民族の定義について、人種的なことにこだわるべきではないと思う。血が共通にしているというのは、あくまでも信念でしかなく、血が純粋な人種は、世界中どこにも見当たらないのである。それと同じく言語や信仰や魂の故郷についても、漠然としたものでしかない。矢部貞治は『政治・民族・国家の話』のなかで、民族について「ひとしくその中で育まれ、その中に溶けこんでいる文化や習俗や、祖先から伝わっている伝統や、父祖を含めて自分らが共通に持った歴史などが基礎になって、そのような複雑な土台の上で、永い間に形成されてきたものなのである」と書いている。しかし、それも下部構造として認めただけであり、矢部は「運命共同の意識」にこそ民族の核心部分を求めたのである。朝鮮人による日本人へのなりすましが批判されている。いかに帰化しようとも、そうした意識がなければ、団結できるわけがない。民主党政権の誕生時の異常なマスコミの報道に関しても、在日と言われる人たちの影響力があったといわれる。今こそ一緒になって日本を支えようとする者たちが団結すべきなのである。それと同時に、民族をなおざりにしてきた戦後日本の歩みを、日本人自身が反省すべきだろう。「自分らが運命を共同にしているという意識、そしてその自分らが共同の生活体をなそうという意欲」を、私たち日本人が軽んじてきたことが原因ではないだろうか。国家解体にストップをかけることができるのは、民族としての「運命共同の意識」なのである。
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