フクシマで餓死者が出たり、自殺者が出ているのに、マスコミの大半は、民主党のくだらない政局の話だけで、悲惨な現実を伝えようとしない。政権の座に居ない自民党を冷やかす論調まであって、もはや常軌を逸している。誰が悪いのかを指弾できないジャーナリズムは、結局はサヨクの走狗でしかない。朝日新聞にいたっては、反原発を煽ってはいるが、目の前のフクシマの子供たちよりも、民主党政権を守ることの方が大事らしい。普通であれば、徹底してキャンペーンをはって、お涙頂戴の記事を書きまくるのに、一向にそれをやらない。かえって、スピーディを隠蔽し、フクシマの悲劇をつくった張本人の菅首相を持ち上げている始末だ。インテリの情けない性癖で、庶民の味方を装ってはいるが、付き合っているのは、官僚や大企業の連中ばかりであり、下々の苦労など分かるはずもないのだ。さらに、日本人拉致事件の容疑者の親族が所属する政治団体に対して、菅首相の政治団体が6250万もの献金をしていても、ダンマリを決め込んでいる。国民を売り、国家を売る政治家を守り抜こうというのだから、恐れ入ってしまう。ペンの暴力という言葉があるが、それがあてはまるのがマスコミである。テレビでは二流、三流の芸能人が気炎を吐いている。フクシマはもはや見捨てられつつあるが、今の政治を容認しているようでは、日本人に待っているのは、没落ではなく破局だろう。
民主党政権は、どれだけ福島県民を邪険に扱えば気がすむのだろう。昨日の朝、川俣町で女性が焼身自殺をした。女性の住む家は計画的避難地域にあたっており、前途を悲観したとみられている。「安全だ」とか言っておきながら、それを信用していると、急に「危険になったから」と追い立てる。そんな国や県のやり方に精一杯の抵抗をしたのだろう。高橋和己は「焼身自殺論」というエッセイを残している。そのなかでは「思うに、つねに勝ち常に自己を正当とみとめることを至上命令とする権力の論理の対極に、ただみずからの死を唯一の究極的武器」とする焼身自殺を、レジスタンスの手段として評価したのだった。黒焦げになって死ぬというのは、あまりにも無惨である。しかし、そこまでしなければ、気持ちが収まらなくて、それが爆発してしまったのだろう。それだけ福島県民は恨みを抱いているのだ。菅直人首相や枝野幸男官房長官は、福島県民の生活をメチャクチャニした責任を、一体どうとるつもりなのだろう。東京電力を指導する責任がある国が、右往左往していては、展望が見えてこないではないか。死を選ぶというのは、よほどのことがあったからだ。家を奪われ、職場を奪われ、それでも生きてゆくのは並大抵のことではない。しかも、国が無責任であればなおさらだ。このまま民主党政権のままでは、次々と悲劇が繰り返されることになるだろう。合掌。