いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

今日の看猫2011/6/28、あるいは、敵役(かたきやく)について、幻のデカルト-天皇ライン

2011年06月28日 20時21分55秒 | ねこ

うめちゃん。 

敵役(かたきやく)について、幻のデカルト-天皇ライン

週末にのんべんだらりんと本をながめていたら、ずぶんを見つけたょ。やはり、遠いところに自分探しに出かけなくてもいいのだ。

  どうせおいらはインチキですよ!

古田博司、『新しい神の国』から孫引き。丸山眞男の言葉;

 ::むしろ、一般的に申しますと、日本で偽悪というのは、逆説的に、しばしば偽善の効果を持つことがあります。日本の風土では批判的な思考が弱いでですから、自分の姿勢をいちばん低くしておいて、どうせおいらはインチキですよ、と最初に言っておくと、寝そべった姿勢は重心がいちばん低いですから、いちばん安定しているわけです。そういう安定した位置から、理念とか理想とかを求めようとする、背伸びした生き方を嘲笑するというのは、よく見られる風景であります。江戸の「町人根性」以来の、これが一つの処世術です。::

出典は、丸山眞男、「福沢諭吉の人と思想」、丸山全集15巻、1996年、だそうだ。

ん~、すごい。そして、びっくり。のんべんだらりんと本をながめているだけじゃだめだゾ!とちょっぴり思う。でも、おいらは、寝そべってばかりいないんだぞ。安定した位置ばかりにもいなんだぞ。高いところに登ってがんばってバイトしたりしてるんだぞ(愚記事 やっぱり、おいらは、高踏派

■やはり、昭和の成仏のために、がんばってみよう。寝そべりから帰って、背を伸ばして本をながめる。刈部直、『丸山眞男』にある。朝鮮での、大日本帝国陸軍二等兵の丸山眞男さんの姿。

 ::下士官や上等兵から始終殴られ、たとえば点呼のさい、「朝鮮軍司令官板垣征四郎閣下」とよどみなく叫べるか否かまできびしく咎められる。::

かわいそうな、眞男。でも、丸山はその叫んだ「朝鮮軍司令官板垣征四郎閣下」が天皇から「どうも頭が悪いじゃないか」と言われたとは、この時、知らなかったのである。かわいそうな、眞男。

そして、平成になっても、そしてはとっくに死んだ後なのに、「丸山眞男をひっぱたきたい(Google)」ムーブメント(?)が出来(しゅったい)。かわいそうな、眞男。

でも、この平成の「丸山眞男をひっぱたきたい」ネタ騒動は、何度めかの「丸山眞男バッシング」である。ひとつは、大学紛争の時らしい。この時、実際に丸山が殴られたのかは知らない。もっとも、吉本隆明による批判がそれに先立つらしい。一方、戦後3度目?の「丸山眞男バッシング」である1980年代中ごろ、加藤尚武が雑誌『諸君』で、この1960年代末の大学紛争時の丸山受難の模様を報告し、そして、別の視点から、「丸山眞男をバッシング」していた。つまり、丸山の西洋理解なんてものは浅薄なんだと。チェルノブイリ原発事故の頃だ。おいらもみた。

    

つまり、丸山眞男は、なぜかしら、連綿と「敵役」になってきたのだ。受難する眞男。

▼そんな、丸山眞男の「敵役」は「天皇制」だ(刈部直、『丸山眞男』から孫引き;)。

 ::敗戦後、半年も思い悩んだ揚句、私は天皇制が日本人の自由な人格形成―自らの良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式をもった人間類型の形成―にとって致命的な障害をなしている、という帰結にようやく到達しやのである。(「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」、全集15巻)::

ところで、丸山眞男は1978年に、日本に来たフーコーに会っている。ちなみに、フーコーは吉本隆明にも会っている(⇒蓮實重彦と猿たち)。誰の入れ知恵のバランス感覚なのだろう?丸山眞男はフーコーとの会見の感想を述べている;

 ::彼らがやっていることは全部反デカルト主義、つまりは近代合理主義の告発だね、ところが話していると、ヨーロッパのカルテジアニスム、デカルト主義の伝統の重さと強さがやりきれないほどこっちにも伝わってくる。必死になってそれに反抗しながら、デカルト主義に深く制約されているわけだ。だから反抗を通じて同時にそれを再生させているわけね。::(再び、刈部直、『丸山眞男』から孫引き)

ん~。穿っている。

そして、その穿ちは、デカルト主義⇒天皇制、ヨーロッパ⇒日本に変換することを促し、自分のことを考えることを要求するに違いない。そうだとしたら、フーコーが自分の"文明"を暴露、解明したほど、丸山眞男は「天皇制」を暴露、解明したんだろか?そして何より「天皇制」を代替する政治体制を築いたんだろうか?もちろん、ゼロである。何の実績もない。

今日の「天皇制」の一端は、原子力村(もちろん、東電労組出身者が会長だった連合、今回大本営発表垂れ流しのマスコミも含む)の人々の"思想"と挙動だ。自らの良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式をもった人間では全くないよね。で、その原子力村のアドミニストレーターの少なからずは東大法学部の御出身だ。菅首相のきわめて少ない理解者が江田五月で、丸山の弟子らしい。元科技庁長官だ。つまりは、原子力政策を黙認してきた政治家だ。ご愁傷さま。

と、嫌味を書いて、理念とか理想とかを求めようとする、背伸びした生き方を嘲笑してみますた。