飲みませんか」「ありがとう」というわけでこの旅で2回目のおごってもらいとなる。
 さて今日は金曜日、お金を降ろしておかないと行けないので、出発してすぐの郵便局を利用する。郵便局の用が済んだので、今日は郵便局が次々現れるのがマーフィの法則である。果たして到着まで、12件の郵便局が現れた。
 県道から東海岸に戻り、パールラインやらハウステンボスなど全然興味の湧かないところをトラックにまみれて佐世保に到着、安そうなビジネスホテルに宿を取る。久々の90Km走行で、腹は減るはでくたくたとなる。

 走行距離93Km 累計 7、916Km  経費9,689円

★佐世保レオプラザホテル 佐世保駅前 シングル5,200円 大浴場有り
 
★峠列伝(37)滑石峠 210m 長崎県県道28号線 困難度 2  景色 2
 水場 無し どうって事無い峠 

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