日本を救うおうとしてもっとも過激であったのは、保田與重郎の日本浪漫派であった。コミンテルンに指導された共産党ではなかった。保田の『日本浪漫派の時代』を読んでみればいい▼「ある雪の朝、眼をさますと帝都の中枢は、十数人の青年将校の指揮する軍隊で占領されてゐた。またある朝は、夜中に大臣のいく人かが。愛国の若者の手で殺されてゐた。かうして世人の知らぬ間に大事件が行はれてゐた頃から。間なしに愛国運動の蹶起が予告されるやうになり、それが未発にをはるようになるまでに、何年もの期間がなかつた。大臣を次々に殺し、帝都を武力占領してゐた頃の若者の考へ方は、いはゆる右翼ではなかつた」▼昭和初期の捨て身の行動について、保田が「右翼ではなかった」と断じたのは、権力に媚びるといった浅ましさがなかったからである。行動への純粋さを評価する点では、保田と三島由紀夫には大差はない。残念ながら今の日本の反体制運動には、保田が待望した行為のパトスが見当たらない。コミンテルンと同じような反日スターリン主義国家に支配されている者たちは、革命という言葉すら失ってしまった▼日本を変革するのであるなら、それ以前にスターリン主義国家の中共や北朝鮮も打倒されなくてはならない。保田は「機会便乗的」に言葉は紡いだが、行為の人ではなかった、と評される。しかし、そうだろうか。日本人に眠るラディカルな心情を保田ほど理解した人はなかったのではないか。日本浪漫派の奏でる旋律は日本変革の原理足りうるのである。
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