ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2012.6.18 今年の夏は

2012-06-18 20:11:11 | 日記
 昨日の酷い蒸し暑さには及ばないが、今日も梅雨の晴れ間の暑い日となった。紫陽花の花も心なしか雨が恋しそうに見える。

 今年の夏も、昨年に引き続きスーパークールビズと節電が暗黙の了解なのだと思っていた。だが、どうも違うようだ。
 東京電力管内では、相当程度の節電が定着していることを前提に、数値目標を伴わない節電を要請しているという。だからなのか、電車に乗れば早々と冷房が効いているし、去年に比べて取組が随分緩くなっている感じがする。
 さらには原発再稼働の方針も本当にいいのだろうか、と思う。原発事故であれほどの思いをして、いまだ見通しが立たないまま仮生活を強いられている方たちが数多いる状況で、一体なぜ、そういう決定が出来るのかと憤る。

 去年、職場では前年比25%の削減を実施したが、そもそも空調稼働は7月からで、6月末の暑さで身体がかなりきつかった記憶が新しい。このブログにも、暑くても空調が入らないので体調が悪くなりそうで・・・という内容を何度も書いたように思う。

 今年は一昨年(22年度)使用最大電力値に対して11%の削減(昨年は25%減)を、という通知が来た。それでも昨夏に比べて19%のアップになるという。昨年はアクション○だのレベル○だのという言葉が入り乱れ、いずれにせよ、冷房は入らないのよね、と皆でぐったりしていたのだが・・・。

 ところが、せっかく節電が身についたかな、と思っていたのは我が家でも私だけのようで、気付けば夫も息子も、テレビや電気を点けっぱなしでその場を離れる。その度に私は文句を言いつつ、スイッチを消して回るという日々が続いている。いくら電気は貯めておけないとはいえ、せっかく身に着いた習慣を私は今年も大事にしたいと思う。使っていない電気は消す、せめてそのくらいは。

 百歩譲って今夏は再稼働だとしても、今後は原発依存を見直す、せめてそのくらいのことが言えないものか。効率のみを追求することがどれほどリスクを背負い込むことになるのか。そのことは、昨年、私たち一人ひとりがあれほど考えざるを得なかったことではなかったか。

 今朝、出勤するとメールで回章が回って来た。
 かつて近くで仕事をしたことがある方だ。私は既に闘病中だったが、その方はとても元気でいらしたので、回章の「病気療養中、薬石効なく・・・」に、眼を疑い、言葉を失った。享年62歳。定年退職後、そのまま大学に請われて専門職として働いておられた。定年後僅か2年とちょっとである。
 最近お見かけしたのはいつ頃だっただろう。ある方から、病気がわかってからおそらく4ヵ月くらいだった、と聞いた。

 職員誰もが閲覧出来るスケジュール表にご自身で入力されたのは5月末日が最後のようだった。まさかその2週間後にご自身の命が尽きているとは思いもよらなかっただろう。
 通院のための休暇予定が来月以降も、毎週のように続いていて、他人事とは思えず、息苦しくなった。部位は違っても同じ病気だと聞き、ああ、やっぱり・・・と思うとともに、私はこの後一体いつまで生かしてもらえるのだろう、と考え込んだ。

 先週木曜日に亡くなって、今日がお通夜、明日が葬儀だという。事務室内にお通夜に行かれるという方がいたので、急ぎ御霊前を託した。

 合掌。

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2012.6.17 祝!生誕半世紀のクラス会通知から

2012-06-17 22:31:33 | 日記
 高校時代の同期のメーリング・リスト(ML)で、3年の時のクラス会開催の連絡があった。
 幹事氏曰く、卒業1年後に開催して以来、2回目らしい(つまり、30年以上ぶりだ。)。もちろん学年全体の同期会とか、各々の部活のOB会等では顔を合わせていたのだが、こと卒業時のクラス会というとそんなものなのかな、と思う。
 皆が生まれて半世紀経ったこの機会に、開催ということのようだ。

 高校時代のアルバムが手元にないので、クラスメイトの顔を全て想い出すことが出来ない。
 このメールで、一昨年1人の男性が亡くなっていたことを知った。申し訳ないことに、フルネームも顔もクリアに思い出すことが出来ない。また、一昨年に脳梗塞で倒れ、現在休職して懸命にリハビリ中の男性もいるそうだ。彼のことは当時の顔がまだ思い浮かぶ。今回、こうしてクラス会開催のために連絡をとって判ったことだという。
 私は未経験なのだが、Facebookで高校同期のグループを作って、写真を共有したり、便利にお喋りが出来るようになって盛り上がった結果のようだ。

 当時のクラス仲間で現在MLに参加しているのが26名、自宅もしくは実家に郵送しても返事なしの人が12人、連絡先不明が4人ということだが、真夏の土曜日の夜、さて、どのくらい集まるのだろう。

 30年ぶりのクラス会ということでちょっと覗いてみたい気持ちは山々なのだが、ちょうどアンスラサイクリン系の開始直前、最後の悪あがきで計画している、両親を連れての旅行とバッティングしてしまった。
 「相変わらず治療中の身ですが、8月からまたきつい薬を始めることになりそうです。その前に鋭気を養うため(往生際悪く)、7月末、実家の両親も連れて旅行に出る予定です。そんなわけで、残念ですが、今回は欠席です。皆さんによろしくお伝えください。盛会をお祈りしています。○○君、リハビリ大変だと思いますが、どうか頑張ってほしいです。」
 とメールをしたところ、すぐに、幹事氏から返事が来た。「皆、それぞれの問題を抱えていますよね。」と。
 彼自身も2男2女の父であり、子育てでもいろいろ大変なようだ。これからは定期的に開催したいと思うので、次回は是非ご参加ください、とのことだった。

 そう、次回こそ元気に参加できると良いのだけれど。

 今日も梅雨の晴れ間の一日となった。あまりに強い陽射しと湿度の高さに、眩暈がしそうなほどだった。
 夫は、朝から義母が施設を転所するための手続きに出向いた。家に残った私はキッチン回りの断捨離と、遅ればせながらの衣替え、洗濯等に勤しんだ。息子は「父の日」サービスということで、夫のクリーニングのお使いに行ってくれた。
 午後はリンパプラスヨガに出かけてたっぷり汗をかいて、買い物をしながら帰宅した。息子もスポーツクラブでひと泳ぎしてきた。
 夕飯に間に合うように帰宅した夫と、ごくごく普通の夕食を囲んだ。思えば、土、日の両日とも夕飯の支度をしたのは久しぶりかもしれない。こうした普通の一日を送ることこそ、本当の幸せなのかもしれない、と思う。

 昨年、私の誕生日にあけぼの会Tさんが旅立たれた。早くもあれから1年が経った。Tさんに恥ずかしくない1年が過ごせただろうか、と自問する。

 おかげさまで無事51歳(!)の誕生日を迎えることが出来ました。暖かいお祝いメールをくださった方、本当にどうもありがとうございます。新しい一年も、治療に仕事に家事にプライベートに、自分なりに精一杯やっていきたいと思います。
 これからも細く長くしぶとく、をモットーに綴っていきます。末永くよろしくお願いたします。
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2012.6.16 久々にアクティブな土曜日

2012-06-16 22:38:34 | 日記
 ナベルビンを最後に投与してから早くも3週間余りが過ぎた。
 投与後の土曜日は体調が悪く、朝起きて息子を学校に送り出すことすら夫に頼っていた。が、先々週は夫と温泉1泊旅行に出かけたし、先週も都心までアロマテラピー講習会に参加した。どちらも仕事に出るのと変わらない時間に外出することが出来た。

 そして今日。息子を送り出した後、雨降りの天気をものともせず、本当に久しぶりに朝一番で美脚ヨガに出かけた。あまりに久しぶりで、前回はいつだっただろう、という感じ。フロントでも「お久しぶりです。」と言われる始末。
 案の定、代謝が悪くなっているようで、なかなか汗が出てこないし、身体はすっかりカチンコチンになっていた。それでも終わる頃にはようやく汗が噴き出してきて、自分としては“痛気持ちいい”レベルまで達したのでとても満足。ヨガの後にシャワーを浴びれば心身ともにとてもリフレッシュするのが分かっているのに、なかなか来られないのが残念だ。せめて毎週1回、出来れば土日両日参加すれば、かなり体調が良くなるだろうに、と思う。実際、土日に予定を詰め込んで、月に1度しか来られないということがザラである。

 さて、明日は6月第3日曜日、父の日。私の誕生日でもあるということで、一日早いが今日、学校帰りの息子も合流して実家の両親と5人でお祝いの昼食会をした。
 ナベルビンを休止して何が幸せかと言えば、とにかく気持ち悪くなくずっと美味しく食事が出来ていること。私の食べっぷりを見て、両親も安心したに違いない。
 51歳になるのに“家族揃ってお誕生日おめでとう”もないのでは・・・と思わなくもないのだが、いかんせん今の私にとって、通院治療を続けながらも1年を大過なく過ごせたということは、本当に有難いこと以外の何物でもない。闘病中の娘が気がかりで仕方ないであろう両親にとっても同じことなのだろう。

 父は「自分にはもうそうそう長いこと遺された時間がないから」と、今年の夏、息子(父にとって唯一の孫)と一緒に温泉旅行に行きたいなどと我儘を言っていたが、温泉が好きな息子は「(自分の乗りたい)電車に乗って行ける所ならいいよ。」とまんざらでもない様子。アレンジする気満々のようだった。
 今は元気だけれど、8月からはまた脱毛する薬に変わることになる、ということは言わず仕舞い。さすがにそういう状態で父母と一緒に温泉に、というのも気が重い。8月以降、両親のエスコートはしばらく息子に任せ、私は家で楽をさせてもらおうという魂胆だ。

 昼食後、息子は一足先に帰宅。両親と別れてからはお中元の手配をしたり、と気になっていた用事も済ますことが出来た。さらには欲張って夫と2人で映画を観てから帰宅した。
 洗濯機も回して夕食も作って、ヨガに親孝行に映画に家事に、と八面六臂。久しぶりにアクティブな土曜日を過ごすことが出来た。
 ちょっと頑張り過ぎたのか頭痛のため、先ほどロキソニンのお世話になってしまったけれど・・・。

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2012.6.15 介護する側、される側、双方が納得できる期間とは

2012-06-15 20:30:36 | 日記
 先日、義妹と電話で話した時のこと。
 義母は先月以来、特養施設のショートステイに入っているが、容態はすっかり安定し、とても元気だという。来週明けには、義妹宅近くの施設に転所出来る手筈が整っている。

 義母は、息子(夫)や娘(義妹)の名前が出なくなるなど、残念ながら認知症の程度は2月の介護認定以降更に進行しているようだが、それ以外はどこも悪い所がなく、食事も摂れ、車椅子を押して散歩に出ると「気持ちいい。」と言ったり、夫のお腹を触って「出ている。」等という単語は出てくるそうだ。

 5か月間入院していた病院を退院して、現在の施設に移った当初は、食後何度か吐くことが続き、胃腸障害か、また病院に逆戻りか・・・と案じた経緯がある。(それを思えば)「施設に入れて落ち着いて、本当に良かったですね。」と言うと、義妹は「自分の親だし、(ある程度)良くなってそれは良かったのだけれど、でも、一体あと何年?と思うと・・・複雑。やっぱり、複雑。」と“複雑”という単語を何度か繰り返した。

 確かに施設におられる方たちは、70,80は鼻たれ小僧、90なんてまだまだ若い、100歳以上になってようやく一目おかれる存在になるのだという(先日は、結婚80周年・・・結婚60年はダイヤモンド婚、75年はプラチナ婚というが、80年は一体何というのだろう。・・・のカップルが、施設を訪れた親族一同からお祝いをしてもらったと聞き、本当に恐れ入った。)。
 空調完備で暑さも寒さも感じることなく、栄養管理された食事が3食きちんと提供され、体に悪いことはほぼしないのだから、在宅でケアするよりもよっぽど健康的で恵まれた生活かもしれない。だからこそ、の長寿なのだろう。

 相槌を打つわけにいかないし、全く否定するのも憚られ、なんとコメントしてよいやら、苦笑いをしながら返答に窮した。
 決して他人事ではないのだ。実家の父は先月84歳になった。母も来月79歳になる。今は2人で何とか頑張ってくれているとはいえ、本当にいつ、どちらかがどうにかなったら・・・と思うと、とにかく後生だから無事で頑張ってください・・・と祈るしかない、情けない一人娘の自分がいる。
 もちろん順番だけは守りたいから、看取りはしなければと思っているのだけれど。

 義母に加え、実家の両親のどちらか一人の介護が加わったら、我が家はマンパワー的にも金銭的にもたちまち立ち行かなくなる、と思う。
 義妹には「お互いまだまだ当分仕事を辞められませんね。頑張りましょう。」と電話を切った。

 夫にちょっと聞いてみた。
 「元気だった人が突然倒れてそのまま亡くなるというのでは、家族もすぐには受け容れ難いし、お別れをする時間も、看病する時間もなかった・・・と悔やみそう。でも、今度は何年も回復の見込みがないまま寝たきりの生活を続けるとしたら、どうかしら。いわゆる終末期はどのくらいの長さなら、看病する方もされる方も双方納得できる-やれることはやった-という期間なのかしら」と。
 夫はしばし考えて「1年くらいかな・・・」と言った。

 が、仮に私の病気が末期になりいよいよもう助からないという段階になり、食事も摂れず排泄のコントロールさえも出来なくなって、それなのに自分がそういう状態であるという意識だけはしっかりしている中での1年だとしたら、それは余りに長すぎるような気がする。
 北欧では、不自然な延命治療―家族のための点滴―を施さないことが殆どなので、1日22時間以上の「寝たきり」状態になってから亡くなるまで、せいぜい1か月という。
 かといって、そうそうポックリは逝けないだろうから、少しだけ看病してもらってお別れの時間をとって・・・と、なんだかつまらないことをつらつらと考えてしまう。
 考えてみたところで、答えは出ない問題だということは判ってはいるのだけれど。
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2012.6.14 ハーセプチン156回目(3倍量19回目)

2012-06-14 19:53:02 | 治療日記
 昨日は都心で行われる会議のため、朝から東京横断をしたが、帰路は人身事故にぶつかってしまった。疲労回復を兼ねて、軟弱にもまた病院近くのホテルに前泊した。

 今朝は自宅にモーニングコールをした後、朝食までの間、いつものように足湯をして、ふくらはぎまでしっかり温め、血行を良くして痺れを緩和させてから出かけた。病院到着はいつもより小一時間早め。
 採血の受付はまだ始まっておらず、順番待ちカードを取る段階だった。受付開始まで10分ほど待って、採血室へ。15人ほどの待ち人数だったが、スムーズに流れた。今日はマーカー等全項目チェックのため、4本採取。初めてお目にかかる看護師さんだったが、刺したのがわからないほど、お見事だったので、思わず「凄いです!」と言うと「・・・稀です。」とご謙遜のお答えが返ってきた。しっかりお名前をインプットしたが、指名できる訳ではないので、ちょっと残念。2階へ上がってレントゲン受付。こちらも殆ど待たず1枚撮影して、腫瘍内科へ移動した。
 いつもはここまでで優に1時間以上かかるのだが、今日は僅か30分ちょっとだった。やはり早く入れるに越したことはないな、と思う。

 「中待合へどうぞ」のランプが点くまでに1時間弱。自動血圧測定結果は101-58、脈は82。中待合に入ってから診察室に呼ばれるまで15分ほどだった。
 「前回診察日から新しい薬(ホルモン剤・フェアストン)を飲み始めた調子はどうですか。」と先生からの質問開始。食欲があり、良く眠れて、ホットフラッシュやこわばりなども気になるほどはなく、きわめて快調である旨お答えする。先生からは「では、無理なくいけそうですね。」とのお答え。
 気になるマーカーはやはり前月比15%ほど上昇。先生がPC画面にこれまでの推移グラフを示し、「昨年の11月頃にも一度これに近い値になり、翌月下がったこともあるので、もう少し様子を見ましょう。」とのこと。レントゲンは前月分と2枚並べて見せてくださり、大きな変化はなさそうだ、とのこと。よってあと1か月、今の治療を続けて大丈夫、ということになった。
 今回マーカー値や画像上の大きな変化があれば、アンスラサイクリン系の開始も早める可能性もありか、と心配だったので、とりあえずまたも首の皮が繋がった感じで、ほっとした。診察室での体温は6度9分。
 次回は3週間後。マーカーが上昇傾向にあるので、次回も採血とレントゲンでチェックし、ハーセプチンとゾメタの予約が入った。今日は予定通りハーセプチンのみで、フェアストンを3週間分処方されて診察室を出た。

 化学療法室へ移動。10分ほど待って点滴椅子に案内され、ベッドに移動して刺針。今日も看護師Okさんが刺してくださったが、針刺し名人Oさんに迫る痛みのなさでラッキーだった。
 点滴開始前にKwさんが『私のノート』をチェックにいらした。「(フェアストンの)目立った副作用は出ていないし、良く眠れ、良く食べられているので、便秘もなく元気ですが、瞼と鼻周りの爛れは相変わらずで・・・」とお話した。「8月からEC(アンスラサイクリン系)を開始するまでに直して(体調を万全にして)おきたいですね。」とのこと。アレルギー性のものなのかどうか眼科か皮膚科か近所のクリニックに行くことになりそうだ。
 マーカーとレントゲンの結果だけ訊いて診察室を出て来てしまい、白血球の数値を確認しそびれたので、結果表をプリントしてもらった。なんと5000、いつもの倍だ。やはり骨髄機能が復活しているのだなあ、と改めて実感する。8月までの間に私の心身同様、骨髄も鋭気を養っておいてもらわないと、と思う。
 点滴開始。ハーセプチンと生理食塩水の2本のみなので、1時間半弱。あっという間に終了。メールで夫に報告等をしていると、本をゆっくり読む時間もないほどだ。抜針もOkさん。衝撃なく、ちょっとチクリとしただけで出血もなかった。針を刺すのが上手な看護師さんが増えて嬉しい。終了時の血圧は111-75、脈は65で私にしてはやや高めだった。

 お昼前に終了して会計に移動。15分ほど待って薬局へ移動。外は夏のような陽射しで日傘が活躍した。薬局では30分待っただろうか。フェアストンが5日分在庫が足りないので、明日以降宅急便で送付します、とのこと。今日の病院・薬局滞在時間は4時間半。
 街はランチタイム真っ盛りで、お弁当片手の人、テラスでランチを楽しむ人等で賑わっていた。
 通院治療後に全く気持ち悪くなく、疲れてもいないのは本当に有難く幸せで、自然と笑顔になってしまう。3週間に1度の通院と毎朝の服薬だけなら、辛い闘病と言うには程遠く、何とも楽なものだ。このままこんな状況が続いてくれたらどんなにいいだろう、と思いながらランチ、読書、買い物をして帰途についた。

 帰宅して、これまでの腫瘍マーカーのグラフをチェック。奇しくも2年前の6月のマーカー値と今日の値が同じだった。一昨年はその後上がり続けて9月からナベルビンを開始したのだった。今年は来月、また下がってくれないかな、と祈ってしまう。



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