南の島、さとうきび畑、空と雲
■林達夫V
拙記事:歴史の暮方の後で 、「そして、戦後はそのことについて一切口を拭ったまま死んでいった。」と林達夫の自身の戦争協力についての戦後の態度を書きましたが、まちがいです。 ゆるしてください。
拙記事:海において、■林達夫の軍へのプロパガンダ協力の件;と下記書きました。
:::戦時中の、対外宣伝誌『FRONT』の解明は、当事者の証言も含め、1980年代中頃以降に行われたようだ。これは林達夫の死を合図にはじまったがごとくである。
調べてみると、林達夫の対外宣伝誌『FRONT』を創っていたことは、少なくとも、1955年(昭和30年)には公知であった。本多顕彰、『指導者 ―この人々を見よ』に下記書かれている。 {なお、下記引用は渡部昇一の『続知的生活の方法』(1979年)の'知的独立について'という章の"恒産と変節"という節からのもので、財産を持っていないと非常時に「魂を売る」ことになるぞ!という論旨の展開の中での例示。
ちょうどそのころ、『英語研究』の編集長をやっていた山屋三郎君が・・・参謀本部直営の英字宣伝誌 "The Front" が東方社というところから出ており、そこの理事は林達夫氏と中島健蔵氏であるということをも語った。
『続知的生活の方法』は1979年出版でありこの本は売れたらしいので(『知的生活の方法』は現在も刷っている)、林達夫="The Front"は広く公知となっていたと言える。しかし、林達夫自身が生前"The Front"について語った記録はない、あるいは公開されていない。:::
これを受けて、週刊誌が取材記事を出したらしく、その取材で林は口頭で下記答えたとのこと:
戦争に協力することと、軍閥に協力することを本多氏は混同しているようだ。僕などは明治人だから、あの戦争に協力したことが、間違っていたとは思わない。あのような異常な情勢の中にあって、できるだけ、いい仕事をしたいと考えてやったことだ。
渡邊一民、『林達夫とその時代』、第五章 隠れた「戦後」。
戦争協力、上等だぜ!、問題はいい仕事かどうかだ!とおこたいあそばされたらしい。
そうなのだ、いい仕事かどうか、らしい。もしそうであるなら、『FRONT』がいい仕事であったかどうかが検討されなければならない。
そうであるなら、『FRONT』の復刻版が1989-1990年に刊行されたことは、その検討ができることを可能にしたと言えるし、1989-1990年までは事実上できなかったとも言える。
さらには、いい仕事かどうかはたかだか画報製造技術の観点からのみ考察されるだけで( 多川精一 Amazon:戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々 (平凡社ライブラリー) (単行本(ソフトカバー)))、プロパガンダという観点から、協力という言葉に「恥じない」ほど戦争への貢献の実効性があったかの検討を見たことがない。
一方、戦争に協力することは正しい(間違っていない)という林の論理,さらに戦場なんかいかずに"隠れ家"で"才能"にあったいい仕事をすることが重要だという論理を展開すると、例えば、丸山真男二等兵(一等兵?)は、近衛文麿なんかの取り巻きだった矢部貞治東大法学部教授のお手伝いなんかをして、つまりはいい仕事をすればよかったのに!兵隊にもとられずに!ということなのだろうか?
●蛇足: なぜ60代と30代? 60代はともかく、30代ってのは?
林達夫のブログ評判
それにしても、林達夫のブログでの評判、よい!が100%、ということは、このブログがいかに歯牙にかけられていないかを示す証左にほかならない。