いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

呉智英さんへの恩返し

2014年03月02日 13時40分49秒 | 中国出張/遊興/中国事情

相撲取りの世界の言葉(角界用語)で、恩返しという言葉がある。「大相撲における恩返しとはかつて世話になった者に勝つことである。  多くは入門時に世話になった、もしくは若い頃稽古をつけてくれた力士に対して用いる [wiki]」という意味らしい。

呉智英さんへ恩返しを試みてみよう。もしかして、誤爆の可能性はゼロではないのだが。

おいらが耽読した呉智英さんの本は、『封建主義、その情熱と論理』、『インテリ大戦争』、『大衆食堂の人々』の"初期三部作"(と勝手においらがよんでいる)3冊である。あと、呉智英さんも参加している『別冊宝島 47 保守反動思想家に学ぶ本』。読んだ時期は1980年代前半-中半頃。中曽根内閣・自民党300議席の時代。バブル時代前半。

その『インテリ大戦争』には、趣味としての摘発       誤記・誤字・誤植をあげつらう、という節がある。内容は刊行された文書での誤記・誤字・誤植を見つけ、書いた当事者に教えてあげるとどうなったか?というもの。あるいは、間違いのおもしろさや間違いの背景の推定である。その一例を昨日、紹介した(愚記事; 1975年に呉智英さんが和達清夫の間違いを見つけ、手紙を出した)。

その節で呉智英さんは書いている;

 読書の喜びというと、何かを知る、つまり、真理を獲得するということになるのだが、その他にもう一つの喜びがある。
 それは、獲得した真理を以て、他の人に、どうじゃ。こんなことは知るまい、ほれ、ほれ、と、いばる喜びなのである。

と、呉智英さんは露悪的に俗物ぶったものいいをしている。一方、おいらはホントに俗物なので、「ほれ、ほれ、と、いばる喜び」を発揮してみたいと思う。

で、今日恩返しする呉智英さんの文章は1989年のもの。現在は、『知の収穫』(1993)に載っている"再読『阿Q正伝』"である。初出は、「小説新潮」 89・8 読書随筆「再読三読」。1989年の夏に書かれた文章。一種、指桑罵槐的文章である。つまりは、この年北京で起きた大事件 [google] を受けて、その事件には一切触れず、しかしながら、北京の大事件への深い感慨を示そうとしたものなのだろう。短い文章である。下の画像で全文が読めるようにしてしまった。洋泉社さま、許してください(現在は双葉社から再刊行されている、と今日知った)。

さて、その文章は魯迅の『阿Q正伝』を呉智英さんはこれまで3度読んだ。それぞれ読んだ時の思い出と感想が書かれている。その中でこういっている;

 二度目に読もうと思ったのは、大学時代、支那文革真最中の時である。理由。批判を受けた老舎が自殺し、郭沫若 [かくまつじゃく]が率先して自己批判し、そんな中で、魯迅だけが批判を受けないどころか、毛沢東自ら未だに絶賛を変えない。不思議だった。


クリックで全文が読めるほどに拡大
著作権侵害です。ゆるしてけろ、洋泉社。

この文章はおかしい点がある。「批判を受けた老舎が自殺し、郭沫若 [かくまつじゃく]が率先して自己批判し、」のくだりだ。たとえ話でいえば、戦国時代を扱う大河ドラマにおいて、関ヶ原のたたかいが終ったシーンで、家康の家臣が、「大御所! これで徳川三百年の礎がかたまりましたぞ!」といういうようなものである。

何がおかしいって、「なんで、戦国時代のおまえが、幕末を知っとるんや!」という問題である。

どういうことか?まず、呉智英さんが二度目に『阿Q正伝』を読んだ時期を特定する必要がある。「支那文革真最中」とある。ちなみに、間違ってきた18クンのために翻訳すると;支那文革=しなぶんかく=中華人民共和国における文化大革命。真最中という表現だけからは時期限定が難しい。なぜなら文化大革命は1966年から1976年の四人組逮捕まで10年も続いたからである。

(なぜ、支那文革が10年も続いたのか?=なぜ文革で社会を破壊しつづけたのに10年も支那社会は崩壊し切らなかったのか?という興味深い問題はあるが、本要旨からずれるので、またいつか。)

別途、時代を限定する条件がある。「大学時代」とある。1946年生まれ [ 長谷川三千子さんと同い年] の呉智英さんの在学年代を特定すればいいのだ。1971年早大卒とある。

↓ こういう時代だ;

       
                      標準状態

すなわち、呉智英さんが二度目に『阿Q正伝』を読んだのは1965-1971年の間のある時点である。

そうであるなら、下記条件がある;

 文革中、批判の対象になったのは、文芸界の幹部だけで二百七十人にのぼっている。文化・宣伝部門の陸定一、周楊、文芸部門の田漢、夏衍、新聞部門の呉冷西、学術部門の孫冶方、楊献珍らはその代表的人物であった。郭沫若のように、「自分の本を焼き捨てる」と宣言して毛沢東に忠誠を誓った特殊な人物もいるが、中国の大半の知識人は沈黙を守り、屈辱に耐えた。日本で高い評価を受けていた新中国の文芸工作者たち、とりわけ老舎、巴金、趙樹里、田漢、曹禺らがどうしているのか、生死さえわかっていない。 (柴田穗、『周恩来の時代』、1971年刊行)

とりわけ老舎、巴金、趙樹里、田漢、曹禺らがどうしているのか、生死さえわかっていない。

つまり、1971年には、老舎の生死はわかっていなかったのだ。もちろん、今からみれば、老舎は1966年8月24日に北京の大平湖西岸で自殺した。でも、1971年の時点で日本人はそれを知ることができなかったのである。呉智英さんも知ることができなかったであろうに違いない。したがって、呉智英さんが人生で第2回目に魯迅の『阿Q正伝』の理由が成立しないことになる。すなわち、「批判を受けた老舎が自殺し、」という事実に衝撃を受けて、2回目に魯迅の『阿Q正伝』を読もうとしたという動機の説明は成立しないこととなる。

原因は、ただの記憶違いであろう。そしてこの記憶違いは文章の要旨を左右するものではない。この文章「再読『阿Q正伝』」は1989年に書かれた。その時に呉智英さんがもっていた文革に関する知識には老舎が迫害され自殺に追い込まれたことが折り込み済みだ。その1989年に呉智英さんの脳内で構成されていた文革像を(1965-)1971年にも、無意識のうちに、延長したのだ。それを妨げなかった理由は老舎が自殺したのが1966年であるという史実だ。史実とそれがいつ知られたか?、さらには己がいつ知ったか?ということは、別物であることがある。記憶に基づいて文章を書くときに気を付けないといけないことである。 すべからく己の記憶の出自を照査すべし、に他ならない。

と、老舎をわずか半年前に知ったおいらが、つまりは今しがた知ったおいらが、(愚記事: 蒙童、老舎老師を知る、あるいは、文革血祭り第一号、そして、毛唐兵と紅衛兵の間で)、 「ほれ、ほれ、と、いばる喜び」にひたってみた。

半年前に老舎を知って、これまでがきんちょの頃から読んだ本を再読すると、「老舎」という言葉がぼろぼろ出てくる。それらの本は確かによんだのだ。さらには何度も読んだものもある。これはどういうことかというと、おいらは、いままで、老舎をスキップしてきたのだ。読書というのはこちら側が持っている言葉、知識に応じて立ち現われるのだ。バカがいくら本を読んでも、バカ相応にしか読み取ることができないのだ。

なお、郭沫若の自己批判はすぐに日本にも伝えられた。これに対し日本人知識人も反応している。例えば、福田恒存の「郭沫若の心中を想ふ」(朝日新聞、昭和四一年五月二日) 「それにしても郭氏の言葉はまことに激烈凄惨なもので、拷問の鬼と思はれていたかつての日本の特高も、共産主義転向者からこれほど感激的な誓約書を手に入れる個とは出来なかったであろう」(かなづかは勝手に変更)と書いている。だから、確かに郭沫若 [かくまつじゃく]が率先して自己批判しというのは日本では公知情報であったのだ。

そして、郭沫若が文化大革命の開始前に「自己抹殺」を行い、「毛沢東に忠誠を誓った」のはこういう状況でのことである;

 最近数年間、会えばきっと話になるけれどけっして解決を見ない話題がある。それは東京では冗談か世迷事と聞かれそうだが、ここでは痛切な主題である。白か黒か。右か左か。有か無か。あれかこれか。どちらか一つを選べ。選ばなければ殺す。しかも沈黙していることはならぬといわれて、どちらも選びたくなかった場合、どういって切りぬけたらよいかという問題である。 (開高健、『玉、砕ける』)

開高健が描いた、文化大革命の時の中国の推定状況である。

郭沫若の選択と老舎の選択だ。その選択の結果を知ることができるのは、後世の、なんら当人の才能や努力に基づかない、特権である。

いつ日本で老舎の死が知られたかを調べてみた。わからない。ただし、上記、開高健、『玉、砕ける』に何か書いてあるとネットでわかり、読んでみた。この開高の文章は開高健の友人で日本語が流暢な香港在住の中国人との香港での交流、会話に基づく小説である。自らも中国に行き(1960年。毛沢東に会っている)、1964年に老舎が日本に来た時あったことのある開高健が、老舎の死を聞いたのがいつであるのかはこの小説からは特定できなかった。ただし、その時点で公知ではなかったことは確かである。なぜなら、開高健が香港での友人、張氏から老舎の死を聞いた時、開高健がそれを知らなかったからである。したがって、開高健は日本人で最初に非公知情報として老舎の死を知ったひとりなのだろう。開高健、『玉、砕ける』に書いてある;

 空港へ行って何もかも手続きを終り、あとは別れの握手をするばかりというときになって、突然張がそれまでの沈黙をやぶって喋りはじめた。昨夜、新聞社の友人に知らされた。北京で老舎が死んだという。紅衛兵の子供たちによってたかって殴り殺されたのだという説がある。いや、それを嫌って自宅の二階の窓からとびおりたのだという説もある。もうひとつの節では川に投身自殺したのだともいう。情況はまったくわからないが、少なくとも老舎は不自然な死を遂げたということだけは事実らしい。

繰り返すと、この香港の空港で老舎の死を知った年月日は分からない。そして、この開高健、『玉、砕ける』は、書誌には、昭和53年3月1日に「文藝春秋」に初出とある。1978年だ。

老舎の公式の葬儀・追悼式は、1978年6月3日、中国共産党と政府により、北京市八宝山革命公共墓地で執りが行われた。弔辞は茅盾。1978年春には公知にされた老舎の死を開高健が公知になるまで黙っていたとは思えない。『玉、砕ける』は1978年に出ているので、開高健が老舎の死を知ったのも1978年、あるいは前年くらいなのではないだろうか?

ということで、1971年には日本で老舎の死を知ることは困難だったのだ。

▼ 誤爆の可能性

ただし、論理的には呉智英さんが老舎の死を知っていた可能性はある。紅衛兵たちから直接聞いたのだ。 ウィキペディア[呉智英]にはこうある;

本人の弁によると、学生運動では「軍人の位で言うと大佐ぐらいだった」とのこと。当時の呉の様子は早大の同学年だった宮崎学が『突破者』(南風社、1996年、のち幻冬舎文庫)で描いており、長髪の美男子とされている。

我らが呉智英さんは、「大佐」ではあったが、=「将軍」さまではなかったが、情報部門の「大佐」さまだったのだ。そうに違いない。そして、「在日支那人宋慶英さん(仮名です)。宋さんは美女」を使嗾して、支那内部情報を取っていたのだ。だから、老舎の紅衛兵による追い込み自殺なぞ、とうに知っていたのだ。

而して、理由。批判を受けた老舎が自殺し、と知っていたのだ。

つまりは、『知の収穫』(1993)に載っている"再読『阿Q正伝』"とは、俺は1966年に対支那情報将校@「大佐」であったのだ!という自供の文章なのだ。

おそるべし、呉智英 「大佐」@支那通!

■ 今、気づいた 不適切;

この「呉智英さんが1971年に老舎の死を知っているはずがない」ということに対して、" 「家康の家臣が、「大御所! これで徳川三百年の礎がかたまりましたぞ!」=家康の家臣が、徳川幕府の終焉年を知っているはずがない"ということを喩えにもちだすのは、不適切、or 間違いだ。

なぜなら、それぞれの"その時"、老舎の死は過去の事実であり、徳川幕府の終焉は未来であるからだ。

と、自分で自分に恩返しをしてみた。

ありがとう!、おいら。


今日も円本;

本記事で話題にした『知の収穫』は1円。

なお、この本には"淪落の彼女"という文章がある。1990年に早稲田の古本屋で大月書店から出版されていたマル・エン全集(マルクス・エンゲルス全集)のバラ本が1冊300円ほどで売られていた。これを昔見た美女が一発300円で客の袖を引く街娼になぞらえている。

呉智英本、1円である。

一方、こちらは1500円だ;


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