つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

東日本大震災支援(1)

2011年04月29日 | 日記
一般社会法人SPUTNIKの若鍋聡志さんからメールが届いた。
(SPUTNIK International Japan メールマガジン 特別号から)
日頃よりSPUTNIK INTTERNATIONALに篤いご支援、ご協力をいただき誠にありがとうございます。

少し時間はさかのぼりますが、4月2日、塩釜在住の成澤氏にご協力をいただき、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県の女川町に行くことができました。
今回の東北行は私の個人的事情によるものであり、目にしたものも、ごくごく一部に過ぎませんが、今後の復興支援に関わろうとしている方たちにとって少しでも役に立てばと思い、ここにご報告させていただきます。
なお、被災地へ向かうにあたり、株式会社サンライズの若鍋竜太、池内健一郎両氏から復興支援金(10万円)をお預かりいたしました。この場を借りて心よりお礼を申し上げます。こちらの支援金は、成澤氏に預け、被災地で役立ててもらうことになっています。成澤氏からは、若鍋氏、池内氏に対し、支援金の使途詳細が報告される事になっています。

今回の東北行は仙台市東部に位置する仙台塩釜港から、七ヶ浜町、塩釜市、石巻市を抜け、女川町まで。ここでは女川に関する話だけをさせていただきますが、被災地はどこも大変な状況であるということを予めご理解いただきたいと思います。

今回、私は現地入りする前に、「無力だけを感じて帰る事は絶対にしない」と心に決めていました。しかし、私が女川町で観た光景は、自身の無力どうこうを問うレベルのものではありませんでした。女川町には、港(であった所)からすぐのところに15mほどの高台があり、ここから町を一望できます。
私は、この高台から見た光景を一生忘れることはないでしょう。

各種メディアで伝え聞いていた「壊滅」と、目の前にあった「壊滅」の温度差はあまりにも大きく、「町ごとなくなっている」という冗談めいた物言いしかあてはめることのできない空しさを痛感しました。現地の状況などはネットを含めたあらゆるメディアで目にしていると思いますが、実際に現地に降り立ってみると、(極端な物言いですが)例えばこの状況を見て一切の支援活動から手を引くという人がいてもおかしくないと思いました。それくらい、どこから手を付けたら良いのかが全くわからない。ここにかつて町があり、人々の生活があったことをイメージすることは極めて困難な作業でした。
町全体に漂う異様な雰囲気、自身を襲う奇妙な雰囲気。おさまることのなかった鳥肌は、今にして思えば、当たり前のように聞こえている生活の音が消えていることで、ある種のパニック状態に陥っていたのだと思います。こんな経験はしたことがありませんし、二度と経験したくはありません。

信じられない光景は眼下に広がるだけではなく、高台の上にある女川町立病院にも及んでいます。驚いたことに、高台の上にある病院の一階部分まで津波の被害を受けており、さらに、今まで見たこともないような力がここでも働いているのです。遠くにある海面が自分のいる高台の上まで来ていたというのは間違いのない事実ですが、それを受け入れることは到底できませんでした。
4月26日現在、女川町では、亡くなられた方、行方が分からない方を合わせて約1300名。町そのものの人口が1万人に満たないことを考えると、その割合はかなりのものですが、正直なところ、よくそれだけの被害でおさまった、というのが素直は印象です。

何とも言えない気分のところに追い打ちをかけたのは、壁が落ち、骨組みだけという状態になってしまったにもかかわらず、そのビルの掃除していた人の姿。詳しい事情をうかがい知ることはできませんでしたが、私はそれを見て一瞬、「掃除してもどうにもならないのに…」と思ってしまいました。もしかしたら、ご本人たちも掃除をすることの意味なんてわかっていないのかもしれません。それだけに、その姿は見ていて非常に苦しいものでしたが、とにかく何かをしていないと落ち着かない、一歩でも前に進まなければいけない…そんな思いの表れであったのだろうと思います。
女川入りする前に、女川町立病院で働く工藤氏が
「とにかく女川を見に来て、何ができるかを考えてほしい」
そう言っていた意味が良くわかりました。(つづく)
コメント (2)
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