神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

半島国家と島国国家の政権

2018年09月15日 21時41分48秒 | 日本史

日本人は大和朝廷、京へ遷都、鎌倉時代、、秀吉の大坂政治、江戸時代、いかなる場所で、いかなる者が

政治を行っていても、この国は日本(倭)であり、住民は日本人(倭人)で2000年続いてきた

 

中国も4000年間、大陸の中原は国名が唐、宋、明、中国と代わっても、住民は漢が政権を取って以来

ずっと漢民族である

 

だが半島国家は小さいけれど、統一した国名も統一した民族名も不明で何と書いて良いかよくわからない

韓民族というが、朝鮮民族という名もある、韓は半島の三国時代以前に馬韓、辰韓、弁韓の三韓という

のが半島の南縁にあった

そして日本に統合された1910年以前に大韓帝国が少ない年数存在した、だがそれ以外で韓という国名

民族は聞かない

韓は韓国語で「ハン」と読む、これは恨「ハン」に通じ、朝鮮人の心の根には「恨」が潜んでいると言う人も居る

日本の国民音楽「演歌」は、語りから始まった楽曲と言うが、青江三奈、森進一に代表されるように夜が似合う

男女の甘いムード歌謡「艶歌」、その逆の人生の底辺を語る「怨歌」は「恨」に似ている。

 

 

朝鮮とか朝鮮人というのが一般的でもっともわかりやすいが、朝鮮とは1392年に高麗の将軍、イ.ソンゲが

高麗王家を皆殺しにして滅ぼした易姓革命で作った国家で、その国名は大陸の宗主国「明」に選んでもらったのだ

という。 朝鮮、朝鮮人というのはここが起源だから、それ以前には半島には朝鮮も朝鮮人も存在しなかった

今は半島の北半分は朝鮮で(北朝鮮とは韓国を南朝鮮と区別する時の便宜上の言い方)

南半分は韓国になっている(韓国では朝鮮を朝鮮と言わず北韓と呼ぶ、朝鮮という言い方は嫌いとのこと)

国際的にはコリアと呼び、サウスコリア、ノースコリアとなっている

先のピョンチャン冬期オリンピックでも半島全図の統一旗をかかげチーム名(国名)も統一コリアだったと思う

コリアは高麗の英語読みだと思う。 この半島に相応しい統一表記があるとすれば高麗、高麗人が一番

良いのかもしれない。 半島人には高麗の原型、高句麗がもっとも華々しくもっとも大きな国家の時代だった

高句麗は大陸の隋が滅ぶほど勇戦し、唐とも互角に渡り合っていた強国であった。

 

 

それぞれの政権の流れ

日本  天皇による直接政治-藤原氏の摂関政治-天皇及び院政-源氏~北条氏の鎌倉幕府政治

-後醍醐帝の短期帝政ー足利氏の室町幕府政治-戦国乱世-豊臣氏による政治-徳川幕府

ー明治維新王政復古ー東亜.太平洋戦争敗戦.アメリカ主導の民主主義政治のはじまり

 

朝鮮半島  古代朝鮮-新羅.高句麗.百済の三国時代ー新羅ー高麗ー朝鮮ー日本併合時代

ー日本敗戦で独立ー朝鮮戦争の結果、朝鮮と韓国の二国時代

 

日本人の起源は北方、朝鮮半島、南方から渡ってきた様々な民族の混じりが長い年月の間に原日本人と

なって、やがて南からやってきた倭によって淘汰され、新日本人(大和民族)となったのではないだろうか

そして畿内に天皇を中心とした朝廷を構えて政治が始まった

 

半島では南に原半島人の三韓民族、南東部に新羅、南西部に百済、北半分に高句麗が有り、三韓は

新羅に統一される

三国はそれぞれに王が居て、王政国家であるが、高句麗は今の北朝鮮に旧満州を加えた、広大な国家であった

民族も、おそらく純粋な半島人では無く、半島人種や満州族、北方の遊牧民、漢民族、あるいは西方のアジア系、

海岸部の民族、沿海州方面の民族など多彩な集合体あるいは混血だったのでは無いだろうか。

やがて、漢民族の唐の支援を受けた新羅が、百済、高句麗を滅ぼして半島の統一国家を完成させたが

満州から遼東半島は唐に帰属して、現在の北朝鮮南部と韓国を合わせた程度の国家になった。

新羅金王朝の誕生、新羅の歴史は長いが、統一新羅は約250年続いて高麗王、王権に譲位する

新羅が統一国家となった頃、滅びた高句麗の一族大祚榮が、唐と新羅の間で支配者が定まらず混沌としていた

旧高句麗の地を次第に奪って「渤海国」を建国した、その領土は、今の北朝鮮北部~ロシアの沿海州に広がる

広大なものだった

新羅と唐は対立もあったが、主に友好的で有り、渤海と対立していたので、危機感を感じた渤海は倭国(日本)に

使者を送って友好を求めた、倭国もこれに答えて友好関係を結んだ

百済がまだ健在で新羅と戦っているときも倭国は友好国の百済を応援して援軍を送っていた

一方で倭国は唐にも遣唐使を送って友好を維持していた

このように7世紀~10世紀は、半島と倭国は大陸も含めた大きな土壌の中で、戦争や友好による深い繋がりを持っていた

 

日本は12世紀の終盤まで天皇中心の朝廷政治が行われていたが、平清盛が後白河天皇に取り立てられてから、

武家の地位が一気に上昇して、1192年には貴族化した平氏を滅ぼして源氏(源頼朝)が鎌倉に幕府を開き、実質的な

政権運営を始めた

武家政治の始まりである、朝廷貴族政治、あるいは帝政から遥かに身分卑しき者だった武家に政権が移ったのは驚くべき革命

といえよう。

 

半島では9世紀の末になると新羅の貴族政治は乱れ、弱体化した。地方で2つの強力な勢力ができた、それぞれが後百済、

後高句麗を名乗って新羅の領土を侵略した、特に南部でできた後百済は直接的に新羅を攻撃して、ついに新羅の都を攻撃した。

一方、後高句麗では専制的な指導者クンエを部下の王権(ワンゴン)が討って、後高句麗の指導者となった

風前の灯火の新羅王は、ワンゴンに政権を委譲して新羅救援を要請した。 ワンゴンは要請に応えて、後百済のスンホン軍を

撃退した

その後は後高句麗と後百済は一進一退の戦闘を繰り返していたが、後百済の王スンホンは、息子の反乱で別腹の

息子たちを殺され自らも命の危険にさらされた。 なんとスンホンが選んだ道は仇敵だったワンゴンに救いを求めたのだった

ワンゴンは快く応じ、スンホンの案内で簡単に反乱軍を壊滅させた。 スンホンはワンゴンの後高句麗の半島統一を認めた

ワンゴンも親の年齢のスンホンを手厚くむかえて生涯の面倒を見た。

こうしてワンゴン(王権)は高麗王国を宣言して、新羅に代わる統一王朝を完成させた、936年の事である。日本では次々と

天皇に娘を妃として送り込む権力者藤原氏による摂関政治の真っ只中であった。

 

この頃、半島の北の満州付近では渤海が遼に滅ぼされ、遼は金に滅ぼされ、金はモンゴル族の元に滅ぼされた

元は大元国と名乗って、その騎馬軍団を南方に進めて、唐のあとにできた中華大陸の宋を攻めて滅ぼした

同時に半島の高麗にも攻め寄せて数十万を虐殺し、王族をはじめ数十万の民を捕らえて元へ送った

高麗の王子を元風に洗脳して高麗に送り返して王位を継承させた、王名も元風のものに変えさせて隷属させて

支配した。

これは元がヨーロッパまで攻め込んで人類史上最大の領土を得たのち分裂して、弱体化するまで続いた

1274年、1281年の二回、元は高麗軍や宋の降伏軍を先頭に大軍で海を渡り、日本の九州博多に攻め込んだ

このときの日本の為政者は源氏のあとを継いだ執権北条氏(北条時宗)であった、元の降伏命令に従わず九州武士団は

勇敢に戦って、二度とも撃退した、元の大軍は二度とも運悪く海上で大嵐に遭遇して壊滅的な損害を被った

しかし北条時宗はこの時の心労などがたたって30数年の若さで亡くなった、そして鎌倉北条幕府も次第に弱体化して

1334年、王政復古を目指す後醍醐天皇と、尊皇の士の軍によって滅んでしまう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


権力の歴史

2018年06月23日 16時47分01秒 | 日本史

朝鮮半島で14世紀末にできた「李氏朝鮮王朝」と17世紀初めにできた日本の「徳川幕府」の成立過程は

似ている

徳川幕府は誰でも知っているので、簡単に成立過程を書くと、戦国時代が統一されていく過程で最後の

仕上げをしたのは、織田信長-豊臣秀吉-徳川家康の3人であった

信長時代では、秀吉は信長の有力な軍団長であり、家康は日米関係のような同盟者であった

秀吉時代では、秀吉が日本の統一を果たして戦国時代を終わらせた、その豊臣政権で家康は大臣の筆頭

となった

そして秀吉が死んだあと、残された遺児、豊臣秀頼を担いで、思いどおりに自分の権力を拡大していった

それを良く思わない、石田三成などの純豊臣官僚が立ち上がって日本を2分して関ヶ原で戦った

しかし、ワンサイドゲームで家康が勝ったが、まだ支配者にはならず、相変わらず豊臣秀頼の大臣として

振る舞った。 それは石田三成とは馬が合わなかったが純豊臣家臣である加藤清正、福島正則など

強靱で影響力ある豊臣恩顧の有力堅物大名が数名残っていたからだった

だが実権はあきらかに家康にあった、そして清正が死ぬとついに家康は大坂城に秀頼を攻め殺して

豊臣家を滅ぼし、徳川幕府を開いた、その時代は明治まで260年続いた

だが幕閣の権力争いは兄弟間の将軍位争いを引き起こす

家康の長男は家康が信長に従っていた頃に、信長に言いがかりをつけられて自らの手で切腹をさせた

家康の人生最大の痛恨事であった

次男は秀康は秀吉の人質として行った大阪城で秀吉に可愛がられたこともあり、家康はこれを嫌った

後に福井松平家の祖となる

3男秀忠は恐妻家の凡人と言われるが、家康は愛し、後継の2代将軍にした、6男忠輝は戦国豪傑の趣があり

舅は野心家の伊達政宗だったので、危険を感じた秀忠は家康と相談して、越後高田の大大名だった忠輝を改易

田舎に配流して92年の生涯を終わらせた

3代将軍となった家光は、父秀忠夫婦が愛した実弟の忠長に将軍の座を奪われそうになったが、乳母春日局の活躍で

家康から将軍のお墨付きをもらう

こんな事があって、兄弟の中は悪くなり、秀忠が死ぬと家光は忠長に切腹を命じた。

 

一方、半島では高麗王朝が約450年続いて末期を迎えていた、高麗の家臣で地方財閥であるイ.ソンゲ将軍は

今の北朝鮮付近に強大な軍団を持っていた、だが純粋な軍人で中央政界とは無縁だった

そこに取り入った人物がチョンドジョンである、彼は中央で中堅の役人だったが反骨心旺盛で反発して罪人になったこともある

野心家でイ.ソンゲを利用して国家転覆を謀ろうと近づいた。

まずは、高麗王朝を実質動かしている独裁大臣を追い落として殺し、イ.ソンゲの上官だった大将軍をも追い落とし

高麗王の首をすげ替える権力を握った、そして最後は高麗王のワン氏以下、一族をことごとく抹殺してイ.ソンゲを王位に

つけて李氏朝鮮国を宣言した。

だが官僚の多くは高麗王朝の官僚だったので反対する者も多く、粛正が続き、政権は安定しなかった

老いていくイ.ソンゲは、長年戦の連続でもう血を見ることには辟易していた、そして悪夢にうなされ仏教に帰依するように

なった、そして後妻の息子を世子(セジャ=次の王様第一候補)に指名したため、才覚ある5男のバンウォンが反発

チョンドジョンと対立して、ついにドジョンを暗殺した、次いでバンウォンはイ.ソンゲが亡くなるとセジャだったイ.ソンゲの

後妻の息子2人を殺害して、実兄で2男のバングァを2代王に奉ったがバングァは、バンウォンを恐れて王位を2年で

バンウォンに譲った。

朝鮮王朝、第4代王は、李氏朝鮮の王の中でもっとも優れた王と言われた世宗(セジョン)

3代王の父の情け容赦ない権力志向を反面教師にしたとも言われる、字を書けない庶民のためにハングル文字を発明した

王でもある。

 

 

 

 

 

 


日本史 新しい興味が湧いてきた

2018年05月26日 14時20分42秒 | 日本史

昨夜はベッドに腰掛けた瞬間「グラグラ」と横揺れが・・・約5~10秒くらい・・震度3ってとこかな

5クラスは何回か経験したから、この程度はどって事無いけど・・震源地は長野県北部栄村

12日に高速道走行中の地震と、ほぼ震源は同じ

 

さて日本史は昔から好きで、最初は「太平洋戦争」から始まり、「戦国時代」、「日清日露戦争」そして

「幕末・明治維新」と興味は移ってきたのだけれど

今度は幕末から昭和初期の一般人や農民の暮らしに興味が出てきた

それは私のルーツ調べが原因なのだ、栃木では数百年にわたって大地主として続いた先祖

武家や領主、あるいは寺や小作とどのように関わっていたのか、また生活の程度、楽しみ、祭り

交通機関、運送(海運=川運)

それは渡良瀬川と利根川に挟まれた古河でも言えることだし、あるいは歴史上の有名な事件や

維新との関わりにも興味がある

幕末近くには自然災害が相次ぎ、米は不作で農民一揆が相次いで各地で起こった

大塩平八郎の乱も、その一つだが、その乱を鎮めたのが古河藩だったとルーツを調べていて知った

そのほか今まで知らなかったローカルな騒動もルーツ探しの中でいくつか出会った

昭和6年の栃木県(現さくら市)で起こった「阿久津騒動」は父の義父の妹の夫の出身地の出来事

だった、学校歴史には絶対出てこない事象に出会う事こそ研究の面白さだ

イザベラバードの奥羽紀行も明治初期の農民や庶民の暮らしを体験談として書いてあるので

先祖の暮らしを垣間見ることが出来る

 

腰に二振りの日本刀を差して闊歩していた首狩り族が、欧米の大艦巨砲の新世界を見たとたんに

大小を捨てて西洋をまねると、わずか数十年で東アジアを従え、世界最大の強国ロシアと戦争して

勝ってしまった。

その基礎となるエネルギーは農民パワーだった。 国民の大半が貧しい農民で子だくさん

食べるのに一番良い方法は軍隊に入ること、近年の某国に似ている

そう考えると、幕末、明治の農民生活、庶民生活には大いに興味が湧いてきた

また江戸時代の藩政と農民の関係、これも興味がある

さっそくアマゾンに三冊、関連本を発注した。 これらの研究をルーツの小説の中に取り込めば

かなり肉厚になるのではと期待している。

 

 

 

 


日本の歴史 幕末の大逆転

2017年09月13日 14時25分03秒 | 日本史

日本人がもっとも活動的だった時代はいつだろうか

歴史ドラマで人気がある時代は、活動的な時代だったと言えるだろう

戦国時代と幕末が双璧だ、そのあとは明治時代だと思う

戦国時代は日本中が都道府県、市町村単位で一つの国家を形成して戦い

次第に勝者が膨らんで大きくなっていった時代だ

そして最後の信長、秀吉、家康で日本に平和が訪れる

そして250年後に家康が築いた徳川幕府を倒して、天皇を頂点とした政治体制を

作った革命の時代が幕末だ

幕末は戦国時代と違い、徳川幕府を廃し天皇主体の政治復活(尊皇)、徳川幕府の政治継続(佐幕)

、天皇を頂点としながら徳川を含めた大名による合議制国家(勤王、公武合体)の3つの勢力が

争った時代だ。

公武合体の証として、皇女和宮と14代将軍徳川家茂との婚姻が行われた

これとは別に外国船が相次いで交易を求めて日本にやってきたが、それらを追い払って鎖国を

続けるという攘夷思想、外国と交易を始めようという開国派にも別れている、だからより複雑だった

幕府閣僚でも開国派、攘夷派に別れ、勤王思想であっても開国と攘夷に別れている

また地方大名もその通りであった。

日本の治国システムは世界に類を見ない独特なものである

まず神話時代に天から下りてきた神様の子孫が日本各地に住んでいた蛮族を滅し

あるいは従えて大和において日本の大部分をを平定し「天皇」となった。

それ以来日本の主として今日も続いている

天皇家は「いかなる権力者も侵してはならぬ存在」としていつ時代にも政治権力者すら天皇家を

滅ぼす行為を行わず、逆に保護してきたのである。

天皇家に勇猛な天皇が現れ、幕府と戦ったときでも、常に為政者側は争う天皇に対し、別の系統の

天皇を擁立して旗印とした。

武家は天皇の家来であり、将軍は天皇に任命されて北の夷敵を征討するための存在というのが

建前で会った。

だからいかなる権力者であっても天皇の上位にはなれず、ならず、その下という位置で国政を

行った。

戦国時代がおわり、徳川の天下になると三元政治になった、すなわち天皇の下に徳川将軍が有り

日本全体の統治者として徳川将軍があり、それに従う300近い大名という地方国家が存在して

それぞれに独自に独立採算制の政治を行っていた。

中国は大昔からアジアの盟主を自認していた、その最高権力者は日本の天皇と同じく帝として存在した

それは日本で言う将軍と同じ立場であるが「帝」と称した

なぜかと言えば、中国は大アジア(日本の戦時中の八紘一宇と似た考え方)の盟主であり、周辺の国

「朝鮮半島や日本、東南アジア、北方の民族」は、かってに臣下と見なしていたからだ。

王の中の王という立場の帝、だから中国は隋、唐、宋などが滅ぶ度に全く違う血筋のものが帝になった

これが日本の天皇との違いである。(因みに中国の属国という長い歴史が続いた朝鮮半島では、最高権力者は

つねに中国の臣下であるから帝を名乗ることが出来ず王という名称に甘んじた、北方民族「蒙古、女真族など」

に従ったときもやはり王であった)

 

明治天皇の親である孝明天皇はかたくなな攘夷思想であったから、初期の勤王、尊皇の志士や

勤王大名は当然攘夷派であった。

しかし長州毛利家や薩摩島津家のように、一度外国と戦争をした藩は、もはや日本人の今の武力では

欧米の奴隷になるという危機感を持ち、積極的に欧米に近づき、欧米の文明や兵制を取り入れて強国化を計った

徳川幕府にも勝海舟や小栗上野介などのような開国思想の幕臣がいて、アメリカを訪問してアメリカの

文明を目の当たりにしている。

しかし外国に出ない幕臣の親玉は、天皇の権威を恐れて攘夷派を装っているが、アメリカの武力をも恐れ

曖昧な態度に終始した、それが天皇にばれて幕府は頼りにならぬと思われてしまった。

一方、外国船と戦った長州、薩摩には絶大な信頼を寄せた。

徳川家も井伊直弼が筆頭家老で権力を振るううちは安泰だったが、御三家の水戸徳川家の脱藩浪士に

殺害されると一気に幕府の力が落ちた。

そもそも徳川家は、将軍家とそれを補佐する御三家が力を合わせてこそ盤石だったのに、14代将軍を

紀伊徳川家と、水戸徳川家から一橋家に養子に行った一橋慶喜とが争ったことで有力大名と

幕閣の協力体制が崩れ、徳川家の力は弱まった

この頃、幕府を倒して天皇政治を早急に実現しようと考えていた急進派は長州藩であった

長州藩は吉田松陰の先見的な教育を受けた下級武士団が保守的な上級武士団を凌いで

藩主毛利公を抱き込み、藩を自由に動かしていた。

代表的な藩士は、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、大村益次郎、伊藤博文、井上馨

山県有朋(一部後の名前)などで多彩な革新武士集団だった

一方、薩摩藩や土佐藩も下級武士団が力を持ち、精力的に活動したが、両藩共に藩主(殿様)の

力が強く、長州藩のようには力を発揮することが出来なかった。

特に土佐藩は武市半平太がリーダーとなって藩主に取り入ったが、藩主が信頼する大物

吉田東洋を暗殺したため、結局は切腹させられて土佐勤王党は壊滅した。 

それ以前、土佐藩に見切りをつけて早々に脱藩したのが坂本龍馬と中岡慎太郎であった

彼らは土佐一藩など頼りにせず、京に出て全国の脱藩勤王浪士と倒幕を企てた。

こうした倒幕を企てる勤王浪士に対抗して、徳川幕府も会津藩松平家を京都の守護職に充て

治安維持の任務に就かせた、その先鋒として働いたのが新撰組である。

彼らは切り捨て御免の殺人集団として勤王の志士たちは恐れた。

一方、浪士方にも人斬りという異名をとる殺人者が居た、土佐の岡田以蔵と

薩摩の田中新兵衛、中村半次郎、肥後の川上彦斎が特に有名である、彼らは幕府方や

彼らの主義に反対する者を上からの命令で次々と殺害した。

彼らに命令した者には志半ばで倒れた者もあれば、維新を成し遂げ明治の元勲となった者も

いる。

こんな中、あせった長州藩は軍を動かして天皇を頂こうと、京都御所に

攻め込んだが、警備の会津藩と応援に駆けつけた薩摩藩によって撃退されて長州(山口県)に

逃げた。

徳川幕府は怒って、近隣の大名に命令をして長州を攻め、首謀者を切腹させて藩主親子に詫びさせ

謹慎させて引き上げた、ここまでは幕府の権威は生きていたのである。

長州は意気消沈していたがあきらめてはいなかった、ただ反撃の方法が見つからない

そこに現れたのが坂本龍馬だった、彼には世界に乗り出す日本という大きな野心があった

しかし母体の土佐藩は動かず、結局他人のふんどしを借りて相撲を取るしか無い

そこで長州と薩摩という2大雄藩を利用しようと考えたのだ

龍馬はあちらこちらに顔が利くという特技がある、頭も度胸も良い、薩摩藩で重い役を任されている

西郷隆盛に近づき、禁門の変以来、犬猿の仲であった薩摩と長州を同盟させるという離れ業を成し遂げた

これで一気に倒幕気運が高まった、戦うのは長州、薩摩は後方支援で最新の武器と軍艦を長州に

送った。

幕府は長州の不穏な動きを見て、再び大軍を長州征伐に送った、しかし薩摩と長州が手を結んだことに

気づかなかった、幕軍の主力となるはずの薩摩が無断欠席、幕府は長州周辺の鳥取や福岡の大名に

長州を攻撃させたが瞬く間に敗れた、しかも大坂に居た将軍家茂が20歳の若さで急死した

それで幕軍は総崩れとなった。  こうして徳川幕府軍と薩長中心の倒幕軍の形勢は逆転した。

間もなく倒幕軍は京を目指して進軍していく。

 

*確かな資料ではありません、個人的なうろ覚えにつき文頭には「たぶん」

文末には「だと思う」をつけてお読みください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


わが家から明治女性の写真が出てきた

2017年07月01日 18時35分45秒 | 日本史

大雨で退屈だったので、午後から父と母が寝室にしていた6畳間の掃除と片付けをしていた

段ボール箱が一つ押し入れに入っていたので、中を検めてみた

写真とネガがどっさりと入っていて、中国旅行(父が昔、銀行の団体旅行でいた時のもの)のパンフ

や日程表、あるいは父母の60歳頃の九州から山陰.中国のフルムーン旅行の写真や日程表

絵はがき、その他1000枚ではきかない写真の山、もう二度と使うことが無いネガは全て捨てて

写真は整理しようと袋に移していた

そんな中に、古めかしい写真が数枚紛れていた、裏書きを見たら明治38年7月と書いたものや

私の外祖母が20歳と書いてある写真もあった、外祖母(母の母)は1888年明治21年生まれ

だと思った、そうだとこの写真は明治41年の物だ

外祖母の写る写真を一枚一枚調べると武州本庄町 共滎館という版が押してある物や、信陽.諏訪.岡谷

生田写真館の銘版の写真、信陽.諏訪.岡谷 征矢とか法被に神保原製糸場と書いてあったり

手がかりは多い。 外祖母や母は昔、神保原の製糸工場で働いていたことがある、その時の写真だろう

富岡製糸場にも比較的近い、また諏訪は知らないが岡谷には今でも製糸工場があるから、そこでも

外祖母は働いていたことがあったようだ。

これらの写真は長い年月、わが家にあったのだけれど私が見たのは今日が初めてだった

母が嫁いできたときに持ってきた写真と思われる

間もなく平成も終わるらしい、明治は遠くなりにけりと言ったが、もう我々が生まれた昭和が遠くなってきた。

 

トエ(外祖母の名前)20歳  秋山はつ23歳と書いてある(友達なのだろう) 左が外祖母                     

なかなか外祖母は凜々しい顔つきだ、右は無邪気に自動車ドライバースタイル、明治は意外と進んでいる

  

これは子供も写っている、外祖母以外のどちらかの娘でしょう、真ん中が外祖母、背景は絵でしょうね

これは製糸場のイベントか何かの時の物では、なかなか粋な女衆ですね

全員がタバコを持っていますが、演出なのか不良娘なのか、外祖母かっこいい!(一番左)

私の本当の祖母は私が生まれる五年前に東京で空襲で死んでいませんから

両親が弟、妹と寝ていて、長男の私が一人で可哀想だと言って、わが家に来る度に私に添い寝をしてくれて

桃太郎のお話を毎回聞かせてくれました、おかげで幼稚園の頃には「どんぶらこ、どんぶらこ」と桃太郎の話を

話せる様になりました。

私が20歳の時、83歳で老衰で亡くなりました、自宅の畳の上での大往生でした。

 

これは誰が主役かわからない明治40~45年の集合写真です、本を持っている人も何人かいるので

そして師らしい年配の女性が一人だけ混じっているので、寄宿制の女学校でしょうか

誰の写真なのか、母は知っているだろうが92歳になって病院でほぼ毎日寝ているだけの母には

もう思い出す力は無い、人は人の記憶から消えたとき本当に人生が終わり、新たな人生が始まる

それにしても明治の女性の美しいこと、天然の美人ですね、大和撫子、気構えが違う!!!

 

 


建国記念日

2017年02月11日 16時00分00秒 | 日本史

「建国記念の日」は基本的には初代天皇である神武天皇が即位した日のことなのだが

明確にはそれがいつかはわからないので、1月1日としたということだ、これは当然旧暦なので

近世になって新暦の2月11日に定めたと言うことだ。

さてこの日が建国の日というのは良いとして、日本は何度か新たな国に脱皮をしているから

「新建国の日」というのを作るとしたら、封建時代から明治のグローバル日本に変わるきっかけ「大政奉還」

で天皇の政権が復活した11月10日(新暦)

「第二次建国の日」これは文明国家日本になったと同時に、天皇に政権が取り戻された記念日でもある

(実際は薩長政権になっただけなのだが)

それから太平洋戦争でアメリカに負けて降伏、アメリカ占領下で日本は世界から消えてしまった

しかし昭和27年4月28日、日本は独立を果たし世界の一員に復帰した

この日が「第三次建国の日」といえる、ある意味「独立記念日」だ

世界には建国の国と、独立の国と両方がある国がある、そのほか同じ民族で革命によって作られた国もある

アメリカは意外にも宗主国から独立した国だ、イギリスやフランスなどの母国から戦争によって独立したのだ

ロシアは帝政ロシアを破って作った革命国家だし、フランスも同じく帝政を革命で打ち破った国家だ

中華人民共和国は複雑だ、漢民族の国家が満州族の清国に支配されていたのを、日本帝国が戦争で

清国を破ると、清国は弱体化して辛亥革命が起こり、漢民族の独立が果たされた、しかし日本、ロシアが

満州、朝鮮の権益を争い、日本が満州や北京近くまで攻め入ると中国は日本に対抗した

日本がアメリカに負けた後、共産軍と蒋介石の国民党軍が内戦になり敗れた蒋介石軍は台湾にわたり

台湾を中華民国化をした、一方毛沢東は中華人民共和国を宣言した

中国は正確に言えば清国から独立を果たした国家だ、だから独立記念日となるのだろうが、しかし

国民党との内戦から勝ち取った国ともいえる、だとすれば建国でもある

あるいは共産主義革命ともいえる、いずれにしろ複雑な経緯でできた国家なのだ

 

日本が戦争で負けて独立した国もある、それが朝鮮だ

朝鮮には三国時代というのがあって、その三国それぞれ日本で言うところの神武天皇のような建国の祖

というのがあって、厳しい試練を乗り越えて虎に勝った熊女と神様の間に生まれた「タングン」とか

卵から生まれた「パクヒョッコセ」などがそうだ、今の韓国の祖は「タングン」の方のようだ

「タングン」が建国した日が建国記念日なんだろうが、もう一つ日本から独立を果たした「独立記念日」も

あるという。

北朝鮮はどうなんだろうか・・・・国家建設の記念日は? 互いに相手の国家の存在を認めず不法占拠と

互いに言っているが・・・・かっての朝鮮国、この国も複雑だ

台湾、ここも複雑 純粋な台湾人、蒋介石が進駐した中華民国 台湾も領土の一部とする共産中国

互いの言い分が存在していて、第三者は口出しできない

日本にも「独立した日」というのがあることは、意外と知らない日本人が多い、私が生まれたのはアメリカに

占領されていた日本だった

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑰ 最終回

2016年11月27日 18時32分24秒 | 日本史

日本2000年の歴史もこれで終了となる

中国4000年、韓国は5000年の歴史があるという、中国の4000年はわかるが、韓国の

5000年は?

歴史とは政治体制、人物、最高権力者を時系列で並べて解説するものである、日本に当てはめれば

政治体制は朝廷政治-武家政治-帝政-民主主義(資本主義、自由主義)であり

最高権力者は天皇-藤原氏-平氏-源氏-北条氏-足利氏-豊臣氏-徳川氏-天皇-国会(国民)

但し、政治的な最高権力者の上には世界でも希な、建国以来の一系伝承である天皇家が存在する

日本の年号と同じく、天皇家の血脈は続き、今に至っている、しかし今後の男子の直系は秋篠宮家に

一人だけで、今後の天皇の継続について論議が交わされている。

ともあれ日本の歴史を語るには、天皇と為政者の力関係、あるいは出来事を知ることが重要である

日本の歴史の転換点には必ず、天皇及び皇子が登場する、大化の改新、平氏の滅亡、建武の新政

戦国期の上杉謙信の尊皇、織田信長の天皇利用、徳川家康の公家諸法度制定、幕末の攘夷、明治維新

2.26事件、終戦の玉音放送

昭和という時代は昭和20年を境にして全く異なった昭和時代が展開される、戦前の軍国主義時代は

まさに戦争一色の時代だった。

終戦後からは戦争及び軍隊色が払拭されて、グローバルな経済戦争の時代が展開された

昭和20年、日本国は米国に占領されると共に、国家経済は破綻した、いやほぼ破綻した

国民は草木の根をかじるような貧しさの中で、それでも日本人のたくましさか器用さか根性か再び

経済活動が始まったのは終戦直後からである、貧しさになれているアジアの中で、破綻からすぐに

貪欲に富を追った国は日本だけであろう。

中国も朝鮮も貧しさから、順調な経済活動に至るのにずいぶん長い年月がかかっている。

昭和30年代には、自動車が普及しだし、昭和39年には東海道新幹線が走り、東京オリンピックが開催

された、戦争で主権を失い、空襲で100にも及ぶ都市が焼き尽くされ、交通網も工場もバタバタになった

それがわずか20年足らずで世界の人を集めて「おもてなし」ができるオリンピックを開催するだけの

経済力とインフラ整備ができたのだ、恐るべし日本

そして高度成長期に入り、国民の所得は「倍増計画」どころか10倍にもふくれあがった、さらにバブルが

始まると、アメリカを買うほどの金を持ち、世界一豊かな国になったように見えた、だがそれは風呂の泡

だった、まさに「水の泡」、日本経済は一気に冷え込み、一流銀行、一流証券会社、一流損保会社、

一流商社が次々に破綻した。

あれ以来、平成28年の今日まで日本の経済は低水準で推移している、所得も増えるどころか減るばかり

かっては世界一と言われた個人所得も、今はベスト20位にも入れないほど落ちぶれた、昨日見た池上彰さん

の番組では日本人の所得は360万円だとか言っていた、年間所得100万円以下のワーキングプアも

何十%いると聞く。

産業構造も戦前は大きな割合を占めた農業、漁業、林業従事者がたいへんな勢いで減少している

仕事がキツい上に、都会のサラリーマンに比べても収入が少なすぎる、漁業は収入が良いが天候と魚の

気まぐれで収入が安定せず、船や漁網の経費がバカにならない、農業の機械もその通りだ。

逆にIT、芸能産業、マスコミ関連、スポーツ界は華々しく華やかに、そしてセレブと言えばこの業界が

圧倒的に多くなった、確実に都会と田舎、産業別の収入格差が大きくなり出している。

加えて少子高齢化、非結婚者の増加、離婚の増加と、それによるシングルマザーの増加、世界の中でも

異常に低い出生率、年金受給の不安、若者に聞くともう年金はあきらめている人がいる、さりとて

異議を申し立てようという思いももっていないようだ、あきらかに日本人の質は変化している。

貧しさに慣れた若者、バブルの再燃をあきらめたバブル世代、なぜこんな事を書くか、今が最新の

日本史を我々自身が実行しているからだ、こんな様々な小さな出来事が数十年後に歴史として語られる

「平成の不況時代」と書かれるのか、「少子高齢化結婚できない時代」があったと書かれるのか

「所得格差が著しい時代であった」「年金の受給を巡り各地で暴動が起きた」はたまた「第三次世界大戦参戦」

「**年ぶりに外国と交戦が行われた」と記されるのか「東証35000円突破!」「出生率1.5到達」なんていいね

20年後まで生き延びて、追記された日本史を見てみたいものだ

 

                     おわり

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑯

2016年11月26日 14時36分50秒 | 日本史

北朝鮮がソウルに攻め込んだとき、町の中央を流れるハンガンの橋を爆破するのは

戦略上、重要であった、ここで北朝鮮軍を足止めできれば、韓国、アメリカの軍は再編して

体制の立て直しができるからだ、ところが予想外の不意打ちで、軍と市民がごっちゃになって

撤退となったため、軍を優先的に渡河させる必要があった、そのため多くの市民は河の北側で

足止めされた、しかし北軍の侵攻は早かった、戦車を先頭に攻め寄せる。

市民が渡りきらないうちに橋は爆破された、多くの市民が犠牲になった。

それでも北軍は河のあちこちから渡河してきた。

結局、韓国軍は南に追い詰められ、大統領はプサンに臨時政府を移した、テグ、プサンが孤立しながら

なんとか戦線を保っている、ここが落ちれば大統領を始め要人は、日本に逃げ延びるしかない。

この時、補給線が伸びきった北朝鮮軍に対し、マッカーサー将軍は米軍の西海岸上陸作戦を実行

しようとしていた、問題はどこに上陸するかであった、結局インチョン(仁川)に決まったが危険な賭

であった、だがこの作戦は成功した、意外にも北朝鮮軍が少なかったのだった。

これによって北軍は分断された、そして南側の北軍は逆に包囲されてしまった。

今度は北軍の敗走が始まり、米英韓軍(国連軍)はソウルを奪還し、更に北朝鮮の首都ピョンヤンも制圧

、さらに北へ北朝鮮軍を追い詰めた、ところが今度は北朝鮮軍に中国から中国人民軍が支援に大軍を

送り込んできた。

これで戦線は38度線あたりで膠着状態に成り、やがて休戦協定が結ばれて、今日に至っている。

北朝鮮と韓国の戦争は67年間いまだに続いているのだ、休戦しているだけである、お互いに

相手の国の存在を認めていない、自国を敵が不当に武力占拠しているという事になる。

この戦争には日本の哨戒艇が機雷の撤去に参加したと言うことだ。

この戦争では、駐留米軍が朝鮮に行くことで、日本の防衛力が希薄になる、そこでアメリカ主導で

日本人で編成された「警察予備隊」という軍備を持った組織を作った。 <軍隊>とは言わない、

アメリカが作った憲法を僅か5~6年でアメリカ自ら破ることになるからだ、これが後に「自衛隊」となる。

世界でも数本の指に入る軍備を持っているが憲法上、日本軍ではない、戦闘を行うにしても、いちいち

国会に於いて審議して、憲法を代えるか、憲法解釈を代えなければ一発の弾も攻撃してくる敵に向けて

発射できない、これはあきらかに軍隊ではないのだ、先日ようやく「かけつけ警護」とかの法律ができて、

海外の邦人や一緒に警備する外国軍が攻撃されたときにはそれを援護するための発砲が認められた

ばかりだ。

 

昭和20年の終戦から、日本では深刻な食糧不足が始まった、食料は国が統制して配給制にする

食料生産ができない都会はいくらお金があっても食料が不足する、国の配給だけでは生きられない

田舎の農家に買い出しに行く、現金だけでなく、豪華な着物などを持って行って交換してもらったりする

せっかくこうして持ってきた米や野菜は、警察に見つかれば没収されてしまう。

警察官でも闇米を食べて生きている時代なのに・・・

さらに海外に出ていた兵隊たちが続々本土に帰還してきた、そして結婚、あるいは家族の元へ

一気に子供が生まれ始めた、食糧難の折り、この子らを育てていくのは容易でない、たいへんな時代

が始まったのだ。(団塊世代の誕生)

この頃は貨幣価値が凄いスピードで下落していった、異常なインフレだ(ハイパーインフレ)

数百円というお金は、結構な金額であったが、それが5年も経つと100分の1以下に下落してしまった

最初に土地家屋を買っておいた人は幸いだったが、現金で持っていた人は大損をしたようなものだ。

 

この朝鮮戦争で日本の景気が沸騰した、隣国の戦争で景気がよくなったのだ

戦争とはおびただしい弾薬と食料の消耗と補給、そして輸送を産み出す、あるいはけが人と治療、

戦死者の処理、様々な分野が活発化する。

そして昭和27年4月28日、日本は再び「独立国日本」として世界に認められた、同時にアメリカとの間に

日米安全保障条約(安保)が結ばれた。

東西冷戦の中、日本は自由主義陣営の一員として再スタートをした。       つづく

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑮

2016年11月26日 10時52分57秒 | 日本史

戦前の天皇陛下の存在の重みは、アメリカによって作られた「新憲法下」の「象徴天皇」とは

まったく違う。

日本は昭和20年8月15日連合軍が提示した無条件降伏を受け入れた、そして9月2日

米国戦艦「ミズーリ号」において降伏調印式を行った、これによって日本は独立国の地位を

失い、連合軍の占領下に置かれることになった、これは「煮ようが焼こうが勝手にしろ」状態なのだ

無条件降伏とは、言われるがママにするという最悪の受動態

太平洋戦争の敗戦で、もっとも日本の政府や軍部が懸念したのは降伏後の天皇陛下に対する

連合軍の扱い方であった、もし「戦犯」にされた場合、あるいは裁判にかけられるなどは到底

日本国民が許すことのできないことであった。

連合軍にとって、天皇が今度の戦争の最高責任者と考えるのは自然であった、しかし戦争の

終結に際してあれほど勇敢で勇猛で、自らの死さえも顧みず国家のために自殺的戦死を遂げる

国民、そして過激な軍部をぴたりと制して、一糸乱れぬ整列で戦勝国を招き入れたのは、天皇陛下の

玉音放送のただ一声であった。

捕虜や各界の日本人知識層などからも天皇陛下の人柄や国民感情も連合軍は聞き取りをしただろう

その結果、天皇を裁くのは日本人にふたたび反抗なり、暴動なり、あるいはゲリラ戦がおきるのではという

懸念を持ったからだろう、むしろ国民を押さえるには天皇の力が不可欠と考えたかも知れない。

天皇家をそのまま存続させ、但し今までの国家主権を「国民の象徴」とすることで手を打ったということだ

これで国民や軍、政治家は胸をなで下ろした。

連合軍(主にアメリカ軍)がマッカーサー将軍を先頭に日本に駐留した、連合国では日本の占領にあたって

ソ連、中国、英国、米国など戦勝国が日本列島を分割統治するという案があったとは歴史書などに

書かれている、だがアメリカはそれを許さなかった、アメリカ一国が日本に対する戦勝国なのは明白だった

インドシナ半島やマレー半島、インドネシアの戦いではイギリス、オランダ軍を追い払い、中国戦線では

終戦時点では優勢に戦争を進めていた、ソ連とは戦っていなかったが、日本の敗戦濃厚なのを見届けて

満州、朝鮮に攻め込んで略奪と殺戮を行っただけで戦勝国の権利を得た。

もっとも血を流さずに大きな利を得たソ連は、千島列島、樺太、今何かと政治課題になっている北方4島

を戦利品として日本から奪った。

しかしもしソ連が北海道を、中国が東北地方を分割統治していたら、今の日本は朝鮮戦争どころではない

混乱に陥っていただろう。

 

連合軍はまず日本軍を武装解除したあと解体した、日本軍は消え去った、占領はしたが政治機構は残した

あくまでも政治のトップは日本人に任せた、アメリカは日本政治のトップを管理するだけにとどめた、その方が

日本を統治するのに楽だったのだ、日本の官僚機構は今も昔も世界水準だ。

最初に行ったのは戦争を主導したと思われる政治家や軍人の逮捕だった、その後、極東軍事裁判を行い

陸軍の東条英機元首相などが絞首刑に処された。

この裁判の中では、原爆で一般市民を大量殺害した事についての反論があったが「勝利国が敗戦国を裁く

裁判である」と一蹴される場面もあったという、 無条件降伏の意味を知らされた一場面だった。

この裁判に先駆けて、国外ではそれぞれ現地で軍事裁判が行われ、その方面の戦争責任者や戦中地元民

を迫害した罪で多くの兵が現地で死刑にされた。

それから一部分に大きな力を集中させるのは危険と考えて、財閥解体を行い、大会社を分割した、大地主の

持つ田畑も小作人に分け与えさせた(農地解放)、ソ連から帰国した捕虜は社会主義思想に洗脳を受けていた

のでソ連の影響を恐れて「赤狩り」と称して共産党の影響がある人たちを取り締まった。

これはアメリカ本国でもおこなっていたのだった、1950年代に朝鮮戦争が始まるとより厳しくなり、地方の

大きな工場などでもレッドパージという声が聞かれるようになった。

昭和22年5月3日、日本国憲法が発令された、これは平成の今、世界の実情に合わないと自民党が憲法改正

を働きかけ、野党が反発しているのは皆さんもご承知の通り。

この新憲法は、日本は再軍備をしない、戦争をしない、国民が主権者である、自由平等を守る

国民の権利と義務などが盛り込まれている

この昭和20年から25年の間には日本の敗戦の影響で東アジア、東南アジアに大きな動乱が相次いだ

中国大陸では国共合作が終わり、蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産党軍が戦闘を再開した、国民党は

中国国民に評判が悪く、次第に共産党の支配地域と支持者が増えて行き、ついに1949年蒋介石は軍と共に

台湾に渡って、中華民国とした。 当初台湾の先住の人たちと激しい摩擦対立があったという。

大陸の中国は中華人民共和国と成り共産党国家となって今に至っている。

朝鮮半島は日本の敗戦でアメリカとソ連が南北半分ずつ統治した、北には戦争中、ソ連に逃げていた

金日成らが戻ってきて、ソ連の指導を得ながら北朝鮮の経営に乗り出した、そのため北朝鮮は

社会主義国家になった。

南朝鮮は李承晩がアメリカの影響下で大統領となった、こちらは資本主義国家の歩みを始めたので、

南北朝鮮は自由主義国家と社会主義国家の対立の縮図になった。

1948年、朝鮮半島の2カ国が独立した、南朝鮮は韓国(大韓民国)と国名を改めた。

韓国初の大統領となった李承晩(イ・スンマン)は昭和27年に、李承晩ラインという

日本海の国境線を一方的に交渉なしに設定して軍隊を駐留させた、それが今日の竹島問題として残っている。

その他のアジアでもインドネシア、インドを始め次々と独立を果たしていく。

1950年6月、突如として北朝鮮軍が国境を破って韓国に攻め寄せた、韓国の首都ソウルは瞬く間に占領

されてしまった、装備も士気も圧倒的に北軍が勝っていた、韓国の大統領等は水原方面に逃げた。

 

                                                 つづく

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑭

2016年11月24日 08時54分23秒 | 日本史

この戦争で日本が世界に誇る兵器がいくつかある、東アジアの資源乏しい日本が

どうしてこれだけの兵器を作ることができたのか不思議に思う。

おそらく国家予算の何割かを軍事費に充てたからこそできたのだろう。

(今は予算の1%以下である、これを10%にすれば今の10倍の兵力になると言うことだ)

常に外国軍隊の脅威にさらされているところでは、国家予算の半分近くまで軍事費に使う国もあるようだ

日本軍の優れた兵器は、まずは零式艦上戦闘機(ゼロ戦)、3000kmにも及ぶ航続力、素早い旋回能力

戦争中期までは、世界最強クラスの戦闘機でアメリカの戦闘機さえ歯が立たなかった

酸素魚雷 航跡がわかりずらい魚雷、姿も見せずに突如艦船を撃沈する

イ-500型潜水艦、偵察水上機を格納できる超弩弓の潜水艦、アメリカ本土まで行って砲撃したらしい

戦艦大和、戦艦武蔵 世界最大の戦艦、主砲の46センチも世界最大、日本では不沈戦艦と信じていた

しかし華々しい戦果もあげぬうちにアメリカの航空機によって2隻とも轟沈した

こんな兵器と日本人の根性、精神力、器用さ、不器用さ、国民性で4年近くも白人国家を敵に回して戦ったのだ

司令官や戦争指導者に敬意は持たないが、ここまで頑張った下士官や、招集された一般市民兵士には

心から敬意を表する。日常生活と家族を置いてきた、数百万人の平凡で善良な市民が国家守護のため命を

なげうったのだ。

沖縄戦は初めて日本国内で一般市民が住む地域での戦争である、しかも島である故に逃げることもできない

紛れもなく一般市民は戦闘に巻き込まれて命を落とす、日本軍が中国で行った市街戦、あるいは田舎の集落

での戦闘、あるいはアメリカが1960年代にベトナムで行った戦闘、これらはみな沖縄戦と同じだ。

そもそも沖縄はその昔、独立国の王国だった、しかし朝鮮同様、強国に囲まれた小国故に独立を保つのが

たいへんだった。 沖縄は琉球と言った、江戸時代には日本と清国の両方に朝貢して独立を保っていた

しかし幕末、日本の薩摩藩(鹿児島県)に併合されてしまった。

ともあれ沖縄戦については様々な記録が残っている、映像も残っている、それは沖縄県民の受難と、そこに

送り込まれた兵士たちの血みどろの戦い、この戦争で長崎、広島、東京、横浜、名古屋などの市民と同様に

もっとも悲惨な目に遭った人たち、この亡き人々の受難でようやく戦争は終わったと言って良い。

沖縄は3ヶ月の戦闘でアメリカが占領した、以来、昭和47年までアメリカの占領下に置かれた沖縄、そして今も

県の多くの地域がアメリカ軍の基地になっている現実、まだまだ沖縄の戦後は終わっていない、そしてそれは

今も数々の問題として政府と対立している。

 

沖縄が占領された、沖縄の砲台になるために片道燃料で出撃した日本の最後の星「戦艦大和」もあえなく鹿児島沖で

米軍攻撃機によって、数千名の乗組員と共に轟沈して海底深く沈んでいった。

鹿児島県の飛行場は神風特攻隊の前線基地として、毎日10代20代の若者が飛行機に爆弾を積んで片道燃料で

沖縄に押し寄せた数百、千の敵艦に体当たり攻撃を仕掛けた、しかし度重なる特攻機に慣れたアメリカ軍は待ち構え

ていてゲーム感覚でこの無謀な特攻機を打ち落としたという、パイロットもほとんどひこう経験の無い未熟練者であり

ほとんど米艦に命中することはなかった、特攻も終盤は犬死に等しかった。

それでも軍部は最後の一兵まで戦うと「本土決戦」を真剣に考えていた、まさか押し寄せてきた数千隻のアメリカ艦船が

元寇の時のように、神風によって兵士もろとも荒らしの海で消え去ると考えたわけでもあるまい。

本土決戦を行えばアメリカ兵100万人と差し違えるという計算があったとか、しかしそのために3000万人以上の日本

国民が滅亡する、だがそれ以前にアメリカ爆撃機が連日、自由気ままに日本に侵入して都市という都市を無差別爆撃

した、富山市などのように全て焼き尽くされたところもある、50以上の都市が爆撃され、8月には1週間で広島と長崎に

原子爆弾が落とされた、たった一発の爆弾でそれぞれの市民10万人以上が殺された、そして2世3世まで放射能の

後遺症で苦しみ死んでいった人もいる。

いつまでも降伏せず抵抗する敵国への見せしめの大量虐殺、脅し、ようやく日本のリーダーが連合国の無条件降伏を

受諾してこの戦争は終わった、しかし中国大陸の陸軍はなぜ負けたのか理解できなかった、まだまだ互角以上の戦闘

を行っていたのだろう。

だがソ連軍が攻め寄せてきた満州や朝鮮では、敗戦にかかわらず悲惨な日本国民の受難が続いていたのである

亡国となった日本の政府はこれらの哀れな国民に何ら救いの手をさしのべることができない、ドイツ軍による

ユダヤ人狩りと同じ事が、降伏一週間前に不可侵条約を一方的に破棄して攻め込んできたソ連によって

行われていたのだ、民間人は暴行され殺され、投降した兵士は60万人もシベリアへ不法に連行され、酷寒の地で

奴隷のごとく過酷な作業に使われて6万人以上がその地で亡くなったという、それは昭和25年頃でも続いていた

同じ捕虜でも米英に捕らわれた捕虜とは天と地ほどの境遇の差がある。

こうして歴史をおさらいしながら、昭和20年からは気が重くなってくる、19年までとは戦争の様子ががらりと変わり

それは戦争と言うより、一方的な日本人へのホロコーストに思えてくる、もはや戦争ではない、それにも関わらず

なぜ政府は降参しなかったのだろう。自殺教唆としか思えない意味も無い特攻で多くの未来ある若者を

殺してしまった。

天皇陛下をお守りするため信州松代に巨大な地下要塞を建設して、飛行機など最終決戦兵器も各地に温存して

本土に200万、大陸に100万の日本軍が健在だと意気をまく

まだまだ軍は、やる気はあったのだ、だがアメリカは空から日本軍より国民をターゲットにして戦争を終わらせた

お手上げだった

 

                 つづく