いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

老舎死去50年

2016年08月25日 19時32分35秒 | 中国出張/遊興/中国事情


2013年秋 (愚記事より)

老舎は1966年8月24日に、今は埋め立てられてもうない、北京の太平湖に投身自殺し、翌25日早朝発見された。ちょうど50年前の今日だ。

清朝の旗本(旗人 [google])の息子[1]として北京に生まれた満州族の老舎は、抗日戦争中は北京を離れ、一時は、英国、シンガポール、米国に滞在した。周恩来に請われて中共支那に帰国。作家活動を行う。毛沢東とも会って、作家業の方針のお伺いをもらっていた。

[1] 父親は自らの満州族がつくった清朝の旗本、八旗軍の兵士だ。つまり、清朝の えすたぶりっしゅめんと サマだ。 ただし、門番だ。しかも、代々読み書きができなかった愚記事

その死の直前の老舎を見かけたという証言がある;

一九六六年八月二十四日の昼近く、私は北京市街の北にある太平湖公園で、老舎と出会った。彼は、その夜、その湖に身を投げた。 
(中略)
 太平湖は、私の家にも近く、静かな所だったので、よく散歩に行った。二十四日は、友達も一人一緒だった。手入れもされていない湖には、人影がほとんどない。岸には柳が植わり、ぐるりと湖を取りまいて、水面には緑の影を落としている。柳の緑が濃いあたりには、漁民の網が干してあった。彼が歩いてきたとき、私は気がつかなかった。ちょっと変な老人だと思っただけだ。少し足を引きずり、ゆっくりと歩いていた。清潔な服を着て、顔が少し腫れている。眼鏡はかけていなかった。手には、その後、目撃者の証言にも出たあの巻紙が、確かに握られていた。彼も、私たちのことを気にとめなかった。何かを考えているような目をしていた。次第に遠ざかっていった。そのとき、友人が気づいた。「おい、いまのは老舎じゃないか?」。「まさか?似てないよ」。友人は、間違いないと断言した。私たちは、前日の二十三日にあった事件を知らなかった。
陳凱歌、『私の紅衛兵時代』

陳凱歌は、老舎の死を「自殺という手段で謀殺された」と書いている。

老舎の「自殺」の原因のひとつの解釈としてこういうのがある(吉田世志子、『「百家斉放」から「反右派闘争」の中の老舎 -1957年の『茶館』を中心として―』 元ファイル); 

つまり、1954年に毛沢東が「百家斉放・百家争鳴」の方針を打ち出した。さらに中国共産党中央は「整風運動の指示」を出し、共産党員以外の人間に共産党の官僚主義を批判するよう指示した。ちなみに、老舎は共産党員ではなかった。1957年、老舎は代表作のひとつである『茶館』を発表。この『茶館』の発表に先立ち、老舎は毛沢東と懇談し、質問している。そして1957年、「反右派闘争」が始まった。この時、老舎は、右派とされた丁玲、呉祖光を批判してしまうのだ。

 そして、1966年初夏文革勃発。そして、盛夏の8月 17日のプロレタリア文化大革命慶祝会、紅衛兵百万人が毛沢東を仰いだ熱狂を、老舎は激烈な「反右派闘争」が始まったと悟っただろう。そして、今度は自分が右派として糾弾されたのだ。1957年に右派を批判した自分が今度はやられる立場となった。吉田世志子は書いている;「1957年は加害者として、1966年は被害者として、本質的には同じ事象の両面に立ち会ってしまったことになる。このとき、老舎のなかに忽然と悟るものがあったのではなかろうか。

そうなのだ。老舎は毛沢東のこおろぎのけんか遊び[2]に気づき、とてつもない嫌悪感を持ったのだ。嫌悪の対象は毛沢東とその支持者たちばかりでなく、こういう自分に嫌気がさしたのだろう。だから、自殺に至ったのだ。

そんなに数は見ていないが、老舎の写真で歯を見せて笑っているのはこれのみである;

 [2] (愚記事より)

「老舎先生」
と私は、黙ってじっとこっちをみておられる先生の前で、折り目正しく訊ねた。
「私は、中国の古道具屋で見つけて買ってきたという一個の木壺をみたことがあります。たずねてみると、それはこおろぎを飼う容器で、喧嘩をさせて遊ぶらしい。中国ではむかしから、そのような風習があったのでしょうか」
「ありました」

 水上勉、御明察だな。



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