「大学教育について最近思うこと」
● その1「教師をやる気にさせるのは学生?」
アメリカの大学で、普通の講義を使って行われたこんなおもしろい実験がある。
学生にこっそりとある時間が来たら、講義している先生の顔をみて、先生の発問には積極的に挙手をし、先生の冗談には即座に反応するようにあらかじめ指示する。すると、先生のほうも、学生の顔を見ながら、発問の数も増え、講義にのった状態になる。そこで、さらに一定時間が来たら、学生に、逆に講義がつまらないことを示す態度を示すように指示しておく。すると、先生のほうも、先ほどののった状態から一転して、講義ノートを読み上げるような感じのたんたんとした授業になってしまったのだそうだ。
学生も教師も「のってくる」ような授業の状況が好ましいのだが、日本の大学は、おおむね学生の反応が貧弱で、どちらかというとネガティブなほうに傾いている。なんで講義室で彼らはあんなに不機嫌な顔をしているのか不思議に思うことさえある。
これが日本の大学教員の授業への熱意や動機づけを低めてしまっているところがある。これに追い打ちをかけるのは、学生による授業評価である。なさけ容赦のない?評価に講義恐怖症になってしまう教員もいるとの話も耳にする。
今のところ、思いつく改善の方策の一つは、小学校の対話形式の授業である。大学の授業のモデルに、「小学校の授業をモデルに」とはやや恥ずかしいところがあるが、随所での発問、机間巡視、そして、子どもとの親密なコミュニケーション。さらに、学生側に既或知識の存在を仮定しない授業展開などなど。いずれも、これまでの大学の授業ではなかったものである。それだけに、教員の側にスキルもないし、そんなことをすることに対してなんとなく気恥ずかしいところもある。さらに、学生の側の協力?も必要。となると、無理かなー。
● その2「大人になろうとしないふがいない若者」
見出しは、ある心理学者の言説である。青年期の延長は、近代の産業構造が変化したことに伴う先進諸国での必然であるとした上でのこうした巷間に流布するステレオタイプ的言説の問題点を指摘しているのだが、それでも、この言説には、日々若者と接している大学教員を得心させるものがある。彼らを大学生と考えるのではなく「高校4年生」として遇すればよいとの話も耳にする。
50%超えもの大学進学率の中で、「大人になろうとしないふがいない若者」がどれくらいの割合を占めるのかはわからないが、大学がそうした若者の収容?機関としての役割を一部期待されていることは間違いない。今後、進学率があがればその期待はもっと強まる。しかし、今の日本の大学教育によって、「大人として自律したたのもしい成人」へときっちりと成長させて世に送り出せるかどうか。はなはだ心もとない。
大学教育の中心になっている学問を学ぶことは、そうした成長への強力な力になっているはずとの思いが大多数の大学教員の中にはあるし、それが大学教員の仕事上の誇りでもあるし、使命感のもとでもある。
「しかし」である。最近、そのことが学生に伝わっているとは思えないことばかりに遭遇することが多い。学問以外のもの、たとえば、実務や徳育、もっと広く「人の道」のようなもので高等教育の内容を構成することもありではないかと、ひそかに思ったりもしている。