維新の党の分党がうまくいかなかったこともあり、大阪維新の会の橋下徹大阪市長は解党を主張している。残留組を激しく攻撃しており、ヒートアップするばかりである。もともと「維新」という名前は、橋下大阪市長らが命名したものであり、民主党から離れた者たちが合流したことで「廂を貸して母屋を取られる」ことになったために、ついついエキサイトしてしまうのだろう。まさしく「昨日の友は今日の敵」なのである。そうした政治の世界をみていると、いつの世も無頼がまかり通るような気がしてならない。世間では通用しないことでも、権力闘争の場面では何でもありなのである。折口信夫は「武士という言葉は野伏、山伏の、野や山がとれたものであり、いわばもともと流離の民であった」(『無頼の徒の芸術』)と書いていた。そもそも、鎌倉、室町あたりまでは、武士は土地に執着心がなかったのだという。平気でどこまでも移動した。小田原の早川氏は中国地方に行って小早川氏となったのだった。流民であり続けた者たちが浪人となって奴や、歌舞伎者になったのである。折口の説では、元禄時代までは無頼の徒が文学の中心であった。近松も西鶴も芭蕉もその系譜に属する。それとは別に権力闘争に明け暮れる者たちも、また無頼の徒に属するのではないだろうか。何かしら騒ぎを起こして争いを好むからだ。国家がどうのこうのよりも、政治屋に徹するのである。維新の党の分裂劇を見ると、政治の世界で騒いでいる連中が、なぜか野伏の末裔のように思えてならない。
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