いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

歴史の暮方の後で

2009年07月12日 12時15分11秒 | 

  ― たとえば「小さな政府」と「大きな国防」をめぐる議論において次第に目立ちはじめているのは、大政翼賛会を強いんとする大衆の愚劣な心性である。―


- 今朝のラズベリー -

■上記の引用は1980年に"大政翼賛会を強いんとする大衆の愚劣な心性"を見た西部邁のもの(西部邁、「林達夫の達観」1980年、初出は雑誌『現代思想』、現在は『大衆への反逆』(1983年、文芸春秋社)に所収)。今週末、20年前に梱包、保管していた段ボールを明けた。タイムカプセルだぜ。西部邁の『大衆への反逆』(1983年、文芸春秋社)も出てきたので、しばし読み耽る。

西部は1980年の時代の気分を開戦前夜の林達夫の絶望になぞらえ嘆き、憤っている。

まずは、林達夫の「歴史の暮方」からの引用;

絶望の唄を歌うのはまだ早い、と人は言うかもしれない。しかし、もう三年も五年も前から何の明るい前途の曙光さえ認めることができないでいる。誰のために仕事をしているのか、何に希望をつなぐべきなのか、それがさっぱりわからなくなってしまっているのだ。この自分の眼にしっかりと何かの光明を掴むために、何かの見透しを持ちたいために、調査室の書棚の前に立ったし、研究会のテーブルの周りにも腰かけてみた。私には、納得の行かぬ、目先の暗くなることだらけである。いや、実はわかりすぎるほどよくわかっているのだ。受け付けられないのだ、無理に呑み込むと嘔吐の発作が起きるのだ。私のペシミズムは聡明さから来るものではなくして、この脾弱い体質から来る。先見の明を誇ろうなどという気は毛頭ない。そんなものがあればあるで、自分の無力さに又しても悩みを重ねなければならないであろう。

この林の文章は1940年6月初出。文章中の研究会とは林達夫が参加していた昭和研究会 (ウイキ) のことに違いない。そして、1940年6月には昭和研究会は解散寸前。解散の理由は大政翼賛会発足 (ウイキ) のためである。そもそも昭和研究会は近衛文麿のブレーンの後藤隆之介が作った組織で、後藤が大政翼賛会の"事務総長"になるので自ら潰した。

さて、西部がこの林の昭和研究会でのグチの回想をよりどころに、「小さな政府」と「大きな国防」をめぐる議論において次第に目立ちはじめているのは、大政翼賛会を強いんとする大衆の愚劣な心性」と、これまた深刻ぶって愚痴っている時期に、西部は大平正芳総理大臣の「ブレイン機構」に参加している。その会での報告書が同書(『大衆への反逆』)に所収されている。おもしろい。例えば;

経済について
経済成長は虚妄であるということについて貴方に同意してもらわなければならない。

Amazon: 大衆への反逆 (今、絶版なんだね)

といきなり経済成長への懐疑。つまり、大平内閣、自民党は経済成長を放棄するはずもないのであるから、そんな会議で経済成長への懐疑を主張したのだろうか?もちろん、西部の主張は一貫していて、経済成長停止・鈍化に伴う失業者の増大についての策を細かく論じている。(今こそ、この西部案を!)まさしく、また逆に、新古典派を批判し、それを超えた社会諸科学の「超学的協同」を提唱する論者すら、そうした知の協同が描き出す円環と脱成長段階の社会(新たな「冷たい社会」?)の円環とが美しく共鳴しあうという宗教的なヴィジョンを語り、エピクロスの園の幸福への希求を口にしてしまうのである。

とまれ、政権中枢?にいた西部は、同じく政権中枢?にいた林の開戦前夜の気分と1980年の気分が同じだと言い、さらに林達夫の身の処し方に憧れに近い共感を示している。たとえば;

そんなことよりも、経済の単方向において大国に膨れ上がった我が国の現状にあっては、林氏のように「こころ暗さ」を感じることすら難しく、また林氏のようにラヴェンダーの栽培によって矜持を保つ機会すら奪われているのではないかと私は思う。


歴史は夜作られる

ラベンダーを栽培しているのだの、マロニエの手入れをしているのだの、あるいは「鶏を飼い始めたよ」というのが挨拶がわりだの、あるいは;

生きる目標を見失うということ、見失わされるということ― これは少なくとも感じ易い人間にとってはたいへんな問題である。我々は何のために生きているのか、生き甲斐ある世の中とはどんなものか― そんな問いを否応なしに突きつけられた人間は、暫くは途方に暮れて一種の眩暈のうちによろめくものだ。「よろしくやってゆける」人間は仕合せなるかだ。だが、そんな人間の余りに多すぎるというそのことが、私にとってはまた何ともいえぬ苦汁を嘗めさせられる思いがして堪らなくなるのだ。

との林達夫の"プロパガンダ"にマンマと乗せられているのが、1980年の西部邁ではある。「歴史の暮方」は戦後も刊行され、"知識人"に"ファシズムへの抵抗"としてもてはやされていたらしい。

しかしながら、林達夫は戦時中、仕合せにも、「よろしくやって」いたのである。

そして、戦後はそのことについて一切口を拭ったまま死んでいった。


Amazon: 戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々 ↑軍刀、長すぎない!?(軍人と林達夫)

参謀本部発注のプロパガンダ雑誌を作っていた。 FRONT(フロント)とは、国策により東方社から、戦時下の1942年から1945年までに10冊が出版された大日本帝国の対外宣伝(プロパガンダ)グラフ誌(刊行されたのは9冊)。号によるが、創刊号は15か国語で翻訳・刊行された。

すんごい cool! こんなの→幻のグラフィックデザイン誌:FRONT

あるいは、→グラフィックデザインは戦争が作った

■ なぜ、ぬっぽん・いんてりは間抜けなのか?

かんたんに「戦争協力」ということばで片付けることはできない、

そーかい。そな、複雑でもいいから片付けてくれや。でも、戦後ずーっと口をつぐんできたんだから、後ろめたいんだべさ。

皇国庶民の爪のアカでも煎じてのめや;

事件後十九余年を経た後も、少しの悔いもないとの証言を残している。