草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

安倍首相は国民大衆の声なき声に背を向けるべきではない!

2013年10月18日 | 政局

 安倍首相がこの頃少し変である。国民大衆から浮き上がっている感じがする。周辺にいる学者や官僚に振り回され過ぎなのだろう。私の愛読書に中村菊男の『政治家の群像』がある。明治から昭和にかけての政治家を論じながら、何をしたかを取り上げている。「『政は正なり』という立場に疑問をもち、政治家が正義の士であったり、野党が正義派であるといった評価を意識的にさけて、政治の現実を正当に評価する立場に立って執筆した」のである。勧善懲悪では判断できないのである。そして、私がアンダーラインを引いたのは、国民大衆の政治感覚を高く評価した箇所である。日本大使を務めたことがあるライシャワーの「日本ではインテリが感情的で、大衆の判断の方が合理的です。アメリカはその逆です」と述べていたの取り上げながら、中村は「声なき声は健全なのである。そこで政治家たるものは、たえず大衆の声なき声を聞く英知をもたなければならない。ところが、数字と取り組み、法規ばかり扱っているものはどうしても冷たくなり、この声なき声が聞こえなくなるのである。零細な庶民の姿が目に映らなくなったら政治家として落第である」と書いている。安倍首相は国民大衆の声に耳を傾けるべきだろう。靖国神社の秋の例大祭にしても、外圧に屈するのではなく、あくまでも庶民感覚を大事にすべきだ。エリートである学者やマスコミ、官僚の多くは中共や韓国、さらにアメリカに配慮することを主張している。しかし、大衆の声なき声は参拝を望んでいるのである。安倍首相は謙虚にその声に耳を傾けるべきだろう。

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日本文化は新自由主義のような強者の思想とは無縁だ!

2013年10月18日 | 思想家

 新自由主義に抗するというときに、私が思い浮かべるのは、西洋とは違う日本人の価値観である。それを端的に示したのが保田輿重郎の『日本の橋』であった。吉本隆明も『思想のアンソロジー』でその本に触れているが、それは強者や優者を重んじる思想とは無縁であった。吉本は保田の核心部分を「西洋の橋を征服する王者の軍隊や戦う車輻の通る道につながる頑丈な石造りの橋とすれば、日本の橋はけもの道の果てにけものをがつくったあるかないかわからないような吊り橋や、樹木を斬り倒して架けた橋で象徴できる」と要約している。それは同時に、西欧の王者は豪壮な居住地をつくって威嚇するが、これに対して「日本の王者は手をかけてのぞけば内部がみえるような京都御所のような居住地に住まっているという比喩にまで延長された」のだった。吉本も若い頃に『日本の橋』に影響を受けたからこそ、こだわらざるを得なかったのだろう。吉本のようなラディカルな思想家にとっては、それを世界普遍にまでつなげることが生涯の夢であった。しかし、新自由主義の前に屈服を余儀なくされている今の日本にあっては、それのアンチテーゼとして、保田を持ち出すべきだと思う。経済合理性だけでは割り切れないのが日本の文化であり、、それを守り育ててきたのが日本人なのである。よく言われる費用対効果にしても、結局は経済合理性の物差しでしかなく、日本人が死守すべき文化を破壊しようとする勢力が跳梁跋扈することだけは、断じて阻止しなくてはならない。

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