世間では「暴力男がもてる」という認識が少なからず共有され、一方、謎解きも行われている;
Google [暴力男 モテる]
箸をもち、にこにこして笑っている彭真の数か月後の運命は?
井上ユリ、『姉・米原万里 思い出は食欲と共に』(Amazon)より、無断転載。
彭真と康生と、米原一家、1964年。 文革勃発、実に、半年前!
彭真[wiki]と康生[wiki]が一緒に写っている画像を発見して驚いている。
その媒介が、米原一家であった。
米原一家についてほとんど知らなったおいらは、"深くて暗い川"に浮かぶ本 (="荊の簪を挿した御方"が借り出し読んでいた本)をペラペラみてたら、びっくりする画像を見つけた。彭真と康生が一緒に写っている画像。
そもそも、(すこしは知っていた)米原万里の実妹が井上ひさしの結婚相手であるとは知らなかった。
ということは、あの殴られていたといわれる人なのか?!!!と思ったが、違った。後妻らしい。
さて、暴力男。
その前に、被暴力男=彭真;
愚記事:壁新聞から壁新聞へ; 百醜図の伝搬について、あるいは、支那通事情:江頭数馬と秋岡家榮は同期の桜、より
例えば、最上段の「彭真」は文革勃発前までは北京市長、共産党中央政治局委員も務める党エリートであったが、毛沢東に再三名指しで批判され、それに乗した文革派の「リンチ」に遭う。その様子の画像。
毛沢東が発動したプロレタリア文化大革命において、実際に、つるし上げ第一号となったのは、北京を統括していた彭真である。
彭真はまっさきに毛沢東の目の敵になったのだ。 彭真は中華人民共和国発足時点から文革勃発までずっと北京市長であった。
おそらく、何か、彭真は毛沢東/康生の機嫌を損ね続けていたのだろう。
そして、暴力男、康生。
康生は毛沢東独裁の片腕であり、毛沢東の政敵の追い落とし、粛清の辣腕を振るったとされる。
龍のかぎ爪 康生(上) (岩波現代文庫)
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そして、井上ユリと井上ひさし;
文革勃発直前に康生と邂逅したユリは、のち、暴力男であるとされる井上ひさしの、"荊の簪を刺した御方"となる。
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