半藤一利と保阪正康という二大論客の対談「賊軍の昭和史」(東洋経済新報社)を読んでいたら、どうも都道府県の名前というのは、ずいぶんと恣意的に決められた様子が見える。
反骨の人、宮武外骨がまとめた「府藩県制史」が引用されていて、日本には県名と県庁所在地が違う県が17あり、そのうち三つは小藩の連合。残る14は朝敵とされた藩だったというのだ。しかも、強引ともいえる手法で、メジャーな藩名がマイナーな県名に変更させられている例も賊軍の側に多いのだとか。挙げてみましょう。
松江藩 島根県
姫路藩 播磨県と改称、のちに兵庫県に合併
松山藩 愛媛県
高松藩 香川県
桑名藩 三重県
名古屋藩 愛知県
水戸藩 茨城県
小田原藩 足柄県と改称、のちに神奈川県
高崎藩 群馬県
仙台藩 宮城県
盛岡藩 岩手県
米沢藩 置賜県に改称、のちに山形県に合併
……なるほどね。さて、それでは明治政府はどのような方針で県名を決めていったのだろう。興味がわいたので谷川彰英著「都道府県名の由来」(東京書籍)を読んでみました。いやはや知らないことっていっぱいあったんだなあ。
◆誰が主導したのか
明治4年の廃藩置県などによって県の改廃もスタート。この過程で特に重要な役割を果たしたのが内務卿の大久保利通。おお、いきなりビッグネーム。怜悧な大久保らしく、合理的な手法が内在していたらしい。
◆ルールその1
千年以上の歴史を持つ、いわゆる旧国名を完全に排除。幕藩体制を否定して欧米列強に伍すること急いだ明治政府にとって、これは最優先事項だったようだ。以下次号。