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南の島で見た虹
■ 今となっては誰も見向きもしない林達夫。
拙記事:
・林達夫 I: 歴史の暮方の後で
・林達夫 II: 栗の実、はじまりました。
・林達夫 III: 海
▼ 例えばこのような文章:<文壇こぼれ話⑩> 取れなかった原稿⑦ 林 達夫さん 常務理事 岡崎 満義には、
そこは50坪くらいあったろうか、庭というより畑だった。戦時中、軍部や警察からにらまれて、まともな執筆活動ができない時期に、林さんは園芸雑誌に「鶏を飼う」「作庭記」など、いわゆる“思想”的論文からはなれた文章を書いて糊口を凌いでいたのだが、そのおおもとがこの庭だった。
これは、林達夫 I: 歴史の暮方の後で に書いてあるように、「事実」と異なることが1984年の林の死後、特に1980年代後半、には明らかとなっている。
陸軍参謀本部の注文を受けて対外情宣画報会社・東方社の制作のトップが林達夫であったことは、戦後必ずしも広く知られたことではなく、さらに当事者が長い間特に公表しなかったこともあり、徐徐に解明されたのは1980年代以降であった。山口昌男がこの東方社-林達夫を知った経緯は、林達夫 III: 海に書いた。
■今日は、渡辺一民が1988年に出した『林達夫とその時代』に書いてある、渡辺の「東方社-林達夫」問題の認識の仕方をコピペする。Amazon: 林達夫とその時代
わたしはつい最近、八方手をつくしたすえやっと『FRONT』を五冊だけ手にとって見る機会に恵まれた。「1~2」と記されている「海軍」号、「3~4」の「陸軍」号二冊、「5~6」の「満州国建設」号、「8~9」号の「空軍」号で、「海軍」号はドイツ語版、「陸軍」号は中国語版と英語版、「満州建設」号は英語版、「空軍」号は中国語版という内訳である。A3判というが、これほど大判の雑誌には、一八九八年四ヶ月だけつづいたフランスの諷刺週刊誌『ル・シフレ』の合本以外わたしもこれまでお目にかかったことはなく、それを見るのに大きなテーブルのうえに拡げて地図をまえにしたように覗きこまなければならなかった。いまでこそその一冊、中国語版「陸軍」号をとりあげて、この「幻のグラビア雑誌」の性格をこの眼でたしかめてみたい。
雑誌は左開きで、表紙はすでに聞きおよんでいた小西録の《さくら天然色フィルム》の最初の使用によるものであろう、色は全体として青みがかかり、軍刀を手にパイロットが飛行機の昇降口から出てくるところが正面から写されている。表紙うらの見かえし左ページのまんなかに金色の星印がおかれて「亜細亜的礎石―日本陸軍」と大きな文字が印刷され、右ページにはお濠端からとった二重橋の写真だ。次をめくると見ひらきページで、左上段に横にゴチで「一九四〇年的亜細亜風景」と大書きされ、そのしたに左から帯状に三列、右ページまで食いこんで一三枚の小さな写真がならべられ、その一枚一枚に雲崗石窟、万里の長城、ゴビ沙漠、蒙古の草原、上海市街など占領地域がうつり、右ページには写真の帯を中断して中国の地図が拡がり、その中国大陸と向かいあうかたちで、防寒具に身を固め銃剣をもって立つ歩哨の上半身が配されている。つづいて「一八四〇年鴉片戦争」と印刷されて当時の中国地図と絵四葉がならんでいる見ひらきページ、頭に「再請問:日本是不是亜細亜的侵略者?」と活字がならび日本を含めた極東地図で埋められたおなじく見ひらきページ、そのあとの「日露戦争」という大見出しで、大山元帥の法典入城から乃木・ステッセル会見の場面までの六葉の絵と、ロシアからのびた黒い魔手が日本を囲んでいる極東地図を収め、細かな文字で日露戦争の原因を説明した片側びらきで都合三ページの見ひらきがくる。 (略)
こうして五冊のグラビア雑誌を丹念に見おわったあと、わたしはあらためて『FRONT』という刊行物の意味について考え込まされてしまった。これが海外向けのものであって日本国内ではほとんど流布されなかったということが、その刊行に軍がかならずしも協力的でなかったということが、あるいは本格的で芸術性の高い作品によって編集されていたということが、それが戦争遂行のための有効な手段のひとつだったという事実の重みにたいして、いったいどれほどの関係を持つことなのだろうか。そんなことはまったくかかわりなく、『FRONT』は芸術的にすぐれたものだっただけに、いやそうであればあるほどますます完全に、その担わされた使命を期待どおりにはたしたにちがいないのだ。とすれば、いかなる事情があったにせよ、それを企画し制作した人々にはやはりそれなりの大きな責任が生じるのではなかろうか。そしてわたしの脳裏に反射的に浮かんできたのは、執筆停止命令をうけて東京市社会調査課千駄ヶ谷分室の臨時雇となり、四二年の《日本文学報国会》には恥をしのんで入会を申請し、敗戦直前には世田谷船橋で圧延伸張工として働かねばならなかった中野重治のことであり、脱獄して訪ねてきた旧知の高倉輝に外套を貸したただそれだけの理由で投獄され、敗戦の一ヶ月半後疥癬と栄養失調で獄死しなければならなかった三木清のことであった。その三木清の死後林達夫はこう語っている―「私が多少とも交渉をもった非合法時代の共産党員は、野呂栄太郎にしろ、島誠にしろ、亡妹にしろ、そしてTにしろ、何度もつかまりながら、つひに一度も私に累の及ぶやうな口供をしたことはなかった。これは逆にいえば、私はこれなら信頼するに足ると確信することのできない人々には、一切どんな因縁があっても心を許そうとしなかったためでもある。三木の寛宏な温かさと私の狭量な冷たさはこんなところにもあらわれているといえるだろう。―だが、それにしても、やはり運であった。」(「三木清の思い出」) もちろん《東方社》理事長であった林達夫は、中野重治のように恥をしのんで《日本文学報国会》への入会願を書く必要はまったくなかったのである。
(意略: 林は東方社・『FRONT』刊行と同時に岩波の雑誌『思想』の編集もしていた。林は『思想』について”日本のジャーナリズムで、戦争中レジスタンスを事実上やっていた雑誌があったとれば、それはほかならぬ『思想』であったであろう”と自賛。 )
ともあれ林達夫はみずから選択したポリティックによって、みずからの砦を死守し、たとえ装われたものにせよ奴隷の言葉をいっさい語ることなく、戦時下のきびしい時代をみごとにくぐり抜けたのだった。
■なぜ、林達夫?
渡辺一民がなぜ『林達夫とその時代』を書いたかの一端が"あとがき"にある;
それでも林達夫に焦点をあてて昭和の精神史を振りかってみよう
林達夫を見ると、昭和の精神がわかるらしい。そういえば、日本の軍国主義に対する批判の姿勢を一貫してくずさずに生きた林達夫。その思想はどこから来たか。戦前と戦後を通して「声低く」語った政治的・社会的発言の数々。 という神話が今でも流布しているが (これは上記:戦時下のきびしい時代をみごとにくぐり抜けた:ばかりでなく、戦後も死ぬまで事実上ばれず今に至っていることを示す)、実は陸軍参謀本部御用達の宣伝屋さんであり、戦後は全く口をつぐんで、文化人稼業を続けた林達夫の生き方について、渡辺一民は上記引用のごとく、中野重治と三木清を対照させ、林達夫の行き方・精神を浮かび上がらせている。
おいらとしては、林達夫の行き方・精神の参照として、どうしても、大元帥→ファミリー・グランパを思い出さずはいられない。やはり、まさに昭和の精神なのだ。
さらに、渡辺は、わたしにとっての林達夫の問題は、まさに西洋と日本ということにあった。そしてわたしは林達夫を取りあげることによって、十月革命以後一国の枠のなかで考えられる文学史も思想史もなくなったという私見を、日本の精神史のうえで立証してみようと企てたわけだった。と理由を書く。
文学史も思想史ではなく、政治・軍事問題の点なのだが;
林達夫はソヴィエト信仰は強く持っていたらしい。戦後の『共産主義的人間』に至るまでは。
林達夫問題とは直接関係ないのだけれども、参謀本部―ソビエトというラインは、今もって謎のライン。ゾルゲ事件で今でも未解明なのは、参謀本部の誰かが情報提供者であることは間違いないが、その情報提供者が誰であるか。
東方社は、参謀本部―ソビエトというラインの何かなのである。