人それぞれの役割がある。暇空茜氏のcolaboなどへの不正追及は、老いた僕などは無理である。応援はするが深入りはしない。足手まといになって、かえって迷惑に違いない。
これによって、公金チューチューのスキルが暴露され、少しでも改善されれば、それは画期的なことである。国も自治体も襟を正すきっかけになるだろう。
しかし、僕のような保守は、女性を悪しざまに批判することはできない。仁藤夢乃さんが槍玉に挙がっているが、「弱き者汝の名は女なり」という言葉が聞こえてくるからだ。彼女たちからすれば、これもまた見下していることになるだろうが。
仁藤さんと共産党との接点ができたのは、相談する相手がそこしかなかったからだろう。それで左翼の側に身を寄せることになったのだろう。それはある意味では仕方がないことだ。
花田清輝は「女の論理」について書いている。女性が論理的ではないのは、他者を理解するには、レトリックの方が有効なのである。それはイエスと似ているという。相手を思いやるには、同じ言葉を用いるのではなく、それぞれに応じた言い方をしなければならないからだ。「イエスは女性であった」という見方すらある。
これからcolaboなどの闇は徹底的に暴かれるだろう。それに横槍を入れるべきではないが、批判を恐れずに言えば、逃げ道もつくっておいてやりたい。日本における反日左翼のネットワークは解体しなければならないが、一人ひとりの女性については、ついつい惻隠の情が湧いてしまうのである。