戦後の言論空間のゆがみによって、日本は守るべき国柄を喪失してしまったのではないだろうか。歌を忘れたカナリヤはもはやカナリアではないのである。安倍首相が昨日、衆参同時選挙を回避したことで、日本を取り戻すことはさらに困難になった。表面的な解釈改憲によって言葉を濁そうとしている。それで本当によいのであろうか▼戦後民主主義の徒であった橋川文三は、あえて日本人の祖霊信仰に背を向けることで、新たな地平を切ろ拓こうとした。自分たちの戦争体験を絶対視し、それによって過去を否定しようとしたのである。しかし、その橋川自身が「戦争はなかった」と晩年になってつぶやいていたといわれる。柳田国男などがこだわった日本人の固有信仰を離れては、日本人が存在しないことに気付いたからだろう▼昭和45年11月25日、東京市ヶ谷の東部方面総監部のバルコニーで、自衛隊員に向かって三島由紀夫が決起を呼び掛けた演説が思い出されてならない。「共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか」。敗北を恐れずに安倍首相は突っ込むべきであったのだ。日本を取り巻く情勢は深刻である。日本を断固として守り抜くには、三島由紀夫が訴えた「自由でも民主主義でもない、日本」なのだから。
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