西部自伝への些細な註(1回目)の第2回目。西部邁は自分の生い立ちについて、1979年の『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ体験』から晩年の自伝、『ファシスタたらんとした者』まで、彼の複数の著書で何度も書いている。1979年の著書(これは西部にとって最初の非学術書)の副題が"遅ればせのアメリカ体験"である。これは1977年に渡米(のち英国へ移動)した記録である。でも、この副題は奇妙である。なぜなら、西部邁のアメリカ体験は6歳の時の米進駐軍との体験であるからだ。当時、米軍が進駐してきたその基地は、西部の家からわずか200メートルであると、今、わかった(後述)。そもそも1979年の本に、西部の家の台所に米兵が酒を乞いに立ち現れたと書いてある。これは、大江健三郎や江藤淳でさえ得られなかった体験ではないだろうか?
2021.5.5 訂正:「西部の家の台所に米兵が酒を乞いに立ち現れた」ことが書いてあるのは晩年の自伝、『ファシスタたらんとした者』。つまり、晩年に至るまで、米兵が不法に自宅に侵入してきたことは黙っていたのだ(⇒愚記事:反米「保守」の原点:石原慎太郎と西部邁の共通体験;占領軍米兵が家に入り込んできた)。
本記事では、【1】西部が進駐軍車両への投石(これをインティファーダ(民衆蜂起)と西部は云っている)を行った場所の確認、【2】1979年、西部が40歳の時以来自分を語ってきたが、いつからこのインティファーダを語り始めたか、【3】投げた「石」について、【4】西部の自伝とは関係ないが、現在の千歳線は昔は別ルートであったことについて書く。
【1】 インティファーダの場所
データ元
赤矢印:1945年、西部邁兄弟が米軍車両に石礫を投げた場所=西部の家。黄矢印:信濃小学校。
西部の家と進駐米軍基地は200メートルしか離れていない。
航空写真は1960年代のもの。(千歳線がないことに注目)
西部邁が回顧する「インティファーダ」。下記、少年とは西部のこと;
少年が米軍に小さくない敵意を燃やしたのは、彼の家と(垣根の)オンコの木々が厚く土埃で覆われる始末になったから、というだけではなかった。「敵が偉そうに目の前を通っていく」、「その偉そうな様子が嫌だ」という認識は六歳の児童にだって可能なのだ。彼は今でもはっきりと記憶している、兄が「やるか」と問いかけてきたのにたいして、「うん、やろう」と自分が答えたのを。つまり、この兄弟は米軍の行進にたいして抗議の投石をやろうと決意したのである。
投擲用の石は道路上に無際限に敷き詰められていた。「敵と戦ってみたいし、戦わなければならぬ」というのは、その兄弟にとって、とりわけ「待つ」という振る舞いが苦手の弟のほうには、自明の理だったのである。三か月に及んで計十回ばかりというのが投石の実績であったろうが、とにもかくにも、勇を鼓して彼は戦った。一度、戦車がとまり、銃台がぐるりと回って少年に銃砲の標的があてられたときには、さすが隣の寺の裏に広がる雑木林へと逃げ込んだ。しかし、少年に臆する気持ちが芽生え、細心の注意を払いはじめたのは確かとはいえ、自分の臆病風を抑える努力も一方ではなく、投石を止めようとはしなかった。
後追いでいうと、それは少年の「たった一人のインティファーダ」であった。インティファーダというアラビア語は「蜂起」の謂である。ぶんぶんと群れなせばこその蜂でであり、群れであればこそ蜂起に力が籠もる。「たった一匹の蜂」の蜂起など米軍にとって痛くも痒くもないと少年とてわかっていた。少年は、不確かな思いとはいえ、蜂起しようとはまったくしない近所の同胞に不快を感じていたようなのである。(西部邁、『ファシスタたらんとした者』、p22)
つまりは、家の前がインティファーダ実行の場所ということだ。西部の家は、現在の札幌市厚別区厚別、「札幌郡白石村字厚別」(『サンチョ・キホーテの旅』、西部邁)である。家の位置は『ファシスタたらんとした者』ではわからない。でも、『六〇年安保』(西部邁、1985年)に書いてある;
住所は札幌近郊の白石村字厚別にある智徳寺という遠戚の寺の隣である。
智徳寺の隣で、かつ国道に面しているという条件で上地図の赤矢印の位置をわかる。一方、進駐してきた米軍が屯したのは旧日帝陸軍厚別弾薬庫(上航空写真での"米軍基地")なので、西部の家から直線距離で200メートルしか離れていないとわかる。
【2】 1979年、西部が40歳の時以来自分を語ってきたが、いつからこのインティファーダを語り始めたか?
1979年の『蜃気楼の中へ』から2018年の『ファシスタたらんとした者』まで、西部の6歳の時の米軍との邂逅は書いてある。両方にパンパンの話がでてくることは前回書いた。一方、インティファーダの話が出てくるのは、1998年の『寓喩としての人生』(帯の惹句は「自伝による思想の物語」)、2008年、『妻と僕 寓話と化す我らの死』、2013年の『実存と保守 危機が炙り出す「人と世」の真実』、そして、『ファシスタたらんとした者』。1979年の『蜃気楼の中へ』にはパンパンの話は詳しく書いているが、米軍に投石した話は出てこない。
当初、西部がインティファーダ物語を語るのは9・11テロ(2001年)、イラク戦争後の西部の「反米化」が契機かと推定したが、違った。1998年の『寓喩としての人生』で既に米軍に投石した話が出ていた。さらに、1995年の新聞への投稿記事に投石の話を書いていた(現在、『破壊主義者の群れ』 1996年)。
ただし、1979年の『蜃気楼の中へ』では米軍に投石した話は出てこないし、パンパンへのある種の共感が書かれている。端的に云って「米国に阿っている」ようにおいらには邪推できる。
1979年の『蜃気楼の中へ』で認められた「米国への気遣い」は、1998年の『寓喩としての人生』以降認められない。事実、イラク戦争後直截に反米化する。これは学者稼業をやめ、娑婆に出たので、いい子ぶる必要がなくなったからではないかとおいらは邪推している。
【3】投げた「石」について
西部が米軍車両への投石に使った石は、国道12号線を敷き詰めていた砂利の石だとわかった。一方、西部の複数回語る体験が父親から投石される話である。初出は1976年。
あえて忘れ難いことを拾えば、私事で恐縮だが、父に私にほどこした道徳的制裁のことが思い出される。たとえば、小学校四年の頃、私が近所の孤児に石を投げつけているのを父がみつけて、私を松の木に縛りつけ、まことに険しい形相で次から次と石をぶつけるのである。胸や腹に当たる分はまだよいのだが、顔に向かって飛んでくるやつは、たぶん記憶の中で増幅されてのことであろうが、びゅうんと唸りを生じており、懸命に顔をそむけるのが精いっぱいというところであった。 (西部邁、"「松の木」での教育"、[初出 1976年]、のち『大衆への反逆』1983年)
この「石」は、西部が米軍への投石で使った石と同じものであるとわかった。
そのひねくれぶりに我慢できず、あろうことか意地が悪いので有名なもう一人の少年と一緒になって、一つ、二つ、石礫を彼にぶつけているのを父親にみつかってしまった。父親は私を松の木に縄でしっかりとくくりつけ、「お前のやっていたことはこういうことなんだぞ」と言い放ちつつ、私に石ころを思い切り投げつけはじめた。石ころは国道の上に無数にあるわけで、十発か二十発か憶えていないが、ともかく矢継ぎ早に石ころが飛んでくる。私もそうだが、父親の投球はコントロールがよく利いている。私は正確に射当てられ、顔面に向かってくるのを避けるのが精一杯であった。(西部邁、『寓話としての人生』1998年、第1章 吹雪と吃音)
【4】 千歳線
上の航空写真(1960年代)に千歳線がないことに気付いた。西部の家があったはずの位置のすぐ横には現在JR千歳線が走っている。でも、上航空写真にはない。下の現在の地図には、もちろん、ある。 調べた。
現在の千歳線は1970年代に新たにできたとのこと。それ以前は札幌線という路線で札幌から千歳へ向かっていた。
→ wikipedia [千歳線] 昔は、東札幌駅、月寒駅、大谷地駅などという国鉄駅があったと知る。
東札幌は定山渓鉄道が通っていたと知る。
旧札幌線は今、サイクリングロードになっている。
https://sapporock-bicycle.tan-web.com/cycling/20150930-shiroishikokoroad-el-fin-load