いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

おいらも、砂糖と塩

2011年06月12日 16時08分40秒 | インド

インドで買ってきた、砂糖の結晶。インドでは製糖関連産業で、ちぃーと、仕事をした(非コンビナート系・工場萌えな日々)。インドは砂糖であふれている。インドと日本の大きな違いだ。インド人が調理場で具体的に砂糖を使うかは知らないが、ひとつの砂糖の使い方は食後に使う結晶の砂糖。ミントと合わせて、バリバリ食べる。口を漱(すす)ぐのだ。

石で口を漱ぐのは無理でも(⇒愚記事;「滅びるね」 @浜松駅)、結晶で口を漱ぐ人たちはいるんだょ。 彼らは、核武装したんだょ(⇒愚記事;■核武装し大国化するインド;)。

"歯磨き粉"が砂糖とはこれいかに?インド人に虫歯が多いのだろうか?(たぶん、そんなことはないのだろう)。これは、インドでの食事で気づいたこと。そして、この、日本では見ない、砂糖結晶をなんとか手に入れたいと思った。

インドの食料品店にあった。袋詰めで売っていた。この結晶砂糖は調理に使うんだろうか?溶けにくいだろうな。砕いたりして使うんだろうか。あるいは砕いて使うんだろうか?

なお、一緒に仕事をしたインド人は、ものすごく砂糖を入れた紅茶を飲んでいた。びっくりするほど、砂糖を入れて飲む。インドは砂糖にあふれている。っていうか、おいらがさとうきび畑に働きいったんだよ。

インドでは古くからさとうきびを栽培して、砂糖をとっていたらしい。毛唐さんが砂糖を知った経緯については複数の説がある;

1.紀元前三二七年、インドに攻め込んだアレキサンダー大王の軍隊は、インダス川の流域などに茂するサトウキビを発見して、「蜂を要せずして蜜がとれる葦」と報告し、甘蔗糖(砂糖)がヨーロッバに伝わるもととなった、と伝えられる。蜂蜜をほとんど唯一の甘味としていた人々にとって、サトウキビは東方の神秘と思えたのでもあろう。(大塚滋、"戦争と食べ物"、別冊歴史読本「世界の戦史」)

2.ヨーロッバのキリスト教徒が砂糖のことをかなり詳しく知るようになり、自分で砂糖きびを栽培するようになったのは、一一世紀末にはじまった十字軍運動からだと思われます。(中略)

 こうして、聖地の回復という意味では、十字軍は成功とはいえませんでした。しかし、七回以上にもおよんだこの大遠征で、ヨーロッ人は、イスラム世界との交易の道筋をつけることに成功しました。また、当時、自分たちのそれよりはるかに高いレベルにあったイスラム世界の文化、とくに、医学や科学の技術をすすんで取り入れることにも成功しました。西洋近代の科学の基礎は、こうして築かれたのです。(中略)

 砂糖きびの栽培と製糖の技術もまた、このルートでヨーロッパに伝えられた技術のひとつでした。(中略) 

 それまで、甘味といえば蜂蜜しか知らなかったヨーロッ人にとっては、砂糖の強烈な甘さと純白さは、何か神秘的なものにみえたことでしょう。 (川北稔、『砂糖の世界史』)

 

砂糖になじみがなかった点は日本と同じだ。今でも、砂糖を取り過ぎるとヤバイという感覚は日本にはあると感じる。今はやっていないが、数年前はラジオでさかんに砂糖産業が「砂糖は体に有害はデマです!」とCMを打っていた。

日本人の一部の中にある"砂糖を取り過ぎるとヤバイ"という感覚は、ある種の禁欲主義から来ているのだろうとおいらは睨んでいる。砂糖の甘さは快楽であり、それが過ぎると、堕落するような気分になるのはないだろうか? おいらも、バカやキチガイはしかたないとしても、デブだけにはなりたくない。

猫猫センセも少なからずそういうデブだけにはなりたくないという感覚があるのだろう。なぜなら、デブにならないにように金剛杖とやらを使ってがんばっているらしいので。景気をつけろ!ちゃりん!ちゃりん! おいらは、ただただ、夜更けにおいらの部屋の窓の下を、ちゃりん!ちゃりん!と杖をついて歩く御大が通過しないことが願うばかりだ。でも大丈夫だ、ここは筑波山麓だ。来るわけがないのだ。

猫猫センセは、いうまでもなく、健康のためにデブを忌避しているのではない。なぜなら、本当に健康に気を使っているのであれば、まずは、タバコをやめることもできるからだ。でも、放射能を忌避した気配もあるので、長生きしたいという徴候も見える。

話は飛ぶが、デブじゃないと困る点は、"和服"を着た時、帯のすわりが悪いということがある。谷崎マニアの猫猫センセは、自らも和服コスプレをしたり、あまつさえ披露したりしないのだろうか?素朴な疑問。ママチャリのハンドルを握った姿じゃ、恰好がつかんべさ。

昔、はたちの頃、ちょん髷+和服というのは中年日本人男性、つまりはデブでハゲに(も)似合ったいでたちなのだと気付いた。

■さて、上記の川北の説に関連して、グラニュー糖といって粒粒の砂糖は、みなさんもなじみ深いでしょう。そのグラニューは英語のgranular=粒粒、から来ている。そして英語のgranularは典型的なアラビア語起源の言葉。砂糖移管とともに欧州入りしたのだろう。一番上の画像こそgranularだ。そして、自形(euhedral⇒google)の結晶だ。結晶の平衡系での出現する結晶面に囲まれている。結晶としての砂糖という認識は、日本人にはなじみが薄いと思う。一方、ヨーロッパには上白糖がないのだ(稀なのだ)といううわさも聞く。

ちなみに、この粒粒砂糖をナメクジにかけても、ナメクジの水分は吸収されづらいだろう。

■南の島; 近代日本では南の島でさとうきびを栽培、製糖している。おいらも、働きにいった。

 南の島⑥ さとうきび 

一方、南の島では、日差しが強く、そして風があって乾きが早いのだろうから(⇒こんな風景)、

塩もつくっている。⇒http://www.yukisio.com/products.html

砂糖と塩のリャンファンついているのだ。恐るべし、南の島。

なお、毛唐さんは塩を岩塩から調達している。岩塩は日本にはない。岩塩って昔浅瀬の海だったところで、海水が干上がって塩が堆積したもの。つまり塩田の化石だ。だから、ヨーロッパ人は塩田、つまり強い日差しの海岸が必ずしもなくても、社会を維持できたのだ。

地球上のいかなるぬんげん社会もかならず塩を調達しているので、どう調達しているかを明らかにすることは、その社会の特性の一面を明らかにする。

■インドと塩

デリーには6回行った。最初はなかったけど、ある年忽然とこの像が現れた。塩の行進。⇒wiki。知らなかったよ。ありがとう、像。知らせるという像の役目は果たされているよ。

 

 

■で、"本歌"の猫猫センセの「2011-06-11  砂糖と塩」 (直接リンクはしないょ);

ところで、仕事上の必要があって『ノルウエイの森』を読み返していたら、ナメクジを呑んだ男の話が出てきて、気持ち悪くてそのあとで塩水を飲んだ、とあったが、これは多分、ナメクジは塩で溶けるという俗説 を信じたのだろう。ナメクジに塩をかけると縮むのは、塩が水分を吸い取るからで、砂糖をかけても同じなのである。『ウルトラQ』でも、ナメゴンを海に落と すというのがあったが、あの場合、浸透圧とかの関係で何とかなるかもしれないが、塩水を飲んでも意味はないだろう。

 村上春樹が、そんなこと先刻承知で、バカな男を描いたのかというと、どうもそうは思えない節がある。

(強調ikagenki)

いいたいことから考えて、砂糖をかけても同じなのである、は、塩水をかけても意味がない、とした方がいいのではないだろうか?砂糖が引かれる積極的理由がわからない。なんなら、小麦粉でもいいわけだ。あと、そもそも砂糖(上白糖)が本当に吸水性があるかおいらは確認するまで不安だ。その物質が水に溶けることとその物質の吸水性って原理的には別のことだょ。

もちろん、でも、そうすると、砂糖の出番がなくなり、猫猫センセの砂糖と塩話が成立しなくなるのだ。竹に木を接ぐ話ならぬ、塩話に砂糖をかませるがうまくいっていないのだ。

三題噺どころか、二題噺だって、はむずかしいのだ。

って、いうか、これは、比較文学なるもの比較とか並列とかの虚無性を指摘しているのかと思った。なんなんだ!「砂糖と塩」。