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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

電車バスの旅 5/6

2007-05-06 | 旅行記

 2007.5.6(日)雨のち曇り   
  8:00 起床 
 9:30 ホテルタウン錦川発~県立歴史民俗資料館~黒潮温泉龍馬の湯~
17:00 ホテルタウン錦川着

 昨日降るはずの雨が遅れて降り出し、早朝から強烈な雨が降っている。出発する気にはならないので、延泊とする。もう3日目だ。高知も飽きてきた。今日も自転車を置いての行動とする。市街地には行きたいところも無いので、バスで歴史資料館に行く。バスを乗り継いで590円、時間もかかり不経済だ。特別展で竹をテーマとしてやっているので興味を持って行ったのだが、期待した成果は得られなかった。竹細工、竹の道具づくりというのは歴史的に被支配者、被差別あるいはサンカなどの仕事として発達した歴史的経緯があるが、そういう面には一切振れず、近代的な作家の紹介や農具、漁具、民具の紹介に終わっている。常設展も取り立てて興味を引くものもなく、雨の中を行った割には残念であった。ただ、屋外に東津野村の民家が移設されており、先日見た中津川森の内の民家(5月2日)との対比で大変面白かった。土間には同様に楮(こうぞ)を蒸す釜がある。天井の造り、壁の造りなどに違いがあり、東津野村の民家の方が裕福なのか年代が新しいのか想像をするところである。規模的にもこちらが大きいようである。Img_5129
Img_5127
東津野村の民家と楮蒸し窯


 バスで一旦高知に戻り、JRで後免(ごめん)に行き、土佐くろしお鉄道で野市に行く。これで500円。徒歩15分で黒潮温泉に着く。高知黒潮ホテルの付属の温泉だが、多くの人出で落ち着けなかった。
 今日一日で思ったことはバスや電車で旅行すると、交通費はかかるは時間はかかるは、自転車での旅行が如何に経済的で行動的か思い知らされた。交通費は実に2,110円、バスと電車に乗っている時間は2時間、徒歩が1時間半、それに待っている時間が1時間、無駄が多すぎる。明日は晴れてくれい。Img_5134  

高知は安芸キャンプのせいか阪神ファンが多い。

走行距離0Km 累計9,773Km 経費11,106円

★黒潮温泉龍馬の湯 Na-塩化物泉(アルカリ性低張性温泉) 700円 ph9.2 39,1℃ 循環 サウナ、家族風呂、足湯(無料)など設備沢山あり。

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高知城石垣の旅 5/5

2007-05-06 | 旅行記

 2007.5.5(土・祝)曇り後小雨   
  7:30 起床 
10:00 ホテルタウン錦川発~高知城~寺田寅彦記念館~大川筋武家屋敷~はりまや橋~
14:30 ホテルタウン錦川着

 雨の予想で連泊としているので、歩いて市内散策とする。高知城は宿から5分ほどの距離なので、最初に訪れる。過去にも訪れているのだが、正しいお城の見方で再度訪れてみたい。高知城はNHKドラマでおなじみの山内一豊が慶長6年(1601年)から築いた城郭で、私の好きな実用的なお城である。現実には享保12年(1727年)に大火のためほとんどが消失し、それから26年かけて再建されたものである。Img_5058

追手門から天守閣を望む。

 その際に建物がどう変わったかは解らない。ただ、石垣はほとんど慶長のままと思われるので、観賞に値する。
石垣は最も古い野面積みの石垣で、華麗さはないが、力強さと素朴感があり大好きなタイプである。400年の風雪に耐え、壮大な風景を見せている石垣だが、流石に危険な状態となっている部分もあるようで、三の丸周辺の石垣の改修工事が行われている。おかげで石垣に対する調査や説明が懇切に行われ、新たな発見も出ているようである。今日はこの石垣を中心に見学してみよう。Img_5065 Img_5071

野面積の石垣(追手門内部)と工事中の石垣

 高知城の特徴は追手門と天守閣が揃って残っていること、本丸の建物がほとんど残っていることだそうだ。そういわれれば天守閣はあっても追手門はない、追手門はあっても天守閣はないというお城ばかりだ。最もどちらもないのが一般的だ。追手門からの天守閣の姿が最もお城らしくて良い。追手門の石垣が野面済みの石垣で、力強いが、後で写真を見て気付いたのだが、鯱が乗っている。確か熊本城での説明では、鯱は天守閣だけのものと聞いたが。
 追手門の枡形部分は手前の石垣と門左手の石垣が違う。寛文4年に再建されたものというから、石垣の技術も代わっているのかも知れない。その石垣にケシエとカタカナで三文字の刻印がある。松江城同様、寄進されたものか、技術的なものかよく解らないらしい。城中の石垣を見たが刻印らしきものはここだけのようだ。
Img_5059_2 Img_5061Img_5067




 
 左:追手門枡形、左と正面の石垣、違うでしょ  中:エの刻印 右:最大の石樋

 高知城の石垣で特徴的なのは、石樋(いしどい)である。降雨量の多い地域だけに排水についてはかなり丁寧に工事がなされており、あちこちに水抜きの石樋が見られる。下部になるほど樋の張り出しが大きくなり、三の丸付近のものは数m張り出している。流水が石垣に当たるのを避ける目的で、水量が多いところほど大きく張り出している。
 石垣の材料はチャートがほとんどである。堅くて加工しにくい上に、もろいところもあり、材料としては使いにくい石だと思う。所々砂岩も混じり、石灰岩も一部使われている。
高知地方なら、石灰岩は手に入りやすいが、耐久性に問題があるのだろうか。
 鉄門跡から三の丸工事現場の上に行く。ひとつひとつの石に番号が打たれ、組み直されるのを待っている。左手上は二の丸だろうか、石垣が緩い角度を持ってつながっている。これは平たく長くなると強度が落ちるために、途中で算木組を入れて、強度を増しているものだ。 Img_5084
Img_5083 
石組みを待つ石、壁の途中の算木組



 詰門は登城の侍が一旦詰めておくところである。家老から平侍まで部屋が別れている。
天守閣はあまりにも多くの客で、行く気がしなくて遠慮する。人混みの中ではイマジネーションが湧かないのだ。建物が無くなった二の丸から北面を下ってゆく。公園を作る際に新たに作られた道だろう、石垣が切れて角が丸く取ってある。これはあり得ない石垣だ。
できるならこんな道要らないから元のままに戻していただきたい。それともう一つ、雑草が多すぎるぜよ。殿様がござらっしゃる時には雑草など無かったと思うし、それらが石垣を蝕んでいることは間違いないのだから、草を取る努力をしていただけませんか、橋本知事殿。Img_5090 Img_5098

満員の天守閣とあり得ない丸角石垣

 観光客も来ない城の北面の石垣に、小さな石樋や排水溝を見つけながら、妙に悦に入っているのである。
 もう一度追手門に降りてゆくと、板垣退助の銅像がある。「板垣死すとも自由は死せず」
と言っていたのだが、暴漢に襲われて死んだわけではないのだ。知ってる?
 観光客のおばさんが「高知城を造った人か」などといいながら写真を撮っている。そりゃあねえぜよ。
 高知城を後にして、大川筋を西に行く。往時の武家屋敷で、それらしきものは無いのだが、雰囲気は残っている。ただ、この川の汚いこと、臭いこと。これもなんとしていただきたい、橋本知事殿。その一角に寺田寅彦記念館がある。空襲で焼けた実家を再建したものだそうだ。「天災は忘られたる頃来る」という名言で有名だが、ではどういう人かというと、実は私も心許ないのだ。気象学を学んだ私としては、気象学者中谷宇吉先生の先生というのは知っているのだが、それ以上はよく知らないのだ。物理学者で随筆、俳句など文学の面でも多くの遺作を残しておられる。庭によく目立つ青桐と槲(かしわ)の木があり、二句ばかり投句する。

 槲葉に 風そよぎて 土佐の夏
 青桐の 城に負けじと 天を突き     うとくImg_5108 Img_5109_1

槲と青桐

 大川筋を東に戻り、少し行くと武家屋敷史料館がある。手嶋家という上士(山内一豊に従って掛川から入国した武士)の屋敷跡で、かなり上位の侍とみえる。襖の下張りにジョン万次郎の漂流体験の写本やうちわの家庭の問題などが記されており、面白い。明治以降になって医者の持ち物となり、花岡医院となり、マムシの薬や淋病の看板などがあり、それであってこそ残ってきた屋敷なのだろう。Img_5114 Img_5111

襖の下張りと玄関前のソテツ


 少し時間があるのではりまや橋に行く。中央公園では花祭りをやっており、新茶祭りもあり、もの凄い人出だ。このあたりは高知らしくない賑やかなところで、疲れるだけである。Img_5123  

走行距離0Km 累計9,773Km 経費4,454円

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満室騒動 5/4

2007-05-05 | 旅行記

2007.5.4(金・祝)曇り   
  7:00 起床 
 8:30 森の巣箱発~県道317~R56~
13:45 ホテルタウン錦川(高知市)着~ファミリー温泉湯川

 再会を期して、森の巣箱を出る。お礼の一句を置いてゆく。

 学舎に 泊まりし夕餉 初鰹      うとく

 県道を味わいながら下る。本当に美しい水だ。美しい水というものがどうしてこんなに感動するのか。須崎についてゆっくり今夜の宿を探す。ゴールデンウィークだけに高知市のビジネスホテルぐらいしかとれないだろう。海沿いにキャンプ場も有るそうだが、荒天が予想されているだけにキャンプはつらい。ところがだ、何軒連絡しても満室である。
勿論ユースホステルも満室だ。10件あまり連絡して嫌になってきた。とにかく高知市まで行けばなんとかなるさ、というわけで歩を進める。
 土佐市のあたりで、昼食のおにぎりを買うためにローソンに寄ったところ、「小原さん」
という声に驚く。この地で知り合いの居ようはずもない。よくみると森の巣箱のスタッフのお母さんと娘さんだ。一体どうしたのかと聞くと、ネコが熱を出して動物病院に来たとか。車の中ではネコが情けなくたたずんでいる。宿が取れないことを話すと、「戻ってきんさい、宿直室はいつでもあいとるきに。」ありがたいけど30Kmを戻る気にはならない。勇気を出して、先程不在であったホテルに電話すると、一室空いているとのこと、ラッキーだ。
 気分も軽くなって気楽に走ると、仁淀川にであった。これも高知を東西に流れる大河だ。
仁淀川大橋のたもとに仁淀川次郎兵衛の碑というのがある。説明が無いので一体いかなる人物なのか解らない。見ると大きな足と手の型がある。後ろに相撲の文字もあり、どうも力士のようだ。しかし詳細は解らない。Img_5053Img_5054 

仁淀川次郎兵衛の碑と手形


 高知市街にはすぐに到着、荷物を宿において温泉に行く。少し郊外だが、おおきな温泉があり、雑誌の無料券があるので行ってみる。

走行距離63Km 累計9,773Km 経費17,249円

★ホテルタウン錦川 高知城近くのビジネスホテル 一泊4,500円 朝食は100円でバイキングが利用でき、重宝する。有線LAN有り

★湯川温泉 ファミリー温泉湯川(高知市円行寺) 500円 単純温泉、ph8.9
 16,9℃ 循環、加温、消毒 サウナ有り、滝や池の景色がいい。写真は高知城ではない、温泉だ。Img_5056

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車って楽ちん 5/3

2007-05-05 | 旅行記

 2007.5.3(木・祝)晴れ   
  7:00 起床 
10:00 森の巣箱発~四国カルスト~四万十川源流地域~
14:00 森の巣箱着~自転車整備

 昨晩館長の大崎さんと飲んで、森の巣箱の話や地域振興の話など盛り上がった。最後はカラオケで終わったのだが、共感するところが多く、もう一泊することとした。6月に蛍の鑑賞会をされるそうで、1,500人ものお客さんが来るそうである。その打ち合わせで四国カルストや四万十川源流にある施設に行くというので、同行することとなる。どちらも行きたかったところだが、何しろ高地なので諦めていたところだ。大変ありがたい。宿のある地域はかつては陸の孤島と言われたそうで、確かに山深いところだ。数年前国道197号線に抜けるトンネルが完成したが、その道とて離合困難なほど細い道だ。檮原町(ゆすはらちょう)との境にあるカルストは20Kmにも及ぶ、尾根上のカルストで、秋吉台とはまた違った壮大な風景である。車で縦断することもできるが、これも細くて離合困難である。自転車や二輪の活躍するところである。森林セラピーと言って、整備されたコースがいくつか有り、ゆっくり滞在して歩いてみたいところである。Img_5035 Img_5043

森林セラピーの道、果てしなく続くカルスト



 続いて四万十川の源流に向かう。源流ではないのだが、その手前にせいらんの里という宿泊施設があり、今日はここまでとする。ここから源流まで徒歩で1時間半程度ということだ。川向かいに稲葉洞という鍾乳洞がある。7,80mまでは入れるそうだが、それとてケイビングの装備をして行かなければならない。少し下流にも鍾乳洞があり、大学の探険部などが調査に来ることもあるそうだ。今日は源流には行けなかったが、源流から引いている水が出ている。ボトルに持ち帰り、焼酎の水割りとしたい。Img_5045 Img_5047 Img_5044





左:四万十川源流に続く沢  中:稲葉洞内部  右:源流の水

 檮原街道を車で走りながら、景色を見る。段々畑に緑の茶畑が美しい。坂本龍馬が脱藩をし、大洲藩内に通ったのもこのあたりである。なんとも山深いところだ。
 宿に帰り、久々に自転車の清掃をする。ビールを飲んでたまった日記を書き上げるImg_5020 Img_5034
  今日から森の巣箱は満室なので、教室から宿直室に移る。玄関の上にあり、元の宿直室をそのまま活かした一人部屋だ。

廊下の床は昔のまま、校庭の大木はセンダン。

走行距離0Km 累計9,710Km 経費4,320円

★森の巣箱(津野町貝の川床鍋)一泊二食5,000円 旧床鍋小学校を改築し、地域の交流を兼ねて運営されている。設備もしっかりしており、館長以下スタッフの皆さんが最高。

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誕生日を迎える 5/2

2007-05-05 | 旅行記

 2007.5.2(水)曇りのち晴れ   
  7:00 起床 
 9:35 ライダースイン四万十川発~R381~R56~須崎~R197~県道317~
16:40 森の巣箱着(高岡郡津野町)

 朝はレトルトのカレーライスを食し、出発する。十和温泉を過ぎたところに、四万十川を横断して、二本の鯉のぼりが風にそよいでいる。あちこちで見るようになったが、ここが元祖だそうだ。長さもこれほどのものは見たこと無い。壮観である。
 四万十や 鯉のぼり鮎 碧き水   うとくImg_5009
 
 天気予報は晴れなのだが、ぽつりぽつり降ってきた。合羽を出し、荷物にカバーを掛け、雨天用完全装備とする。
 10時になったところで村の放送がスピーカーから流れる。エーデルワイスかなんかの曲が流れ出すと、犬たちがワオーンワオーンと歌い出すのだ。TVで見たことはあるが、実際に聞くと笑ってしまう。
 土佐大正のあたりで国道を離れ、町中にはいると旧竹内家という古民家が展示してある。四万十川流域の山間部の代表的な民家であるらしい。壁が土でなく、茅壁で、居間は囲炉裏を囲んで竹簀となっている。Img_5014
 今日は取り立てて見るものは無いのだが、四万十川を眺めながら走るのは本当に楽しい。
上流に向かっているのだが、登りという感じは無く、快適に走る。
 道端にあやめが咲いている。今日は私の56才の誕生日である。田舎のこととて誕生日の祝いなどすることもなかったが、我が家の庭にその日に必ず白いあやめが咲くのである。その日だけ早く起きて雨戸を開けて、花を見つめているのだったが、花だけが祝ってくれていたのだろう。今や荒れ地となっている庭にあの花は今日も咲いているのだろうか。Img_4982
今日の宿泊所は決まっていない。誕生日にはビジネスホテルもライダースインもつらい。
かといって上等な旅館やホテルも予算的につらい。手頃な民宿はないかと、木造校舎を改装した農家民宿に電話する。宿泊は可能だが、食事が出来ないとのことである。道の駅の
鮮魚店で鰹のたたきとはらすぼを買う。これで誕生日の祝膳は完璧だ。勿論発泡酒でなく、本物のビールと焼酎を忘れない。
 県道317号線の川沿いの道は、山といい杉林といい京都北山の風景と同じで上りにもかかわらず気持ちよく走れる。こんなところに宿があるのだろうかと不安になる頃に、案内看板が出てくる。あと2Km、あと1Kmと近づいて、遂に学校の宿に着く。
 荷を解いて、風呂に入ると館長がビールを飲みながら待っていてくれた。奥さんにはらすぼを焼いてもらい、夜の夜中まで酒宴が続く。Img_5015 Img_5023

北山を走っているような県道と森の巣箱


 
 重ねたる 齢の膳や 初鰹   
  土佐なれば 山へものぼれ 初鰹
 女房も 蔵で食いをり 初鰹     うとく

走行距離90Km 累計9,710Km 経費3,224円

★峠列伝(52)七子峠(中土佐町、R56)293m 困難度1 景色3 歩道無し
トンネルいくつか有り 水場無し。 南からの登りは簡単、ところが下りは嫌というほど下る変な峠、北から登ると困難度は4となる。交通量多く、下りのスピード走行は注意。

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ライダースイン 5/1

2007-05-05 | 旅行記

 2007.5.1(火)雨のち晴れ   
  7:00 起床 
 9:45 宇和島YH発~多賀神社~宇和島市立歴史史料館11:00~R320
~R381~
16:00 ライダースイン四万十川着(四万十町)~十和温泉

 ゴールデンウィークのためかライダーの宿泊多く、同室に同い年のライダーがいた。お城の話や歴史の話、何でも話の合うこと、夜遅くまで論議する。埴輪土器の底抜けの話をしていたら、それは盗まれないためと違うかという意見、なるほどそのとうりだな。私の水たまり説は一瞬にして覆る。盗難防止説はなかなか鋭い。簡単にころころ変えられることが素人歴史家のいいところである。
 夕べはかなり強烈な雨が降っており、朝になっても降り続いている。急速に回復という天気予報のとおり、出発時には晴れてきた。宇和島市内を見ていないので、少し見学してゆく。多賀神社凸凹神堂には世界から収集した、性に関する資料が2万点あるという。鳥居をくぐるといきなり、巨大な陽物の石などあり、神殿横にはコンセサマを思わせる、木の陽物が祭ってある。神堂も見てみたいのだが、一端入ると数時間、いや一日費やしそうで、境内の石像などを拝むだけにする。Img_4968 Img_4971

多賀神社境内の陰陽物


 続いて歴史資料館に行く。宇和島出身の高畠華宵の展示をしている。といっても解らないだろうが、津村順天堂、中将湯の宣伝ポスターなら知ってる人は知っているだろう。大正ロマンの美人画の巨匠である。
 宇和島を出ると、昨日の道で面白くも何ともない。松丸を過ぎると、狭い道となる。交通量は少ないのでどうってことはないが、時々材木を満載した大型トラックが通過する。
高知県との県境にかかる。沈下橋といって、増水時には水面下となる橋がある。高知県内には沢山あるが愛媛県内では珍しいそうだ。沈下どころか橋の一部分が沈没しており、橋の役目をしていない。Img_4980

葛川沈下橋、この先で高知県に入る。

 高知県に入ると道端に妙なものがある。高さが70cmぐらいの木箱が高いところにいくつもあるのだ。スレートの屋根がついたものもある。お地蔵さんのように見えるが、扉は無く、密閉されている。お遍路を終えた人が使った道具などを祭っているのだろうか。
隣を走る線路のところにまとまって有るところなど異様な雰囲気だ。誰かに聞こうと思うのだが、誰も外に出ていない。丁度お昼時なのだ。小一時間走って、掃除をしているおばさんを見つけ、聞いてみる。なんとそれは蜜箱といって、蜂蜜取りの蜂の巣箱なのだ。なるほど、そういえば家の敷地などには置いていない。よく見れば下の方に小さな穴がいくつか開いている。解ってしまえばそれだけのものだが、よくぞ聞いて良かった。聞かなければ永久に謎のままで終わってしまう。Img_4983 Img_4985

異様な白い箱がいくつも見える。右のように新しいものもある。


 江川崎を過ぎるといよいよ四万十川になる。日本最後の清流と言われるだけに、確かに美しい。かつては日本中の川が美しかったのだろうが、他の川が汚染してしまっただけに大切な遺産となったわけである。沈下橋も沢山あり、こちらのはしっかり働いている。欄干の無い橋をトラックが渡っている様は少し恐ろしい感がする。
 旧西土佐村のあたりに君が渕という渕がある。平家の落人が村の娘とはかない恋に落ち、二人で入水するという悲しい物語が残っている。身を投げたという岩峰の上から四万十川を眺めたが、なんともゾクッとする風景だ。四万十川流域は平家の落人伝説が多い。Img_4998 Img_4993

沈下橋を渡るトラック、右は君が渕

 江川のトンネルを過ぎたあたりで急に狭い道となり、センダン並木や竹林で暗くて余計気味が悪い。やがてこの超狭い道に渋滞が起きる。例の材木トラックがすれ違えないのだ。何台かがバックしてトラックを通す。自転車さえもすれ違えないのだ。十和温泉に着き、対岸に渡って下流に戻ると、パイプハウスのライダースインが見えてきた。
 ライダースインにはシャワーが着いているが、食事も兼ねて十和温泉に行く。炭酸水素泉のお湯らしいが、小さな温泉である。Img_4999 Img_5002

ライダースイン四万十川、高知県独自の施設である。

走行距離68Km 累計9,620Km 経費7,395円

★ライダースイン四万十(四万十町)一泊、布団無し3,150円 高知県に数カ所あるライダー専用の宿泊所。食事はないが、各部屋にシャワー、トイレ、テレビあり、管理棟で自炊も可能。布団付もある。人数が増えると安くなる。

★十和温泉(高岡郡四万十町)Na-塩化物炭酸水素塩鉱泉 700円 加温、循環Img_5007

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滑床渓谷 4/30

2007-05-05 | 旅行記

 2007.4.30(月・祝)晴れ   
  7:00 起床 
 9:20 宇和島YH発~R320~R381~県道8~県道270~滑床渓谷
11:50 万年橋発~S字峡着13:05~万年橋13:55着~帰路~
16:50  宇和島YH着

 私の旅の始まりは、確か高校2年生になる前の春休みの四国一周旅行である。周遊券を買って、ユースホステルなどを使っての一週間の旅である。徳島YH、室戸岬、龍河洞YH、足摺国民宿舎、滑床YH、面河渓YH、高松YHの7泊である。室戸岬は泊まるところが決まって無く、一緒になった大学生のお兄さんとお寺で野宿しようと決め、岬の食堂で食事をしたら、食堂のおじさんが泊めてくれた思い出がある。足摺岬も泊まるところが無く、あちこち飛び込んで、国民宿舎に泊まる事ができた。今では何でもないことだが、その当時としては大冒険であった。春休みの最盛期ということで、旅行の内容よりも泊まるところの確保が第一であった。滑床YHも泊まるに泊まったがバスや汽車の関係で、滑床を見ることもなく、ただ食事して眠るだけの宿であった。実は後からそのことが大変気になり、滑床はなんとしても今回訪れてみたいところとなったのである。当時のことで憶えていることと言ったら、単線の汽車で、時間待ちが1時間近くあったことと、ユースホステルは満員で、みんなで食後の洗い物をしていた事ぐらいである。人間変なことを憶えているものである。Img_4959 Img_4958

左:渓谷の入口、万年橋
右:森の国ロッジ、これがかつてのYHでなかったか。

 宇和島から滑床まで35Km、自転車も空身だと効率的である。同宿の男の子も二輪で滑床に行くというので、合えば一緒に行こうと言うことで抜きつ抜かれつで現地に向かう。
万年橋の渓谷入口に着くが、当時の思いでは何もない。なにせ夜中に着いて、朝一番で出発しているのだ。自転車をおいて、歩き始める。反省を活かし、渓谷には自転車を持って行かない。素晴らしいナメである。いやあ、来て良かった。40年近く以前、仁和寺の法師よろしく、渓谷入口まで行って渓谷を見なかった長年の悔しさが、やっと報われることとなった。Img_4931 Img_4932
Img_4934




三筋の滝、鳥居岩、出合滑Img_4942
Img_4940
 


 
雪輪の滝、落合渕



Img_4949 Img_4951
千畳敷と鳶渕


 さてここで、渓谷の観賞についてヒントを述べてみたい。ただ漫然と歩いているよりもきっと楽しくなるだろう。渓谷の美とは一体何だろう。流れくる水と滝や岩壁、周りの樹木の四季折々の美しさが一体となって美しさを感じるのだろう。渓谷を構成する部分もそれぞれ名前があって、その渓谷を特徴づけている。まづ今回訪れた滑床はナメが特徴である。ナメとは河床が平たく滑らかで、その上を水が流れている状態である。そのまま滝状になっているのをナメ滝と言う。流れが緩やかになって池のように溜まっているところを瀞(とろ)あるいは渕(ふち)と言う。先日訪れた長門峡などは渕が主体の渓谷である。Img_4944

猿が渕(滑床)

両岸が切り立って続いている部分を廊下(ろうか)という。学校の廊下を思い浮かべていただければいいかと思う。黒部の上の廊下、下の廊下は有名である。高千穂渓谷も廊下が素晴らしい。渓谷が広がって石がゴロゴロしている河原をゴーロという。一番開放的なところで、弁当を食べるのはゴーロがよろしい。ところによっては砂州が発達するところもある。ゴーロの大岩やナメ床に円い穴が開いているところがある。甌穴(おうけつ)と言って水流や石で岩に開いたもので、何百年何千年とかかってできあがったものである。中に石が入ったままのものもある。ポットホールともいわれる。
Img_3254_1  
高千穂峡の廊下

 最もダイナミックなのが滝である。どうっと豪快に落ちる滝もあれば、白糸の滝などと名付けられている滝は幾筋にも別れて縞模様になっているものもある。袋田の滝はこの縞模様が大変美しい。滝は地方によってセン、タル、棚などと呼ばれる。私が今まで見た滝で一番感激したのは、奈良県東ノ川西の滝である。これは一日見ていても飽きない。今回の旅の間では茨城県の袋田の滝である。これは予想以上の滝であった。観光地の滝はほとんど名前が付いていて、伝説があるものも少なくない。本来はフォールナンバーが下流から付けられ、F1,F2,F3、、、という風に付けてゆく。そのうち一番大きな滝を大滝という。滝は下から眺めるとひとつに見えるが、実は2段3段と段のあるものが多く、観光地では展望台が作られているケースが多い。滝の水が落ち始めるところを落口(おちくち)といい、ほとんどの場合落ち着いたいい景色が見られる。滝壺は誰でもご存じかと思うが、滝の裏側に回れるところもいくつかある。Img_1640 Img_1637

袋田の滝(茨城県)落ち口とゴーロ


 右岸、左岸であるが、これは下流に向かって右が右岸である。右岸から左岸へ人々が渡ってきた箇所が渡(ど)であり、河床が浅くなって流れが音を立てているところ、瀬(せ)などが渡となっている。観光地では探索路が作られているのが一般的であるが、そうでないところは自分の足で歩いて登らなければならない。夏ならば危険のない渓谷を登るのは楽しい事となる。渓谷を遡ることを遡行(そこう)という。廊下はどちらかの岸をカニのように横向けにへばりついて行くこととなる。これをへつりという。滝は登れる場合は直登するが、大抵は横の林をつたって滝の上部に出ることとなる。これを高捲き(たかまき)という。登って行くと支流が合流する。この地点を二股(ふたまた)あるいは出合いという。合流点が滝となっている場合を落合という。
 支流、本流を見分けるのは、一般的に河床の高いのが支流である。やがて源流が現れる。渓谷の最も最終地点をツメという。それからあとは薮になるケースが一般的だが、それでも登って行くと、尾根の低い部分に着き、この部分を乗越(のっこし)という。道が尾根を越えるのを峠と言うが、沢が越える部分を乗越という。渓谷は普通、沢、谷と呼ばれるが、関東では沢が多く、関西では谷が多い。越中などではタン、ダンと呼ばれる。
  これぐらい知識を詰め込んで渓谷を観賞されたら、より楽しく見ることができましょう。

走行距離78Km 累計9,552Km 経費5,579円

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名城大洲城 4/29

2007-05-05 | 旅行記

 2007.4.29(日)晴れ   
  7:00 起床~大洲城 
11:36 大洲郷土館YH発~R56~県歴史文化博物館14:50~R56~
16:50 宇和島YH着~

 朝起きると、先代の残された資料の一部を見せていただく。東京名勝呉服橋の図には明治天皇の警護をする大洲藩の侍が、東海道大井川の図にも大洲藩の大名行列が描かれている。前者については、大洲藩が勤王藩の中でも勇猛であったので警護に当たっているということだ。後者は、古来から大洲には古式泳法が受け継がれており、大井川の渡しでも一目をおかれていたそうである。続いて郷土館自慢の一品、母衣(ほろ)である。鎧の上からマントのようにかぶり、後方から射られる矢を防ぐ武具であり、絵や書物は残っているが本物はここにしかないのではという代物である。ぼろぼろになっていたものを修復して展示してある。祇園祭の行列にもこの母衣なるものが有るそうで、注目してみたい。Img_4869 Img_4864 Img_4868

大井川渡しの図、母衣、両替商道具



 また、なんだか解らないものもあり、今後博物館などで探してみたいものもある。その他多くの古文書や地図、ランプ、藩札、両替商の品々、薬屋の品々など恐ろしいほどの貴重な資料が眠っている。先生はもう1日宿泊し、古銭の整理をするようだ。Img_4860 Img_4861

この壺はなんの用途か解らない。



 大洲城は明治維新の際、天守閣は壊されたが、櫓などは残されており、重要文化財となっている。天守は平成16年に復元されており、木造で、しかもできる限り従来の工法で再建されたということだ。明治期の写真や天守ひな形などが残っており、ほぼ忠実に復元できたというのもうれしい。元々戦国時代の築城の名手藤堂高虎の手になる城で、私の好きな戦闘的実用的な城郭である。天守の芯柱は地元の檜を、その他の梁などは木曽の檜を使われたそうだが、当時の工法通り背割りをしていないため強烈なヒビが入っている。乾燥は何年ぐらいなされたか聞くと、3年程度という答えで、築城当時はもっと永年の乾燥がなされたのではないだろうか。
 石垣は緑色の石がほとんどで、先生に聞くと伊予の青石といわれる緑色片岩といわれるものだそうだ。町内の石垣にもこの石は多く使われている。Img_4899 Img_4882 Img_4890





左:野面積みの見事な石垣、緑色の石でできている。 中:天守閣  右:柱には背割りがない。
  臥龍の湯で昼食をとり、出発する。ゴールデンウィークで乗用車の通行が途切れない。
すぐに登りとなり、ひたすら登る。お遍路さんが結構下ってくる。頭上4,50cmを越えるザックを背負っている人もいる。露営の用具も持っているのだろうか。
 トンネルの手前に四国の道なる案内がある。あちこちで見かけたのだが、これが遍路道なのだろうか。自転車はトンネルを通り手抜きとなるが、遍路さんは峠の道を登るのだろうか。登るんだったらえらいよね。待っていたが誰も来なかった。Img_4913 Img_4914

鳥坂峠に向かう古い道とその傍らのトンネル。

トンネルを越えると強烈に下る、こんなに登ったろうかと思うほどである。スピードは4,50Km出て、恐ろしい。スリップ止めの縦線が入っているのだ。車にはいいかもしれないが自転車には最悪だ。下りきったところに卯之町があり、左に1Km程で県立歴史文化博物館がある。ところがこれがやたら高いところにあるのだ。撮影が禁止されているので、良く憶えていないのだが、7本指の土偶と高虎の築いた今治城の天守が亀山城に移築された話が気になった程度である。時間が無いのでゆっくり見学できない。
 次の法華津トンネルは旧道を迂回した方がいいという先生の助言で、旧道に向かう。ようやく探し当てて旧道の入口に行ったら、工事により前面通行止めの看板がある。連休で工事は休んでいる様子で、自転車一台ぐらい通れるかもと思い、無視して進む。やがてダートになり、ユンボが止まっている。自転車を置き、その先を偵察する。ウヒャーもの凄い工事だ。自転車どころか歩行者も通れない。流石に引き返すことに悔いはない。30分ほどロスになり、結構あせる。ところがこの法華津峠は3Kmぐらいの登りで終わり、下りは10Km程あるのだ。不思議な峠である。Img_4927

旧道は大工事で通行止め。

 下りばかりで宇和島に着き、ユースホステルを探す。日本一わかりにくいユースホステルと書いてあるので、なんとか自分だけで見つけようと思うが、断念。おじさんに道を尋ねていると、原付のおばさんが「ユースでしょ、着いてきなさいよ」と言って案内してくれる。こうなったらビールを買う暇はない。汗びっしょりで、御山の頂上のユースホステルに着く。こんなもんあの地図でわかるか。

走行距離53Km 累計9,474Km 経費6,360円

★宇和島YH (宇和島市愛宕公園内)一泊二食4,500円  宇和島を一望に見下ろす高台にある。宇和島の夜景は2万ドルぐらいか。じゃこ天の大ファンで歌まで出している。
勿論おかずにはじゃこ天が出る。Img_4930

★峠列伝(50)鳥坂峠 500m(R56、大洲市) 困難度4 景色2 水場有り(トンネル右) 歩道無し トンネル有り 

★峠列伝(51)法華津トンネル(R56、宇和島市)困難度2 景色2 水場無し
トンネル有り 歩道無し  宇和島側はやたら長い。法華津峠は旧道にあり。

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痰のつまりし佛かな 4/28

2007-05-05 | 旅行記

 2007.4.28(土)曇り後快晴 道中17℃   
  7:00 起床 
 9:15 松山YH発~R33~市道~R56~内子座(うちこざ)~
17:15 大洲郷土館YH着~大洲市内

 松山ユースホステルは今日から満室だそうだ。マネージャーのお母さんからお話を聞いていると、バブルの絶頂期にこの土地を買い、建築をしたので金利が8.3%とか、大変な資産である。生ゴミの堆肥化や天然石鹸の利用、ソーラーシステムの設置や薪ストーブの利用などあらゆる環境対策を行っておられ、感心する。お礼を言って子規記念博物館に行く、すぐ下にあるので五分足らずで到着する。道後や松山の歴史から始まり、子規の生い立ち、青春時代、ジャーナリスト時代、闘病、多くの文人との交流など子規の総てを展示や映像でみることができる。やはり七年間に及ぶ闘病生活の最中に、俳句や短歌の革新を成し遂げたという偉業は、尋常の人間には到底出来得ない、まさに神業としか思えない事である。Img_4841 Img_4838
子規記念博物館と記者時代のかばん、山雨海風と記してある。




  糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな   
 糸瓜三句が絶筆となるわけだが、その実物を見て、涙せずには居られなかった。
 館内に松山市の観光俳句を募集していたので、二句を投函する。
 葉桜に 頬冷やしたる 風呂上がり
 神の湯や 五十肩に ひたかけり   うとく

 博物館を出ると十二時半となっている。この博物館で四時間も居たのが不思議である。それほど子規の世界に没頭してしまった。今日開館の坂の上の雲ミュージアムには行けなくなってしまった。高校の先生だったろうか、えらい司馬遼太郎のファンである先生が居て、授業中に坂の上の雲の話をたっぷり一時間聞かせてくれた人が居た。その先生によると日露戦争はやむなく行った戦争で、侵略戦争ではない、いわゆる祖国を守る戦争だと言うようなことを話しておられた。そういえば、日清や日露の戦争がいかなる理由で、どのようにして行われたか、私たちの世代は知らないのではないか。そんな話を聞きつつも坂の上の雲を読んではいなかった。おりん口伝、砂の器、坂の上の雲など帰ったら読む本が段々増えてきた。  
 市内を適当に南に走る。電車道の先に小さく松山城が見える。何度も訪れているが、本当は今の目で訪ねてみたい。写真を撮って、振り切るように走り出す。連休の走りとて、やたら乗用車が多い、一体どこへ行くのかと思えば、坊ちゃん球場のところでほとんどが左折する。そうだ四国には四国アイランドリーグがあるのだ。今日は愛媛対香川の試合がある。手元に日程表があるのでうまく合えば観戦してみたい。Img_4843 Img_4844

さよなら松山城、九州山陰とついぞ見なかった例の看板が愛媛から出てきた。



 郊外をどんどん南下すると、山となってきて遂に今日の難所、犬寄峠の登りとなる。車も多く、道も狭く、ゴミだらけで坂も長い、中国山地よりも四国の峠の方が傾斜がきつい、
トンネルも歩道無しで、長くて暗い。久々に完全装備でトンネル越えをする。歩道のない峠では登りよりも下りが危ない。スピードがあるから、油断できない。一瞬のミスが事故となる。ハンドルを持つ手に力が入り、肩がかちかちに凝ってくる。
 愛媛に入って気付いたことだが、昨年の旅ではどこの県でも見かけたが、今回沖縄から山陰まで見かけなかったキリストの黒い看板が出てきたことである。広島でも少し見かけたが、こうなると懐かしい気もする。なお、マルフクの看板は全国どこにでもある。
 内子(うちこ)あたりまで下りが続いて、かなり時間を稼ぐ。内子は町並みが人気で、松山以来見かけなかったお遍路さんも沢山見かける。彼らが車で移動しているか、私の通った道が遍路道でなかったかどちらかだ。
 時間も無いので内子座だけ寄ってみる。内子座は大正五年に建てられた歌舞伎劇場で他に転用されていたものを昭和六十年に復元したものである。福岡の嘉穂劇場に行けなかったので、是非見ておきたいという気持が合ったものである。かつて日本中の各地にあったこの類の劇場が、今はほとんど消えている。維持をするのは大変かと思うが、頑張って頂きたい。Img_4849
Img_4850  10Kmあまりで大洲(おおず)のユースホステルに着く。大洲城の天守閣のすぐ下にあり、昔なら城内の土地である。すぐ横を肱川(ひじがわ)が流れていて、三次の街とそっくりだ。元郡長屋敷のたるヰという和食のお店を紹介してもらい、夕食をとる。予算の都合でたいそうなものは食べられないが、天ぷら定食と生ビールを頂く。付き出しにそらまめが出る、夏を感じさせるしゃれたもてなしだ。
 
 そら豆や 囲炉裏の用も 終ひなり  うとく

 料理もいい味付けで美味しく頂く。夏には鵜飼いもあるそうでまるで三次と同じだ。日本三大鵜飼いだそうで、こちらの方が大きいのだろうか。また秋のいもたきも盛大で、このあたりが会場となっている。大洲駅周辺の繁華街を巡り、明日の朝食を買い、肱川橋を渡って古い町並みを探索する。肱川橋から臥龍山荘(がりゅうさんそう)までは赤煉瓦館やポコペン横町、明治の町並みやおはなはん通りなど古い町並みが残っている。石見銀山大森の町で気になったようなわざとらしさが無く、本当に良い町並みだ。Img_4908



  臥龍山荘の坂を越えると臥龍の湯という日帰り温泉がある。用意はしていたが混み合っていそうなので、宿に帰ることにする。
 ユースホステルの前はお堀跡の公園になっており、天守閣の上にいい月が出ている。
 
  月と城 花と若宿 郷土館  うとくImg_4856

2年前に再建された大洲城天守閣、左の白い建物がユースホステル

 宿に帰ると同宿の先生が古銭の整理をしている。実はこのユースホステルは大洲郷土館ユースホステルといい、先代が若い時分から集めに集めた郷土の資料を若い人達に見せようとユースホステルを開かれたそうである。ところが交通事故で急死されたために、集めた資料などの分類や整理がされないままになっており、引き継がれた子供さん達が苦労して整理分類されている最中である。たまたま古銭に詳しい先生が宿泊されたため、銭函に満杯の古銭を一枚一枚確認し、分類されているところである。風呂に入って、ビール飲んで「先生、何かお宝はでましたか」などと気楽なことを言っていると、「出ましたよ、島屋文と言いまして、これですよ」と見せてくれる。山ほどある寛永通宝のなかから一枚、その島屋文が出てきたのである。どう違うのかよく解らないが、通のマの部分と字の傾きなどが違うそうで、通常ではトラック一杯の寛永通宝から一枚出てくればいいくらいの珍しいものだということだ。「で、先生一体幾らぐらいするんですか」などと賤しい質問をする。「10万円以上はするでしょう」「えー」てな調子で、先生は夜中まで古銭ととっくみあいをしていたようだ。Img_4858 Img_4857

古銭の山から島屋文が出てきた。


 走行距離72Km 累計9,421Km 経費6,168円

★大洲郷土館YH (大洲市三の丸)一泊3,200円 郷土資料館併設、大洲城天守閣のすぐそばにあり、先代の集められた貴重な資料があり、値打ちもの。Img_4905

古銭の先生と。

★峠列伝(49)犬寄峠 250m(R56、伊予市) 困難度4 景色1 水場無し 歩道無し トンネル有り 登りも下りも長く、交通量多く苦しい峠、ゴミ多し。

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坊ちゃんの湯 4/27

2007-05-04 | 旅行記

 2007.4.27(金)曇り後晴れ  道中16度   
  7:00 起床 
 9:40 今治サイクリングターミナル発~県道15~藤山歴史資料館・妙見山古墳~県道163~広域農道~歌仙の滝・霧合の滝~市道~県道17~R196松山北条バイパス~県道20~
16:40 松山YH着~道後温泉本館

 疲れのせいかお酒のせいかよく眠れる。眠ったらすぐ朝だ。朝寝しても大丈夫なのだが7時には起きてしまう。バイキングの朝食をとり、準備して出発、今日も天気は良好のはずだが、変に曇っていて寒い。今日の道中はあまり予定がないので、大西町の妙見山古墳に行くこととする。1967年に発見された古墳を、調査終了の後石垣状列石等を建設当初の形にして保存している珍しい施設である。後円部の石室も一日2回公開されているそうだが、時間が合わず見ることは出来なかった。まず、藤山歴史資料館で予備知識を入れてゆく。石室の状態や出土品などの展示がなされている。史料館から山道を10分ぐらい登った丘の頂上にその古墳はある。石垣状列石や伊予型特殊器台を使った埴輪も並べられており、見晴らしの良い丘の上で、壮観である。埋葬者の権威を示すにはもってこいの位置である。こうやって土器が並べられているのを見て、埋葬用、古墳用の土器の底に穴が開いている理由が私なりにわかった。縄文時代からそうであるようだが、埋葬用の土器は穴の空けられているものがほとんどである。日常に使う土器と区別するためかなどと説明してあるものもあったが、水が溜まらないようにするためではなかろうか。古墳の周りに並べるにしても、地下に埋葬するにしても、水が溜まっては都合が悪いのは確かである。Img_4803 Img_4795
妙見山古墳前方から、左に玄室入口が見える。
右は伊予型特殊器台

 古墳に別れ、広域農道付近のかくれキリシタン遺跡を見に行く。地図に書かれている箇所に近づくも、それらしき案内は一向に見つからない。結局諦めて、そのまま農道を西進する。アップダウンを繰り返している内に歌仙の滝公園に到着、昼食のおにぎりを食べて出発する。公園は来園者が少ないせいか荒れている。右に左に枝道があり、滝がどこか解らない。結局本流を登ったところに、滝が現れた。大きく二段になっていて、中断に観音様が祭ってある。高さは67mでなかなか美形の滝である。左岸には観音堂があり、その中に人影を見てどきっとする。年配のご婦人がお参りをされているようだ。もう一つの霧合の滝は、県道から見えるということなので、今少し自転車で登る。この滝は落差は少ないが、くの字に折れ曲がった特徴のある形で、水量が多くて魅力的だ。Img_4811 Img_4820

歌仙の滝と霧合の滝



 このまま県道164を登って玉川に出ても松山には向かえるが、遠回りなのとやたらきつそうなので、歌仙の滝下の市道を通って県道17へ出るテクニカルなルートをとる。
田植え前の村の中を峠越えし、車一台分の細い道を下ってゆく。国道と違って自分がどこにいるのか解らない。いくつか分岐があるが、勘で曲がってゆく。道標がないから勘で行くしかない。とうとう道が解らなくなり、通りがかりの郵便局員に尋ねる。しっかり予定の道を走っていたようだ。すぐに道標が現れる。そんなもんだ。緩やかな下りを快適に下って、北条松山バイパスに出る。Img_4822 Img_4823

古い峠には必ずお地蔵さんがある。御幣が立っており、古い宗教行事があるようだ。石見からずっとこのようなものはよく見かける。


 新しくできた道みたいで、広くてきれいだ。歩道も段差が無く、走りやすい。ただ景色は私の嫌いな郊外の景色で、面白くも何ともない。金曜日なので、路銀を調達のため郵便局を探しているが、いつもの通り必要なときは見つからない。松山市内にはいると道も狭くなり、車も増えてくる。やっと郵便局を見つけ貯金をおろすと、次々郵便局が現れた。目指す松山ユースホステルは伊佐爾波神社奥の小高い丘の上にある。解れば何ともないが、結構探し回った結果である。
 荷物を解いて、道後温泉本館に行く。松山には四回来ているが、肝心の本館には入ったことがないのだ。この機会を逃したら、一生入れないかもと思い、勇んでゆく。宿でもらった四国で得するパスポートを使うと2割引であった。80円得したが、ロッカーが100円有料であった。神の湯に入る、大きな急須から豊富なお湯が出ている。少し熱めで、いい感触である。石鹸やシャンプーは無いので持ってきて良かった。
 帰りに、駅前の坊ちゃん列車や人形時計、足湯など見物して帰る。伊佐爾波神社の石段を数えながら登ると、130段あった、あれ135段やったかな。とにかくまたしても汗をかいてしまった。Img_4825 Img_4828 Img_4835
  




左:道後温泉本館 中:坊ちゃん列車 右:伊佐爾波神社
 
走行距離60Km 累計9,349Km 経費5,756円

★松山YH (松山市道後)一泊二食4,200円 岩盤浴もある楽しいユース。インターネットもできて設備は申し分なし。Img_4836

★道後温泉本館神の湯 アルカリ性単純温泉 条例により消毒がなされている。
 言わずと知れた道後の定番。

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しまなみ海道 4/26

2007-05-04 | 旅行記

 2007.4.26(木)快晴 道中17度 風強    
  7:00 起床 
 9:10 養老温泉本館発~R184~しまなみ交流館~向島渡船~向島県道377~因島大橋~因島県道366~生口橋~生口島県道81、R317~多々羅大橋~大三島R317~大三島橋~伯方島R317~大島大橋~大島R317~来島大橋~
16:30 今治サイクリングターミナル着

 今日は天気もいいし、しまなみ海道サイクリングに徹することにする。尾道から今治まで80Kmだから、のんびり見物などしておられない。尾道のしまなみ交流館で海道の概要を聞く。私はてっきり高速道路に付属して、自転車道も歩道もあるものと思っていた。
ところが、実際は橋の部分だけで、島は国道や県道を走るのだ。そのうえ最初の尾道大橋は、車のみの通行なので渡船で渡らなければならない。Img_4769 Img_4772 Img_4773





左:まづ渡船で向島に渡る。 中:因島大橋は二段になっている。 右:料金は良心任せ

 10分ほどの渡船で向島に渡り、しまなみサイクリングの始まり、行ってみたいNo.1のコースを晴天に恵まれて走るのは最高である。ところが南風が思ったより強く、結構苦しい。島内のコースは独立したサイクリング道が整備してあるのかと思っていたが、普通の道で、歩道の部分にサイクリング道のマークがしてある。その歩道も無くなるところもあり、がっかりする。自転車で通行する人は結構多く、ツーリングのメッカとなっている。レンタサイクルで走っている御仁も多い。最初の橋は因島大橋で、自転車と歩行者は二階建ての橋の下を走る。ネットで締め切られているので、トンネルのような閉塞感がある。こんな橋ばかりじゃ面白くないなあと思っていると、料金所が現れる。自転車、原付等は50円、歩行者は無料である。料金はボックスに放り込むようになっており、これじゃあみんな払わんぞ、と思ってみていたら地元らしき原付がすいすい通り過ごしていた。
私は幸か不幸か小銭が沢山あり、正直に払って通る。なにか釈然としない。
 因島のみ少しアップダウンがある。それより南風の方がつらい。生口橋からは車と並行して走るようになり、景色もよく見える。大きなザックを背負った若者が歩いている。四国に入ったら、八十八所参りの若者に合うこととなるのだろう。生口島、多々羅大橋、大三島、大三島橋、などと順次島と橋を交互に渡ってゆくのだが、はっきり言って面白くも何ともない。景色が特段美しいわけでなく、島にこれと言って見てみたいものもない。橋も三つも渡ったら飽きてしまった。一日中向かい風で、かなり疲れている。早く着いて風呂でも入りたい。Img_4776
Img_4781_1
橋は代わるが飽きが来る。


 最後の来島海峡大橋だけ、料金所に職員さんが居る。料金を徴収するのでなく、両替をするのが仕事らしい。総ての橋を渡っても五百円の料金である。なんとか徴収する方法を考えないと、本四公団の恐ろしい借金は返せませんぞ。
 サイクリングターミナルは海峡と橋の見える絶好の位置にあり、部屋からの眺めも最高である。誰でも宿泊できるので、車の方もお勧めだ。Img_4789 Img_4788

来島海峡大橋は迫力有り、景色も雄大。


 
走行距離83Km 累計9,289Km 経費14,070円

★今治市サイクリングターミナル(サンライズ糸山)一泊朝食5,000円 
  しまなみ海道今治側にあり、来島海峡と大橋が見える絶好の位置にある。リーズナブルで、レジャーにも最高。Img_4790

窓からの景色

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尾道の温泉旅館 4/25

2007-05-04 | 旅行記

 2007.4.25(水)晴れ  道中16℃ 
  7:00 起床 
 9:10 三次YH発~三次市歴史民俗資料館10:25~R375~県立歴史民俗資料館12:05~県道45号線~県道56号線~R184~
16:15 養老温泉本館着

 三次の街は地図を見れば驚くほど河川に取り囲まれている。東から馬洗川、北から西城川が合流し、南西から来た江の川と街の真ん中で出合い、北西に抜けている。西城川と江の川に取り囲まれた島のようなところが元々の城下町で、戦略的には攻めにくい地形だが、洪水の苦労は相当であったろう。今は立派な堤防があり、危険地域は立ち退き移転などの措置がとられているそうだが、そのきっかけとなるのが昭和47年の大洪水ということだ。
 写真集があり、町中の様子がわかるが、それはもの凄い被害である。お城は尾関山という山で、忠臣蔵でおなじみの浅野家の殿様である。西城川沿いの堤防は江戸時代から築かれており、その一部が保存されている。旭堤(あさひてい)と書かれているが、町の人は浅野堤と言っている。Img_4731

旭堤の遺構、右の草の部分。左の堤防が現在のもの、高さが違う。


 現在街の中心部は川の南に移っているが、かつてはこの城下町が中心部で、古い商店や銀行の建物など古い町並みが残っている。その一つが歴史民俗資料館で旧三次銀行本店跡に設置されている。ここだけではないのだが、昭和47年の洪水時の水深が表示されている。地上から50Cmまで水についたそうだ。Img_4732
Img_4733
堤防の中の古い町並みと史料館の洪水時の浸水深



 三次は妖怪発祥の街である。小泉八雲や近年では水木しげるなど妖怪を扱う作者も増え、おなじみになっているが、その元祖が三次にあるのだ。「稲生物怪物語」(いのうもののけものがたり)というのがそれで、稲生平太郎という少年が数多くの物怪と戦うというお話であり、いくつかの絵巻として残っている。実に56種の妖怪が現れ、その中にはなじみの深いものもある。
 また、三次は鵜飼いが有名である。6月から8月一杯行われる。白い鵜も居るそうで人気を集めているが、社会の底辺で伝統を守ってきた人達のことも思い浮かべて欲しい。
 国道375号線にはいるとマツダの工場が出てくる。東洋工業と言われた時代にロータリーエンジンを生み出したのはここではなかったか。Img_4741 Img_4726

妖怪元祖の絵巻と三次鵜飼いのポスター

 国道の傍らに三次風土記の丘と県立歴史民俗資料館がある。この地域には3,000基余りの古墳が密集しており、風土記の丘として保存している。これを見だしたら丸一日かかると思い、資料館だけにしておく。Img_4750 Img_4761

広島県北部には四隅突出型という変わった古墳がある。
古墳時代のタタラ跡

 すっかり時間を費やし、12時の出発となる。県道を走って世羅町に着く。陸上競技で有名な世羅高校のある町だ。このあたりからアップダウンの連続で、下りは50Km以上出る。なにか面白そうなものがあっても止まれない。とにかく走り続けて、尾道に入る。
最初は立ち寄る予定であった養老温泉に着く。時間的には温泉に寄っている時間は無いし、尾道でビジネスホテルにでも泊まるかとやり過ごそうとしたとき、養老温泉の看板の方向に「旅館浦島」の看板がある。30年近く前職場の旅行で来たような気がするのだ。職場の先輩内苑さんの奥さんの実家である旅館は、確か浦島旅館ではなかったか。これは行ってみるしかない、国道から4百m程はいると、養老温泉本館があり、その奥に浦島はある。Img_4765 Img_4768

養老温泉本館とその奥にある旅館浦島、私たちがかつて宿泊したのは写真右奥の旧館である。

 新しい2階建ての旅館があり、右手に旧館がある。入口に赤い太鼓橋があるのだが、良く思い出せない。なにせその時は天気が悪く、着くなりさっと風呂を浴びて宴会をし、翌日もさっさと出かけたような気がするのだ。いずれにしても、聞いてみれば解ること、新館も旧館も呼んでみるが、声がない。内苑さん本人に電話するも、留守番電話でつながらない。諦めて、養老温泉本館を訪ねる。朝食付き5,250円、お風呂も入れるし、泊まるか。というより、もう身体は動かなくなっているのだ。夜中に内苑さんから電話がかかってくる、間違いなくその旅館らしい。人間の記憶というものはいい加減なものだ。
  
走行距離78Km 累計9,206Km 経費3,936円

★三次ユースホステル (三次市)宿泊1,900円 たぶん日本一安いYH
 ホールには貴重な本が沢山あり、連泊して読んでみたい。朝はコーヒーなど用意してくれるので、パンだけ用意すれば充分。 Img_4728
                             
★峠列伝(48)広島県道45号線の峠(三次市) 困難度3 景色3 水場無し
R375からずっと登りが続く、急登はないが応える。峠名は解らないが、峠に破れ堂(実際には破れていない)がある。Img_4764

★養老温泉本館 (尾道市)放射能線(冷鉱泉)循環、加温、消毒 ラドン含有が66,27マッヘと記されてある。かなり高濃度の含有ということだが。

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