いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

2009年07月20日 11時58分11秒 | 国内出張・旅行

南の島にて


林達夫の軍へのプロパガンダ協力の件;

戦時中の、対外宣伝誌『FRONT』の解明は、当事者の証言も含め、1980年代中頃以降に行われたようだ。これは林達夫の死を合図にはじまったがごとくである。

調べてみると、林達夫の対外宣伝誌『FRONT』を創っていたことは、少なくとも、1955年(昭和30年)には公知であった。本多顕彰、『指導者 ―この人々を見よ』に下記書かれている。 {なお、下記引用は渡部昇一の『続知的生活の方法』(1979年)の'知的独立について'という章の"恒産と変節"という節からのもので、財産を持っていないと非常時に「魂を売る」ことになるぞ!という論旨の展開の中での例示。

ちょうどそのころ、『英語研究』の編集長をやっていた山屋三郎君が・・・参謀本部直営の英字宣伝誌 "The Front" が東方社というところから出ており、そこの理事は林達夫氏と中島健蔵氏であるということをも語った。


『続知的生活の方法』は1979年出版でありこの本は売れたらしいので(『知的生活の方法』は現在も刷っている)、林達夫="The Front"は広く公知となっていたと言える。しかし、林達夫自身が生前"The Front"について語った記録はない、あるいは公開されていない。

▼ :わが目を疑った:  :腰を抜かさんばかりに驚いた: 山口昌男

今となっては、Amazon: 戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々少しは明らかにされてきいる"The Front"に霧中から『林達夫="The Front"』にたどり着いたのが、この『戦争のグラフィズム』の解説も書いている山口昌男。

→→最近、ふるいつきあいのある或る編集者が提供してくれた資料に「東方社業務計画」というのがあって、これを見たとき、僕もわが目を疑った。理事に林達夫、岡正雄、それに岩村忍氏が名を連ねている。わが師岡正雄は東方社のことは生前一度も言ったことがない。岩村忍氏は歴史家、民族学者で中近東の遊牧民社会研究の先駆者です。
 ここで出していた雑誌は英語題名『FRONT』、邦題は『東亜建設』でした。この雑誌は陸軍参謀本部の肝入りで出していたものです。(中略)特にこの雑誌はソ連の『ソ連建設』という宣伝雑誌をモデルとしてつくられたというと、林三郎大佐(林達夫の弟)が参謀本部のソ連関係対策将校であったという線が浮かび上がってきますね  (1986年の山口の発言;『林達夫座談集 世界は舞台』。なお、林達夫は1984年に死去。この1986年の山口の発言は林を偲んでの対談)


→→最近、私が再び林達夫について書いていることを知った古いつきあいのある編集者(講談社出版研のS氏)が、私が永く探し求めていた資料のコピーを提供してくれた。
 それは第二次大戦中、林達夫が関係していた「東方社」についてのものである。(中略)
 私が提供していただいたのは「東方社業務計画」という多少手に入りにくい小冊子である。
 この小冊子を見て、私は文字通り、腰を抜かさんばかりに驚いた。(山口昌男、『「挫折」の昭和史』)


山口は林の葬儀で弔辞を読むほど関係が深かったし、岡正雄は山口の師匠。つまりは、リャンファンついたのであった。というか、林は「東方社」での盟友だった岡の弟子筋ということで山口との縁を深めていったのではないか?ただし、林と岡が「東方社」で一緒だったということを隠して。

なお、山口は林の生前このプロパガンダ雑誌について直接聞こうと水を向けたが、はぐらかされたと書いている(『林達夫座談集 世界は舞台』)。 一方、『戦争のグラフィズム』の中で多川は;

「君が当時のことを調べたいのなら、そのうちゆっくり話をしてあげるから」

と、1979年頃、電話で林からいわれたと書いている(『戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々』)。