神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

日本の歴史 おさらい⑬

2016年11月23日 15時11分26秒 | 日本史

昭和19年11月ついにサイパン、テニアン、グアムの米軍基地からB-29が日本爆撃に

飛び立った。 今は日本人の若者たちがビーチで楽しんでいるが約70年前にはサイパンでは

多くの日本人が民間人が戦争のために亡くなった、乱暴なアメリカ軍がやってくる恐怖で婦女子は

岬の断崖から身を投げたのだ。

日本がこうして押しまくられている頃、ヨーロッパ戦線でも日本の同盟国ドイツとイタリアも連合軍に

東西から押しまくられていた、西から米英中心の軍、東からはソビエト軍がドイツの

占領地を次々に解放していった。

 

アメリカ軍の次の攻撃目標は硫黄島であった、見過ごしても良いような小さな島だがこの島にある

守備隊が邪魔だった。

アメリカ軍が東京を爆撃する場合、サイパンから東京を往復すると5000km近い

B29の航続距離だと何かトラブルが起きれば爆撃後にサイパンまで戻れない可能性がある

しかもこの距離は直線距離で硫黄島の近くを通る、すると発見されて本土では迎撃態勢がいち早く

形成されてしまう、護衛戦闘機はとても行ける距離でなく、だから硫黄島を大きく迂回する必要があった、

そうするとまさにぎりぎりなのだ、燃料がぎりぎりで不時着も多かった。

この島さえ占領してしまえば、アメリカにとって日本のどの都市でも楽々爆撃できるようになる。

佐渡島の10分の1程度の島で最高地点の擂鉢山が170mあとはほぼ平坦な感じの

溶岩台地である、飲料水は自噴していない。

硫黄島の日本軍守備隊は2万数千、サイパンを落とした米軍がまもなく大艦隊と上陸部隊で

攻撃に来るのは目に見えている、そのため守備隊長の栗林中将の命令一下、未曾有の溶岩台地

穴掘り作戦が始まる、硫黄島の名が示すとおり西ノ島の成り立ち同様、海底火山の噴火でできた

島だ、これを掘削して長大な防御陣地を作るのは容易ではない、だがみんなやり遂げた。

栗林中将は温厚で家庭思いで筆まめな人柄であった、またアメリカ通でもあった、その人柄は

彼のことを書いたノンフィクションを読めばよくわかる。

戦場に在っては冷静沈着で気配りが行き届き、部下思いである、日本の封建的な訳のわからない

司令官、指揮官が多い中で栗林中将は代表的な名将だった、また敵にも尊敬される人だった。

そして部下にはオリンピックの馬術で金メダルを取った西中佐もいる、彼の死を惜しんだ敵国の

アスリートたちも多かっただろう。

勝ち負けだけ決めるなら、戦争ではなくスポーツでも良いわけだ、だが戦争には複雑な破壊と

死を伴う麻薬的快楽要素が潜んでいる。

静けさが漂う硫黄島に8万の上陸兵、海を覆い尽くした艦船、おびただしい爆撃機、爆弾と艦砲

射撃が島の形を変えるほど降り注いだ。

もともと森も林もない裸の島だ、攻撃するには楽である、日本軍の反撃はなく、敵兵の大半が

陣地と共に埋もれてしまったと思われた、数万の兵が上陸した、物資が海岸に山積みになった

そこに猛烈な日本軍の砲弾が飛び込んできた、あっという間に数百の犠牲者が出た、時間と共に

犠牲者は増えていく。

栗林中将の果敢で緻密な作戦により逃げ場のない、縦4km横8kmの小さな島の陣地で、支援の

飛行機も艦船も戦車もない栗林師団は3倍の敵兵と、圧倒的な艦船と飛行機と砲撃に堪えながら

1ヶ月もゲリラ戦で持ちこたえ、結果的にはほぼ全滅したが戦死と負傷の合計ではアメリカ軍の方が

日本軍より多かったのだった、栗林中将こそ軍人としても人間としても最高のナイスガイだと思う。

3月9日の午後、この島で10万の日米両軍が死闘を繰り広げる頭上をグアム、サイパンなどから

数百機のB29爆撃機が東京目指して飛び立った、そして3月10日零時過ぎ、寝静まった東京に

油をまき散らし、それからおびただしい数の発火材の焼夷弾をばらまいた、今までの空襲は中島

飛行機工場などの軍需施設を狙ったが、今回は明らかに非戦闘員の住宅地狙いだ、それも低空飛行

で確実に命中させていく、一夜にして東京の半分、下町地区が焼き尽くされ10万人以上の市民が

焼き殺され、防空壕に逃げた人々は蒸し焼きになった、隅田川は関東大震災以来またしても溺死体で

溢れた、翌日からは黒焦げの遺体やズブ濡れの遺体が隅田公園や浅草寺、錦糸公園などに積み上げ

られた、悪魔の仕業としか言えない残虐な行為だった、この作戦を指揮した米空軍の将軍には戦後日本

から最高の勲章が贈られた。

1週間前にはフィリピンもアメリカが制圧した、マッカーサーは発言通り「戻ってきた」のだった。

そして勝ちに乗じたアメリカ軍は日本の前線防衛基地の台湾を無視して、4月1日沖縄に上陸した、悲劇の

沖縄戦の始まりだった。                         つづく

 

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑫

2016年11月22日 22時46分13秒 | 日本史

昭和17年はミッドウェイの大敗北があったが、フィリピンを占領するなどまだまだ互角の戦いを続けていた

南の島々を次々と占領した日本軍に対して、アメリカ軍が最初に反撃したのはガダルカナル島であった

この島を巡って、互いが何度も上陸戦を敢行してとったりとられたりを繰り返した

またこの島の周辺では、そうした上陸部隊の作戦遂行を助けるために日米の海軍の海戦もたびたび起こった

東京都の約2.5倍の島を巡って半年間の攻防が行われたが、作戦の失敗で日本軍は2万人ほどの兵を失い

多くの艦船と飛行機も失った、何よりもベテランパイロットを消耗したことで今後の航空戦の劣勢を招いた。

またガダルカナルでの兵士の死亡原因は戦闘より飢え死にとマラリアなどの病死の方が多かったと言うことだ

この島を含めたソロモン群島の周辺は、今も船(軍艦)の墓場と言うほど多くの艦船が浅い海底に沈んでいる。

日本海軍と航空隊はこの島の争奪で消耗しきったと言って良い、このあとの補充がつかない日本と、豊かな

原材料と大きな工業力を持つアメリカ、この差が戦争の行方を決定づけた。

翌18年初頭、ガダルカナルの軍は撤退してガダルカナル奪取の作戦は完敗に終わった

 

18年4月には連合艦隊司令長官の山本五十六が飛行機で戦地視察中にアメリカのP38戦闘機の編隊に

待ち伏せされて戦死した、日本の暗号がアメリカに知られていたらしい、既に諜報戦でも日本はアメリカに

負けていたのである。 山本の戦死は国家にとっても海軍にとって大損失であった。

 

ガダルカナルを日本軍があきらめると、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの連合軍は、ソロモン群島や

南洋の日本軍基地に対して次々と攻撃をかけていった、北方のアリューシャン列島でもアッツ島、キスカ島の

奪還作戦を行い取り返した、キスカ島では劣勢の日本軍が密かに脱出に成功したが、アッツ島の守備隊は玉砕

した これから終戦まで各地の戦場で日本軍の「玉砕」「万歳突撃」「神風特攻」が繰り返し行われるようになって

いく。

9月には最大の島ニューギニアにもアメリカ軍が上陸、戦闘の末日本軍は撤退する、こうして南太平洋の島々は

連合軍の占領地域が広がっていった。

これからの連合軍の侵攻作戦は台湾、フィリピン、グアム、サイパン方面となる。

アメリカ軍の主力は、屈強なベテラン航空隊が存在するラバウル島などは爆撃だけにとどめ、占領しない方針に

転換、そして次の目的地フィリピンの奪還に向けて作戦を進めた。

そのため、包囲されたラバウル航空隊は全体的な作戦から取り残され、上空にやってくる敵機を追い払うだけの

仕事になり、少しずつ消耗しながら終戦を迎えることになる。

 

18年になると国内では食糧事情も悪くなり、米や味噌などの日用品は配給制になった、また国家の非常事態であり

個人の自由は最小限に制限され、工場などは閉鎖、軍需工場の生産だけに重点が置かれ、国民は国や自治体の

命令で軍需工場の労働に配属された、国民の生活はどんどん窮屈になっていく

戦死者が増えるに従って兵の補充のため、18年秋にはとうとう、これからの日本の頭脳となるべきエリート大学生

にも徴兵が発令され(学徒出陣)優秀な頭脳の持ち主が一兵卒として銃剣を与えられて戦地に送られていった。

こうした南洋諸島の相次ぐ敗戦とは裏腹に、満州から中国、インドシナには強力な陸軍が百万以上存在していて、

連日有利に戦争を遂行していた、その鼻息は荒く、インドを襲いイギリス軍を追い払いインドを独立させようという、

インパール作戦の試案ができあがっていた。

19年の3月にはインパール作戦が開始された、これと競うように中国大陸の日本軍は、中国中南部を縦断してインド

シナに達する大作戦を決行した、このように大陸の陸軍は、太平洋の海軍や島々で苦戦する陸軍と異なり意気は揚々と

していた。

インパール作戦は補給の困難から食料弾薬が思うように調達できず夏には撤退が始まった、しかし連合軍の追撃は

激しく日本軍は退却路に5万からの兵の屍を置いていくことになる、後にこの街道の悲惨さから「白骨街道」と名が付けら

れた程だ、因みに父の従弟も、この作戦に参加して両足を砲弾の破片が貫通、手榴弾で自決を迫られたが戦友に助け

られて英軍の捕虜になった後、無事に帰国できた。

インパール作戦は大敗北で失敗に終わったが、中国大陸縦断の作戦は予想外の勝利で完遂した(大陸打通作戦)

しかし19年の戦局に於いて諸手を挙げて喜べる勝利はこの一戦くらいで、他は負け戦の連続、しかも玉砕が相次いだ

6月にはマリアナ沖海戦で日本海軍は虎の子の航空母艦3隻を失う敗北を喫した、ミッドウェイ海戦同様艦載機も

大被害を被った、続いて7月8月にはグアム、サイパン、テニアンの3島が相次いで玉砕、アメリカ軍が占領した、ここを

占領した意味は大きい、B-29が東京や名古屋などの都市を燃料補給なしで、ぎりぎり爆撃できる距離だからだ。

だがアメリカ軍は本土爆撃は急がず、次の拠点確保のためフィリピン、台湾、沖縄をターゲットに爆撃を開始した。

どこに上陸するか予測がつかず、日本軍は各島に兵力を分散配属するしか無かった、そのため集中的に攻撃できる

米軍より常に兵力的不利が続いた。

豊臣秀吉が小田原北条攻めの時、関東一帯に散らばる北条の支城を一つずつ落城させていった状況と同じである。

10月になって米軍の次の攻撃目標がフィリピンであることが明らかになった、フィリピンは日本と同じ島国でそれぞれの

島に米軍は上陸作戦を開始した。

レイテが占領されると日本海軍は残った戦艦などを動員して、レイテ湾に攻撃を仕掛けた、その中には世界最大の

巨艦大和型二番艦「戦艦武蔵」も参加していた、しかし不沈戦艦と言われた武蔵も魚雷と爆弾を雨あられのごとく

艦に受けて轟沈した。

またしても日本海軍の大敗北、レイテ突入戦は失敗に終わった、それは日本海軍の制海権を失ったことでもあった、

これ以後、太平洋はアメリカ軍の制海権、制空権下におかれて日本の艦船は相次いで攻撃され沈められた。

特に悲惨なのは台湾や沖縄に向けて、兵員や物資を積んだ輸送船団が潜水艦に襲われて沈むことである、船団は

集団で行くが、目的地に到達できる船は半分にも満たず、敵と戦う前に海の藻屑と消えた兵士の数の方が、戦闘の

戦死者より多くなった。 私の身の回りでもこうした輸送船乗りが2人いるが、いずれも運良く生き延びたのだが同僚の

艦船が撃沈されるのを嫌と言うほど見てきたと言っていた。

日本軍は艦船不足、飛行機不足、燃料弾薬不足、兵員不足、熟練兵不足となり、いよいよ正攻法では米軍に勝てなく

なった,そこで考え出したのは精神力と愛国心だけが武器の「神風特攻隊」、飛行機に片道燃料と爆弾を積んで敵艦に

体当たりする戦法である、誰が考えたのか、もはややけっぱちのヒステリック戦法である、人命第一の米軍では思いも

つかない人命軽視の作戦、人間消耗品作戦だ、これを断れば「腰抜け、非国民」の罵声と鉄拳が飛んできそうだ。

全ての特攻隊員が、御国に命を捧げられて喜んで体当たりしていたとは思えない、修羅場をくぐった兵隊体験者でも、

特攻はやるべきではないと語る、こうした攻撃はただ若者を殺すだけでこの時点ではもはや、敵艦の1隻や2隻沈めても

戦局に何ら影響ないところまで来ていたのだから。

どこでこの戦争をやめるのか、不思議なことに戦争をやめようと言うべき人が誰だったのか、未だにわからない、誰も

それを言い出すことができない雰囲気があり、国民にも軍隊にも政治家にもマスコミにもやめる勇気をもつ指導者が存在

しないのが当時の日本だったのだ、そのため死なずとも良かった人たちが、このあと終戦までの1年足らずで100万人

以上死ぬことになる。

                              つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑪

2016年11月21日 18時20分14秒 | 日本史

日本の歴史の大きな転換期は2000年の歴史の中で何度かあった

①平安時代から鎌倉時代への転換、朝廷政治から武家政治へ転換期(武家の台頭)

②日本中が戦場になった戦国時代、③江戸時代から明治への移行、武家政治から資本主義の欧米化

と帝国主義への転換、そして④帝国主義から敗戦によって民主主義への転換

今まさに、帝国主義の崩壊につながる戦争が始まろうとしている。

昭和20年の敗戦時点では結果的に日本は世界の大半を相手に戦争をした形になっているが

(日本に「駈け込み宣戦布告」した国は南米の小国まで数十カ国あるというから負ければ袋だたきに遭う

の典型的な例である)

大きく系統立てて考えれば、①満蒙、中国大陸からインドシナ半島にかけての陸戦

②太平洋での島伝いの攻防戦と海戦及び航空戦の2つに大別され、

言い換えれば陸軍の戦争と海軍の戦争、あるいは対中国.英国戦と対アメリカ戦とも言える。

経過を見て行くにはこうした二つの路線別に見る方がわかりやすい

すなわち陸軍はすでに大陸で対中国戦を昭和11年以前から始めていた、一方海軍は昭和16年12月8日に

ハワイ真珠湾攻撃、10日のマレ-沖の2方面で戦争を初めて開始したのだ、その差は5年以上ある。

日本の領土拡大の傾向が次第に中国からさらに南に下っていくと、アメリカは日本との貿易協定を破棄した

そして資源に乏しい我が国を締め付けるように鉄原材料などの輸出を止めた。。(ABCD包囲網)

さらに石油の輸出も完全に止めてしまった、日本はこうした資源を得るためにも南方の国や島を制圧する

必要性が出てきた

現在に置き換えれば、北朝鮮に対する経済制裁、またロシアに対する経済制裁に似ている。かって経済封鎖で

戦争を余儀なくされた我が国が、今は包囲網側に加わっているのは皮肉である。

宣戦布告前にハワイのアメリカ艦隊を爆撃したため、だまし討ちの奇襲という印象がアメリカ国民に広がり

それが対日戦争エネルギーに転換された、たしかに通告の担当者のもたつきでそのようになったらしい。

真珠湾攻撃隊の司令長官山本五十六は戊辰戦争で新政府軍と戦った、長岡藩士の息子として育った人物だ。

まだまだ軍隊では、明治の藩閥がものをいう時代で、いわゆる「賊軍」扱いの出身者がここまで上り詰めるとは

そうとうな人物であったと思われる。

今や、山本五十六がこの戦争に反対していたということは通説になっている、それは彼がアメリカの国力を

熟知していたからだそうだ、だから短期決戦で大勝利を収め、日露戦争のように第三国の仲介で勝利の印象の

うちに戦争を有利な条件でやめてしまおうという考えだったと言われている。

ところが真珠湾奇襲は大成功(軍事評論家には中途半端で小成功と評する人も少なからずいるが)したし

マレー沖の海戦でもイギリスの巨大戦艦と巡洋戦艦を撃沈という成果を上げ、空挺部隊が油田地帯に降下して

占領するなど大勝利が連日報道されると国民はすっかり「行け行けムード」一色になり、ここで戦争をやめれば、

日露戦争で勝った時、賠償金をもらえなかったといって起こった国民の暴動なんて比較にならないほどの事態が

起きただろう、とにかく獲れる領土は全部獲ってしまえくらいのお祭り騒ぎである。

昭和17年には今のベトナムやミャンマー(ビルマ)からオランダ軍やイギリス軍を追い払い占領したし、

インドネシアもオランダ軍を追い払って、オーストラリアさえ脅かす位置まで日本軍は進出した。

白人支配のアジア植民地を同じ東洋の日本人が解放したというので、当初は喜んで歓迎する国が多かったようだ。

フィリピンはアメリカが統治してマッカーサーが君臨していたが、ここも日本軍が上陸占領したのでマッカーサーは

撤退した、その時言い残したとされる「アイ シャル リターン」は流行語大賞が当時あれば、ランクインしていただろう。

こんな具合で陸軍も海軍も順調な滑り出しだったのだが、

翌昭和17年4月、突如東京など3都市がアメリカの爆撃を受けた、太平洋に航海してきた空母ホーネットからの16機

の爆撃機の奇襲だった、戦争大勝利と思っているのに東京が爆撃されたのだ、しかも16機は撃墜されること無く日本を

横断して中国大陸へと飛んで行ってしまった(大陸で大半は不時着や墜落したらしいが)

これは日本にとってショックだった、アメリカの戦艦は真珠湾で葬ったが航空母艦は一隻も損傷していない、その1隻に

仇討ちをされたのだった。

ようやく日本海軍はアメリカの残存空母を叩く必要を感じた、2ヶ月後の17年6月、ハワイに近い、太平洋中央部の

ミッドウェイ島に向け、日本軍は航空母艦4隻を中心に島の爆撃と米艦隊への攻撃を企てて出撃。

数的にも、熟練度でも勝る日本軍であったが、索敵の遅れと、作戦の混乱で空母4隻全てがアメリカ空軍によって撃沈

されてしまった、そのため攻撃後無事に帰還した日本軍の航空機も降りる空母が無いため、次々に自爆した、全機が

海の藻屑と消えた、この中にはベテランパイロットも多く含まれ、重大な人的損害を出した。

アメリカ軍の空母損失は1隻にとどまり、アメリカ軍の大勝利に終わった。

これが対米戦争の大きな転換期だった、日本海軍の勝利はわずか半年だけであとは戦局に影響がない小さな勝ちが

何回かあっただけで、どんどん押し戻されていく。

こうなると国の豊かさが勝負を左右する、アメリカは空母や戦艦、航空機の増産体制に入った、日本も補充のための

艦船や飛行機を作るが、その数は10分の1程度でどんどん差が開いていく。

開戦当初は日本軍のゼロ戦が軽い機体で、軽業のように飛びアメリカ機の後に回り込んでは撃墜していたが、人命

第一のアメリカ軍は次第に飛行機を大型化させて、機体の防御に力を入れた飛行機の増産を始めた、そのためゼロ戦

の弾が命中しても容易に墜落しなくなった、逆にエンジンも馬力が大きく、スピードでも上昇能力でも日本機を上回り、

ますますアメリカ軍機は空中戦でも優位に立つようになってきた、そこに数の差が加わって、日本機1機に米軍機2機で

攻撃するという戦法がとられると、手の討ちようが無くなってきた。

一方、航空機対軍艦の戦闘でもアメリカのレーダーや弾薬などの装備開発は日本を凌駕するようになった

日本の高角砲(高射砲)の弾は一定の高さで爆発して、その破片で敵機を傷つけ撃墜するが、アメリカのものは敵機を

熱感知して近くに来ると爆発するので命中精度がまったく違うようになった。

だから日本の艦船はアメリカの航空機に撃沈され、日本の航空機はアメリカの艦船の高角砲で打ち落とされるという

またレーダー射撃もアメリカの得意技になり、もはや日本の操縦技術、砲術、精神力で勝っても、機械の力で負けて

しまう時代に突入したのだった。

ミッドウェイで制海権を有利にしたアメリカはガダルカナル島に進駐している日本軍に対して上陸作戦を開始した。

                                                 つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑩

2016年11月20日 17時16分13秒 | 日本史

1914年日本は欧州で勃発した第一次世界大戦に参戦した

日本はイギリスと同盟していたため、イギリスの敵国、ドイツが中国にを持っていた青島(チンタオ)を

攻撃して、ここを占領した。

翌年、青島を占領したことに伴って中国に対し、青島の権益を今までドイツと結んでいたのと同じように

「日本にドイツの権益を譲ること」「大連、遼東半島の99年間租借延長」などと言ったような中国不利の21箇条

の条約締結を求めた。(対華21ケ条)

中国を代表する権力者、政治家で軍人の袁世凱はこれらの要求を拒んだが、結局押し切られてしまった

中国国民はこれに激怒し、中国国辱の日として制定していつまでもこの屈辱を忘れまいとした。

このあたりから現代に通じる中国の日本嫌いの原点があるのだろうか。 もちろん1910年に日本に飲み込まれた

朝鮮は尚更だろう。

第一次大戦で勝利者となった日本は、青島の権益と大連などの租借延長、さらに南洋諸島の統治権を得た

これにより日本の実質的な領土はニューギニアの手前まで広がり、南太平洋に大きくせり出した。

さらに中国の中央部にくさびを打ち込んだ形になった、これによって中国は日本の侵略、第二の朝鮮化を懸念

またアメリカが日本の太平洋進出に警戒感を持ち始めた、イギリスやロシアなどの列強も日本の軍事力の巨大化

を警戒しだした、これがアメリカとの戦争の伏線になったのかも知れない。

太平洋戦争まであと25年、中華民国との戦争、満州事変まであと15年、日本は戦争の道をひたすら突き進んでいる

1918年(大正7年)には社会主義革命に成功したソビエトに対して、アメリカ、イギリスなど欧米各国と共にシベリア

出兵に参加した、その兵数は他の同盟軍を圧倒する規模であった。

しかも各国軍が撤退したあとも、日本軍はソビエト(旧ロシア)の樺太、沿海州、そして満州国境から撤退しなかった

だがこの行為は国内の評判もよくなく、ソビエトからは恨みを買い、多数の戦死者も出てまったく良いところがない

戦争であった。

 

5年後の大正12年の正午、突如として東京を中心とした関東一帯が激しい地震に見舞われた

一時は治まったかに見えた地震だったが、その後、各地から火災が発生、瞬く間に東京は火の海になった

特にひどいのは隅田川の両岸一帯で浅草、両国、深川、日本橋などで電車は脱線、浅草名物のビル「浅草十二階」が

真っ二つに崩れ落ちるなど建物の被害もひどかった。

隅田川にかかる橋も避難者もろとも焼け落ちて、隅田川は死体で溢れた、特に悲惨だったのは本所被服省跡地だった

この川沿いの広場が安全と多くの人が避難してきた、その数数万人、ところがここに恐ろしい火砕の渦巻きが発生して

焼き尽くした、ここで焼死した人は10万人以上と言われる死亡者の約半数5万人近い人数だと言うことだ、横浜でも

4万人が犠牲になったという。

今は、この地に震災慰霊堂ができて、昭和20年の東京大空襲の犠牲者と共に祀られている。

翌々年病弱だった大正天皇が崩御されて、時代は激動の昭和に移る

昭和は関東大震災の影響などがあって銀行の不良債権が増加して、国内は金融大恐慌で始まった

続いてアメリカの証券業界の悪化などで世界恐慌が始まり、世界中が深刻な不景気に襲われた

東北では冷害が毎年のようにおこり小作人を苦しめました、借金がかさみ貧しさに打つ手が無く

娘を都会の芸者置屋などに売る小作農も少なくなかったようです、この時代を描いた高倉健主演の「動乱」

では吉永小百合さんがそういう娘を演じました。

日本ではこうした経済状況下で多くの人が仕事からあぶれ出ました、

そうした中で昭和6年には満州で日本管理の満州鉄道が爆破される事件が起きました、満州にある日本軍

(関東軍)は中国国民党軍の仕業として攻撃しました。 これにより関東軍は満州を軍事占領しました

この鉄道爆破事件は後年、日本政府も知らない関東軍独断の陰謀であることが明らかになりました。

翌年、日本は占領した満州を独立国として承認した、満州帝国として清王朝最後の皇帝だった溥儀が

満州国の皇帝となった、あきらかに日本の傀儡であった。

こののち、日本の大不況で苦しむ人々を満州に渡らせて開墾する方策がとられ、満蒙開拓団が募集された

およそ27万人が開拓団として渡った。

満州帝国を承認したのは日本ただ一国で、国際連盟加入国のことごとくが日本の独断横暴と避難した。

国連は日本に対して満州からの撤退を決議したが、それを不満とする日本は1933年(昭和8年)国際連盟から

脱退した。

昭和11年(1936年)には2.26事件が起きた、こうした農村の疲弊が腐敗した政治が原因である

という思いもこの事件の一因である、そのため総理大臣を始め大臣を襲撃、総理は襲撃を免れたが、大蔵大臣

内大臣などが殺害された、反乱を主導したのは青年将校でおよそ1500人の兵が反乱軍となって鎮圧された。

首謀者の青年将校等は銃殺刑に処せられた。

 

昭和12年には中国北京あたりで日中両軍が戦闘を始めて、日中戦争が本格的に開始された

この頃まで中国国内では共産党軍と国民党軍が内戦状態だったが、そこに日本軍が攻め込んでくると言う

複雑な戦争状態であった、しかし国民党軍と共産軍は同じ中国人としてまずは日本軍を国内から追い払う

と言うことで一致して休戦、共同で日本軍に対峙することを決めた(国共合作)

これにより日本軍は2方面の中国兵と戦うことになったが、直接戦った相手は国民党軍が多かったらしい。

日本は国内の恐慌不景気、国際面での孤立、中国との戦争、ロシアの脅威といった多くの問題を抱えながら

孤独な戦争に突き進んでいった、戦争は軍によって主導され政治家の力では止められないところまで

来ていた。                                 つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑨ 

2016年11月19日 18時39分49秒 | 日本史

1900年、20世紀の始まりは清国の動乱で始まった

もはや日本史を語るには東アジア情勢を知らずして語ることはできない

それはもっと大きな意味では欧州の情勢を知らなければ東アジアの歴史を語ることができない

もはや東南アジアは世界の動きに組み込まれてしまったのだ、60年前までの鎖国平和は夢

 

西太后、清国9代皇帝の妃で、10代皇帝同治帝の母であったが、同治帝が若くして亡くなり

甥が11代光緒帝となった、しかし政治の実権は西太后が握り、朝廷内の女王として他を寄せ付けぬ

威厳と権力を備えていた。

しかし光緒帝が経験をつんでいくにつれて対立することが多くなった、西欧化を目指す皇帝に対し

西太后は西欧諸国排除の保守的思想が高まっていった、だから義和団の変は西太后の意志と

一致、ついに列強に宣戦布告して、その中心的役割を果たすに至った。

北京にいた外国人は公使館などに立てこもって抵抗した、押し寄せる義和団は20万ともいわれる

ついに欧米日の8カ国連合軍が順次北京に攻め上ってきた、近いと言うこともあるが日本軍と

ロシア軍が圧倒的に多かったという、1900年ついに北京で戦闘が始まる。

数で勝る清国軍、義和団であったが近代装備の連合軍の前には烏合の衆でしかなく敗戦敗戦

ついに主導者の西太后と光緒帝は西安に逃げた。

この戦争で北京城の宝物は攻め込んだ各国によってかなりの数が強奪された。

日本はこの戦いに参加したことでますます存在感が増していった。

 

同じ頃、朝鮮でも平穏な日々はなかった、李氏朝鮮26代王、高宗の父、大院君イ.ハウンは

高宗の妃、閔妃と勝ったり負けたりの朝廷内抗争を繰り広げていた

政治体制は相変わらず保守的であったが、閔妃はロシアに傾いていた、大院君はそれに対抗して

真意はともかく日本よりであった。 そんな事情で南下するロシアと朝鮮に干渉する日本はついに

1904年激突した、日本が世界最強の陸軍を持つロシアとの戦争に踏み切った一つには、日英同盟が

結ばれたことが考えられる。

世界の一流国がバックアップすることは日本にとってとても力強いことだった、イギリスにしても欧州での

強国同士の争いの中、ロシアの尻尾を日本に噛みついてもらって、頭を日本に向けてもらえば欧州での

ロシアの脅威が減る。

海軍の黄海海戦、日本海海戦、陸軍の203高地など旅順の攻撃戦、奉天会戦などを2年にわたって

戦った、日本海海戦が圧勝だった以外は、いずれも互角あるいは日本軍の損害が大きかった、しかし

結果は常に日本の勝利でロシア軍は満州に向けて撤退していった、さらにロシア国内では労働者階級の

不穏な動きもあって、戦争に集中できない事情もあった。

すでに予備兵力も戦争資金も弾薬も底をついていた日本にとって、ロシアのやる気が無い今が手の打ち所

だった、アメリカの仲裁で日露は戦争終了の条約を締結した。

日本は樺太の半分を得た、ほかに満州経営の権利と、大韓帝国(朝鮮)での主導権を得た、しかし国家資金

が底をついていたがロシアからは1円の賠償金もとることができなかった、もし交渉が決裂して戦争継続と

なれば日本の敗戦は明らかだからだ、しかし事情を知らない国民の中には政府をののしって暴動を起こす

ものもいた。

ともあれ欧米から黄色いサルと蔑まされていた黄色人種の日本人が、世界最強のロシアに勝ったことは

十両力士が横綱に勝ったほどの衝撃だったろう、これによって有色人種のリーダーたちが影響された

清国では1911年孫文等によって辛亥革命が起きて、異民族の満州人が造った清王朝は崩壊して、

中国人による共和制政府「中華民国」が誕生した、そして孫文が大統領に就任した。

 

日本と朝鮮の関係も時間を戻してみよう、大院君イ.ハウンが、王妃閔妃と激しい対立をしていたことは

冒頭で書いたが、日本軍は朝鮮に介入するため大院君を利用した、閔妃を別にすれば朝鮮に影響力を

もつ最高の人物である、この人物を巻き込んで日朝の兵士軍人、大陸浪人と呼ばれる人たち、役人、

一部民間人が王宮に乱入して、閔妃を殺害した、1895年のことである。

この事件は日本政府の方針や命令でなく、朝鮮にいた彼らが独断で断行したことと言われている。

日本でこの事件の裁判が行われたが、殺害の下手人の特定は今も不明だそうだ。

 

閔妃が亡くなったことで、もはや日本に不利な朝鮮の政治家は皆無になった

ロシアに戦争で勝った事により、欧米の日本に対する評価はあがり、今や東の果ての劣等民族

という認識から完全に脱却できた、それにより東アジアでの日本の地位、既得権などに対して

異議を唱える欧米列強はなくなり、朝鮮、満州では日本が行うことはほぼ認められるようになった。

そのため、朝鮮に対して朝鮮王朝ではいつまでも清国の影響下のイメージがあるため、独立国を

印象づけるために国名を、大韓帝国として朝鮮王高宗は皇帝に就任した。

長い間、清国など中国の属国として皇帝を名乗ることが許されず、皇帝の臣下を表す「王」の名乗り

だった朝鮮、それが日本が清国を破ったことで、独立国に格上げされ、中国皇帝と同等になったのだ

しかしそれは日本が推し進めた政策であった、朝鮮の自力ではなく、大韓帝国の皇帝も所詮は

日本の傀儡でしかなかった。 こんな事から始まり1年ごとに大韓に対する日本の締め付けが厳しく

なっていった、治安も政治も軍事も取り上げられて、日本に吸収されていった、大韓国民にも祖国を憂う

志士はいる、僅かながらも日本に抵抗する者が入り、その代表的な事件が朝鮮人安重根による伊藤博文

暗殺であった、伊藤博文は日本初の総理大臣、そして朝鮮総督も務めた、長州藩の下士として育ち

吉田松蔭の松下村塾で学び、明治維新の立役者の一人となった、かれもまた日本の志士だった

伊藤は朝鮮併合に消極的だったという、その彼を殺害したことで併合が進んだという説もある

そして1910年についに大韓帝国は世界から消滅した、日本に併合されたのだ。

こうして東アジアの地図は20年前と比べるとずいぶん変わってしまった、日本は台湾、朝鮮、満州、樺太

まで領土に加えていた、朝鮮は地図から消え、大陸には清国は無く、代わりに中華民国が現れた。

東アジアの激動は新たな時代に入った。                     つづく

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑧

2016年11月18日 20時28分57秒 | 日本史

薩摩武士団の反乱「西南戦争」が終わって8年後、1885年(明治18年)日本初代の

総理大臣が誕生した、長州出身の伊藤博文である。

薩摩の代表者であり、新政府の担い手だった2代巨頭、西郷と大久保、西郷は「西南戦争」で大久保が

送った新政府軍によって明治10年に自害、その大久保も翌年、襲撃されて死んだ。

薩長の政治勢力は長州にいささか傾いたようだ。

1885年ともなると、もう新政権も要領を得て、次々に新しい日本ができあがっていく、ここまでくると

江戸時代のような日本国内だけですむ話ではなく、否が応でも欧米との競争が強いられる。

世界とまでは行かないがステージは東アジア、この中で日本のスタンスがどうなるのか、その努力が必要

となる、東アジアレベルで見ないと、日本の歴史が語れないほど時代は進んだ。

日本に比べ、欧米化ができなかった清国と朝鮮国は欧米諸国の格好の餌食になった。

満州人が中国人の国家「明国」を滅ぼして中原に侵略国家「清国」を造って250年近い、この頃には

国内各地で中国人による反乱が起きている、そして北方の強大なロシア帝国が清国の北方の領土を

侵略している、一方南方の領土インドシナ半島の清国の属国もフランスなどの欧州の強国に横取りされた

イギリスは既にアヘン戦争で香港を始め駐留している。

弱まった清国は「眠れる獅子」と言われながら実は満身創痍の病気の獅子であった、それでも日本より強力な

艦隊をもっていて強そうな外面は保っていたのである。

 

その清国の保護国である朝鮮王朝は建国以来500年になろうとしていた、こちらもすでに王朝の力は衰え

王様一族とヤンバンと呼ばれる貴族政治家だけが栄華をむさぼっていた、そのためこの国でも民衆が蜂起し

また若手の革新的なヤンバン青年は朝鮮も日本のように欧米化しなくてはという危機感を持って運動した

しかし政権からみればそれは反逆に等しく、弾圧を加えた、そのため彼らは日本に亡命したり戻ったりして活動を

続けた、しかし主導者のキムオッキンは暗殺され、他の者も殺されたり投獄されて、朝鮮の近代化はならなかった

こんな情勢の中で、朝鮮半島は火種の元になってきた、朝鮮国内で東学党の乱がおこると、鎮圧のため清国に

軍隊の派遣を求めた、清国軍が朝鮮に渡ると、日本は「清国と日本は互いに朝鮮への派兵はしない」という

天津条約の裏を突き、日本も朝鮮に軍隊を送った、結局これが開戦の引き金となった、1894年日清戦争が朝鮮で

勃発、日本は強く、瞬く間に袁世凱率いる清国軍を撃破して進軍を続けた。

また海上では大型軍艦をもつ清国北洋艦隊に、東郷平八郎率いる帝国海軍が攻撃、巨大戦艦2隻撃沈を含め

ほぼパーフェクトの勝利を収めた、翌年にはわずか8ヶ月の戦闘で清国は日本に降伏した。

李鴻章との降伏条件を決めた下関条約を締結、日本は国家予算の数倍の賠償金を受け取ったほか、台湾、遼東半島

などの割譲、朝鮮を清国は干渉をやめて独立国とすることなどを約束させた。

清国の敗北で、清国の威厳は地に落ち、欧米列強はますます清国の国土を蹂躙するようになった。

朝鮮は日本のもとで国内政治をするような形になり、宗主国が清国から日本に移っただけであった。

しかしこの条約にフランス、ドイツ、ロシアの三国からクレームがついた(三国干渉)

「清国に遼東半島を返還しろ」という高飛車なものだった、日本にはこの三国を相手に押し切る力はまだまだない

泣く泣く、返還したのだった、それをロシアはちゃっかりと清国から借り受けて挑戦経営の足がかりにしようとした。

1900年、北京で欧米列強の進駐に対して清国人の武力暴動が起こった(義和団の乱)バックでは西太后が糸を

引いているらしい。                    つづく

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑦

2016年11月17日 17時44分50秒 | 日本史

越後人は一般的におっとりした旦那さん風で、争いを好まず、人見知りでお人好しだ

越後長岡藩家老、河井継之助は話せばわかると思って、官軍の本営を訪ねたのだろう

そして「長岡藩は官軍にも幕府軍にもどちらにもつかず中立でいますから、わが藩にはかまわず

お通りください」とやったのだろう。

ところが勝ちに乗じた官軍参謀は高飛車に「日和見は許さぬ、我らに下らねば攻め滅ぼすだけだ」と

脅しをかけてきた、頑固でかたくなでへそを曲げるとどうにもならないのも越後人だ。

この言葉には頭にきてしまった、「ならば我らは官軍相手に一戦つかまつる」だ

そうなれば官軍から見れば長岡は会津賊軍の味方というふうに決めてしまう、藩は小さいが

日本に数台しかない最新鋭のガトリング砲を長岡藩は持っている、いわば機関銃だ

官軍は攻めあぐねたけれど、結局長岡城は落城して、藩兵は城外に引いた

しかし、これで終わらなかった、なんと長岡藩兵は再び、長岡城の官軍を急襲して城を取り戻した

官軍には思いがけぬ強敵であった、越後人の粘り強さだ、だが抵抗もそれまでで再度、落城

河井は重傷を負って、家臣に運ばれて会津を目指して落ちていったが、西会津の片田舎で落命した

 

いよいよ官軍の矛先は会津藩ただ一つ、津川口、白河口、そして磐城口からは二本松城に攻め寄せた

二本松城はあっけなく落城した、しかし会津白虎隊と同様に二本松少年隊の悲劇は今も語り継がれている

こうなると頼りの仙台藩や米沢藩までも官軍に降伏してしまった、会津は孤立無援となった

会津には会津藩兵のほかにも大鳥圭介率いる旧幕軍や土方歳三率いる新撰組の残党なども加わっていた

会津戦争は会津若松城に籠城約半年、10倍近い官軍を相手に戦い抜いた、籠城ばかりでなく

城外でも会津兵や旧幕府軍の兵はよく戦った、また上級武士の妻や娘も長刀をもって戦った

とくに少年たちで編成された白虎隊は城が落城したと思い込み、1人の蘇生以外全員が自害した悲劇は

会津戦争の悲惨な出来事として語り継がれている。

しかし会津城外に取り残された藩兵の家族も悲惨であった、男たちは無残に殺され、女性は陵辱され殺害された

そんな恥辱は受けまいと思う者は幼児から老婆まで全て自害した、また生き残った人たちは山中深く

逃げ惑った。 長州藩兵の暴虐はとくにすさまじく会津人を人と思わぬ行為を重ねた、その恨みは平成の

時代まで会津人の一部に残ってるという。

明治元年秋、ついに落城、城は砲撃で穴だらけになり天守閣は傾いた。 当然藩主、松平容保は死刑になるものと

考えられたが、官軍内部からの助命嘆願により罪一等を減じられ処刑を免れた。

会津藩兵と家族はその後、青森のへんぴな地域に集団移転させられ、悲惨な苦難生活が始まる

また数日後には奥羽にあって唯一勝ち戦を続けていた山形庄内藩も降伏した、これで本州での戦闘は全て終了

した、しかし未だ榎本武揚率いる幕府海軍が健在であった、しかし宮古湾の海戦で榎本艦隊は敗北を喫し北上

ついに北海道に渡り、函館五稜郭を占領して土方歳三等と立てこもって抵抗を続けた。

北海道で旧幕府新政府をつくって、独立国とするつもりだったともいう説がある。

しかし明治2年5月7ヶ月の戦闘の末、旧幕軍は降伏して、戊辰戦争は終結した。

 

このあと日本の制度は武家社会から欧米風の社会に一気に大転換する、封建制度の終結

一番の変化は天皇陛下のお住まいである皇居を京都から東京に遷都したことである

大昔は畿内で何度か遷都はあったが、幕府政治の地とは言え当時は田舎と見られた江戸に遷都

するのは大きな決断であった。

そして大名や武士という職業がなくなって、役所と役人に代わった、大名が統治していた藩が県に

名前が変わり、藩主の多くは県知事になった。(廃藩置県)

ちょんまげを切り落とし西洋風の髪型が奨励され、武士の命とされた刀は帯刀を禁じられた

やがて県知事を務めた大名等は正確には近代的な政治力は無く、次第に東京政府(維新革命を

実行した大久保利通、桂小五郎、西郷隆盛、伊藤博文など薩長中心の中下級武士がつくった

中央集権の明治政府)が派遣する役人が(維新の主力の藩出身者)県知事(県令)に治まっていった

大名には貴族としての地位が与えられて、閑で豊かな生活のみが保証された、もちろんかっての家臣

であった武士階級は廃止され、みな平民として全国に散っていった、帰農する者、明治政府の兵や役人

として就業する者も多かった。

 

明治政府は世界の一員として認められた、先進諸国との条約を結び欧米化は進んだ

建物も欧米風のものが建ち並び、鉄道が敷かれ、電車や自動車が都会を走った。

欧米のまねをして、欧米化することが日本のこれからの発展につながる近道と考えたのであろう

鹿鳴館という欧米官吏との社交場をもうけたダンスパーティなどを開いた。

こうした上級官吏の華やかな生活の陰に、失業したかっての武士階級の人々は武士の特権を奪われ

平民となったが、平民の暮らしになじめぬ者も多い、そうした者たちの間に不平不満が溜まった

また維新を成し遂げた指導者でも、思っていた社会と違うと感じる者もでてきた、特に武家社会が

存続して大名が政治を主導する新政府ができると思っていた者もいたようだ、しかし大久保等が造った

新政権はまったく異なるあたらしい欧米風社会であった。

そのため明治一桁の年代は相次いで不平武士団の反乱が日本各地で起きた。

明治7年、新政府の中心にいた元参議、江藤新平を中心におこった「佐賀の乱」

明治9年には福岡県、熊本県でも相次いで不平士族が反乱を起こし、更に新政府の母体

山口県の萩で、維新革命の大功労者で元参議、前原一誠が首領となって「萩の乱」をおこした

いずれも鎮圧され、江藤も前原も処刑された、新政府の大臣級が相次いでおこした反乱は

失業した武士たちの行き場のない失望のあらわれであろう、前原にせよ江藤にせよそれぞれ

新政府内で、征韓論など方針の対立で敗れて下野した参議が不平士族と共におこしたのである

そして翌年には、不平士族の反乱では最大の事件が鹿児島で起こった。 薩摩、長州は明治維新を

リードした二大藩であるが、それぞれの膝元で相次いで反乱がおこったのは面目に関わる

この明治10年の鹿児島の反乱は後に「西南戦争」と呼ばれたが、その首領は官軍を率いて江戸入城した

大元帥西郷隆盛だった。 西郷は参議、陸軍大将も勤めたが大久保利通と意見が合わず薩摩に下野して

いたのだが、薩摩の不平士族に嘆願されてついに首領になったのだ。

薩摩を代表する西郷と大久保が対決すると言うことは、薩摩が二分したに等しい、新政府がこれに手こずれば

できたばかりの足腰が弱い政府はいつ崩壊するかわからない危機である、なんとしてでも早急にこれを

鎮圧しなければならなかった。

結局、九州全域を戦場とした西南戦争は西郷の死によって約7ヶ月間の大戦争は終わった、両軍併せて10万の

大戦争だった、この戦争の特徴は少数派(西郷軍)の籠城戦ではなく、各地の不平士族を併せながらの積極的な

攻撃戦だったこと、西郷軍が乃木希典守る熊本城を攻めたのは攻守逆転の感さえある。

西郷軍は数の劣勢はあったもののほぼ互角に戦ったのであった、これによって新政府は軍の強化の必要性を

感じ、富国強兵に取り組んだ、それにより東南アジア最強の軍隊を持つに至った。

                                                     つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑥

2016年11月16日 09時00分42秒 | 日本史

1868年1月末、鳥羽伏見の戦いで勝って勢いを得た薩長を中心とする軍は

天皇の軍隊の証、錦の御旗を先頭に徳川慶喜とその家臣団を討伐するため軍を関東に向けた

錦の御旗を持つ軍は「官軍」であり、それに手向かう者は「賊軍」となる

先日まで官軍として賊軍の長州攻めをしていた徳川家が、今は立場逆転の賊軍となってしまった

これも孝明天皇が崩御され、若い明治天皇が長州寄りの公家、岩倉具視卿らに取り込まれたからだ

官軍の先頭に立つ司令官は西郷隆盛、そしてもう一人公家の総大将は婚約者皇女和宮を徳川家に

横取りされて悔し涙を流した、有栖川宮であった。

官軍は北陸道、東海道などに軍を分けて北上していく、途中にはさしたる抵抗をする藩はない

特筆すべきは、徳川家康の四天王と言われた伊井家(井伊直弼が藩主だった藩)は、徳川家最前線の

守りを任されて、滋賀の彦根に配されたのだが、それが徳川方で真っ先に官軍に寝返ったのだ。

飼い犬に手をかまれるとはまさにこれだ、しかも途中、御三家の尾張藩などの大藩までも官軍に恭順

こうした道中で行き当たる諸大名は恭順を示し、官軍に兵を参加させたり、軍需物資や兵糧を出したり

また小さな藩は兵を出さず軍資金を出すなどして保身に勤めた。

そのため官軍はどんどんふくれあがっていく、すでに敵役の徳川慶喜は自ら謹慎して無抵抗の意志を表明

これでは佐幕派の藩でも、徳川家のためにあえて焼け石に水の戦はしません。

唯一抵抗があったのは東山道軍に対する、甲州勝山での新撰組など幕府残党軍、ここで鬼と言われた

新撰組局長、近藤勇は捕縛され、さらし首になります、一方副長の土方歳三は戦いながら函館まで落ち延び

そこで戦死しました。

官軍は徳川慶喜が謹慎して恭順の意を示しているものの、それに反発して徹底抗戦を主張している旧幕府軍

が相当数いて、再び江戸で大戦争が起こることを予想していた、一方旧幕府軍でも官軍が江戸に攻め入ったら

江戸に火をつけて抗戦しようという作戦もあったらしい。

いずれにしろ世界有数の大都市江戸で江悲惨な戦火がおこれば、官軍が勝ったにしろ日本という統一国家単位で

考えれば明らかに国力は低下する、そうすれば瞬く間に欧米列強に清国同様、植民地化されてしまう。

そのように考えたのが、徳川家の家臣「勝海舟」であった、この人はこの時代に合って滅法、先見の明がある人で

日本という世界の中の国家のために徳川家は消滅して良いという世界感を早くから持っていた。

江戸での大戦は愚の骨頂、欧米という鳶に日本という油揚げがさらわれてしまうと、征討軍の大参謀西郷隆盛に

直談判、西郷も納得して江戸城攻撃をやめた。ここに江戸城は無血開城され、徳川慶喜の命は保証された

150年前の日本人の賢さが表れているエピソードだ。

 

徳川家を叩きつぶした官軍であったが、どうしても気が済まないことが一つ残っている

それは官軍と言うより、薩摩藩、長州藩がもつ会津藩に対する私怨である。

京の都、禁門の変では会津は薩摩と共に長州をさんざんに痛めつけた、久坂玄瑞など生きていれば日本の

指導者として活躍した志士が多数戦死した、また池田屋事件でも志士が会津藩おかかえの新撰組に多数惨殺

されている、その恨みを晴らすのは今だ。

すでに会津藩も官軍に恭順の意を示していた、しかし会津だけは恭順は認めない、徹底的に攻撃して会津藩主

松平容保の首を取ると息巻く。

これを聞いた越後奥羽の諸藩30藩ほどが仙台藩を中心として、「奥羽越列藩同盟」を結成して官軍に対抗する

意志を示しながら、会津藩の恭順を認める嘆願を官軍に提出した、しかしそれも否認されてしまった。

 

北陸道を戦闘もなく順調に会津に向けて進んでいた北陸道軍は、越後で手痛い戦闘に巻き込まれた

越後長岡藩との戦闘が起こったのだ、長岡藩を率いるのは家老の河井継之助、長岡藩は徳川譜代大名牧野家

小さな取るに足らない数万石の大名であるが・・・・・        つづく

 

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい⑤

2016年11月15日 20時03分02秒 | 日本史

攘夷に対して開国 、勤王(尊皇)に対して佐幕 こうした図式だが尊皇攘夷もあれば

佐幕攘夷の人もいただろうし、佐幕の開国、勤王の開国派もいただろう、とにかく初めての事で

何が正しいのか、何が国のためなのか、自分の為なのか、まさに動乱の幕末

1862年に起きた京の寺田屋事件では藩主の命を受けた薩摩武士が、友でも有り仲間でもある

薩摩脱藩浪士を襲撃して殺害している、おそらくためらいもあっただろう、しかし主命第一の時代

同じ1862年には孝明天皇の妹である皇女和宮が、嫁入りが決まっていた有栖川の宮から引き離され

政略結婚で14代将軍徳川家茂に降嫁するという事件が起きた。

これは国難に際し、朝廷と幕府が一体となってあたろうという現れでもあったのかも知れない、しかし

横取りされた有栖川宮の無念さは計り知れない

 

さて孝明天皇の覚えめでたき長州であったが、公武合体に反対して過激な行動はますます激しくなった

さすがの孝明天皇も危うく思われたのか、辟易したのか長州を京から離れるように命じられた

この時、三条実美など急進派の公家7名も追放されて長州へ落ちた。

しかし長州藩の攘夷の行動はとどまることを知らず、ついに失地回復のため京都御所へ武力を持って

攻め入った、御所を守る主力の会津藩兵と戦闘になり、長州有利であった、ところが西郷隆盛率いる

薩摩藩兵が会津救援に現れると形勢は逆転、長州は敗れて退却した。(禁門の変)

以来、長州は薩摩に激しい恨みの念を抱くようになった。

この戦で御所に発砲した長州藩は朝敵とされ、幕府軍を中心とした第一次長州征伐が敢行された

長州藩は家老3名を禁門の変の責任者として自決させて謝罪、ようやく許しを得た。

同じ1864年はいよいよ動乱に拍車がかかり、京では池田屋で勤王浪士が新撰組に襲撃されて

多くの命が奪われた、また水戸では勤王派の天狗党が内紛の末、集団脱走して京にいる若殿、一橋慶喜を

頼りに、関東周辺の小藩と戦いながら中山道を進んだが、思いとは逆に慶喜が率いる兵、親戚の尾張藩の

兵に追い詰められて山を越えて福井に落ち延び、そこで自首したが大半が罪人として斬首された。

「水戸天狗党の変」である。

 

2年後、ふたたび長州藩に不穏な動きがの情報が入った、幕府は「許せん!」と激怒、長州周辺の諸大名など

30藩以上の藩に動員をかけその数は15万とも言われている、一方30万石の長州藩は最大でも1万に遠く及ばない

しかし長州藩は百姓町人を集めて日頃より厳しい訓練をした奇兵隊なる軍隊をもち、高杉晋作という名参謀をはじめ

傑出した将校が多く、烏合の衆の討伐軍などには負けないという自信がある、しかもこの時すでに土佐浪士坂本龍馬

の仲立ちで宿敵薩摩とも仲直りし、さらに同盟を結んでいた、そのため武器弾薬を秘密裏に薩摩から運び入れていた

最新鋭の大砲や鉄砲は幕府の年代物とは比べものにならない。

そうして開戦、10倍以上の敵を圧倒して勝利したのは長州であった、しかも徳川将軍家茂が戦闘のさなか大坂城で

20歳ほどの若さで急死してしまったのだ、これで幕府軍は浮き足立ち霧散して敗走に移った。

徳川幕府崩壊の始まりだった。

 

水戸徳川家で生まれ、一橋家に入った徳川(一橋)慶喜が家茂の後を継いで15代将軍となった

父は尊皇攘夷がちがちの徳川斉昭である、これに前後して孝明天皇が崩御された

12歳の睦仁親王が第122代の天皇になられた、後の明治天皇である、まだ少年の天皇にとって

過酷な動乱の時代であった、孝明天皇の死に疑念があるという説も当然な何が起こっても不思議のない

時代である。

薩摩、長州に対して倒幕の勅令が発せられた、ここで一気に徳川幕府を叩きつぶそうという薩長の

思惑であろう、しかし将軍慶喜もしたたかだ、滅ぼされる前に朝廷に政権の返上を申し出た

(大政奉還)、これで政権を武力で奪い取る大義がなくなってしまった、薩長の思惑が外れた

さらに、今後朝廷を中心に政治を行うにも250年間徳川家ブレーンが担ってきて、それ以外の諸藩や

朝廷単独でこの難局を乗り切るのは不可能である、そんなわけで政権を返上した徳川慶喜にも新政権の

一翼を担ってもらおうという意見さえ朝廷側からでる始末、これでは薩長の出る幕がなくなる

かといって露骨に薩長に政権を任せろとはいえない、それでは徳川が薩長に代わるだけで朝廷に何の

変化もないわけだ、当然他の大名家からクレームがつく、しかも政権奪取しようと考えているのは薩長でも

戦争指揮官クラスの中級下級出身の武士、薩摩西郷、大久保や、長州の桂はともかく伊藤博文などなのだから

そんなさなか、坂本龍馬が同僚の中岡慎太郎ともに暗殺された、犯人は今もはっきりしていない。

 

なんとか武力によって幕府の息の根を止めようと考えて薩長が起こしたのが「鳥羽伏見の戦い」である

どうしても慶喜を罪人に追い込む必要がある、そうでなければ大政奉還をしたのに再び戦争する意味が

わからなくなってしまう。

そして薩長の思い通りに幕府軍は敗れ、慶喜は部下を置いたまま大坂城から江戸に逃れた

                                   つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい④

2016年11月15日 14時33分27秒 | 日本史

250年の太平の眠りに就いていた日本、しかしそれは日本だけでなかった

清国(中国)も朝鮮も欧米諸国の侵入や、近隣国からの圧迫を受けずに長い平和が

続いていた。 ところがこの3国に突然、欧米の先進国からの圧力がかかってきたのだ

その機械文明、物質文明、質も量も到底及ぶことのない圧倒的な圧力である

軍艦には大砲がずらりと並び、その威力の前には各国の沿岸警備の砲などオモチャに等しい

徳川幕府の官僚たちもその辺りはよくわかっている

東アジアの大国「清国」がイギリスの狡猾な手段によってアヘン戦争で敗れ、多額の賠償を

払わされた挙げ句、国土の一部を自由に使う不平等条約の締結、さらにイギリスからのアヘンにより

国内にはアヘン中毒者が蔓延していた、欧米諸国に対し、ほとんど主権を失った状態である

そんなおよそ20年前の出来事は日本の官僚にも伝わっていたはずだ

「これはたいへんなことになった、下手に逆らえば清国の二の舞だ」という考えがおきただろう

幕府はアメリカの強引な開国要望と、天皇の異人排除命令の板挟みでピンチを迎えていた

江戸時代は徳川家康によって、この国の最高指導者は徳川家ただ一つになったが、今より

地方分権が徹底していた。 今風に言えば各県毎に知事ならぬ大名がいて、地方政治と収税を

藩独自に行っていた、しかもそれぞれが自藩の為の家臣団を持ち、それは藩の政治、行政、司法、軍事

を行っていた。  だから藩の兵は、徳川家が持つ国家の兵ではなく外国からの戦闘行為がおこれば

徳川幕府の命令で、各藩毎に兵を率いて集合するという体制だ、戦う場合でも藩単位で戦うことになる

これは日本の弱みでも有り、強みでもある、幕末には徳川幕府の力が弱まり、力のある藩や開けた藩は

独自の経済力を発展させて力を蓄えていた。 特に島津氏など九州の諸藩がそうであった。

この頃、国政に影響を持つ大名は薩摩鹿児島の島津、関ヶ原では石田に味方して敗戦、本来は領地没収

処刑にもなるところが日本の最果てという位置関係と、優れた外交力でピンチを脱した雄藩

長州山口県の毛利、関ヶ原でこれも石田に味方して120万石の領土を30万石に減らされ、徳川にいつか

一矢報いるを合い言葉に貧苦に耐えてきた雄藩、殿様は家臣に藩運営を寛大に任せていたので優秀な

家臣は存分に活躍できる土壌ができていた。

土佐高知県の山内、関ヶ原で徳川に味方してたいした活躍もしなかったが当時の殿様山内一豊の妻の

機転で土佐一国の主となる大栄転で徳川に恩義を感じている藩、坂本龍馬など旧長宗我部に使えた地侍には

ひどい扱いをしていた身分差別の藩。

越前福井県の松平、徳川の親藩の中では開明的な殿様、水戸茨城県の徳川家、ご存じ御三家の一つ天皇を

尊び、夷敵を排除する尊皇攘夷のがちがち、だが内部では幕府擁護派や開国派も勢力を持ち内紛が絶えない

そして日本の主権、孝明天皇と公家

ざっとこの辺りが日本の政治トップを形成していた。

 

幕府大老彦根藩の井伊直弼は日米関係について、水戸の殿様、徳川斉昭などの主戦論もある中、現状ではとても

アメリカには太刀打ちできないと判断し、国防力がレベルに達するまではとりあえず開国を受け入れようと意見した

もちろん斉昭は猛烈に抗議したが賛成意見多数で開国に押し切った。

これを不服とする勢力が全国にあふれ出た、すると直弼はこれらを厳しく取締り、逮捕、監禁、処刑の大弾圧を加えた

1858年から1859年のことで安政の大獄という。

これにより御三家徳川斉昭をはじめ松平春嶽など主立った攘夷派の大名までも蟄居謹慎に処された、また明治政府の

中心となった伊藤博文、山県有朋、志半ばで倒れた久坂玄瑞、高杉晋作などを育てた吉田松陰も殺害されて、井伊直弼は

尊攘派の恨みを買った。

そして1860年3月に江戸城桜田門外で水戸浪士を中心とする武士に襲われて殺害された。

250年間徳川家は天皇家より政治をリードしてきたが、幕末にいたり俄然、孝明天皇の威厳と影響力が

クローズアップされてきた、それは尊皇攘夷思想が大名の間にしみ出てきたからだ。

天皇に従うか、徳川幕府に従うか幕末の大名たちに重くのしかかってきた課題だ、

こうした日本の未曾有の大危機にあって、藩を上げて対処する積極的な大名もあれば、日和見的な大名もある

全国に250ほどもある大名家は幕府の弱体化でそれぞれの思惑で生き延びていかねばならぬ。

日和見的な藩や、極端な思想の殿様を持つ藩では、それについていけない危機感を持った下級武士が相次いで

藩を抜け出た(脱藩)、それが坂本龍馬などである。

一方、長州藩のように殿様に全面的に活動を許されているところでは、藩ぐるみでこの危難に立ち向かおうとしていた

彼らは全国から京に集結し、勤王党という尊皇攘夷、反幕府という立場で徳川政権の転覆を画策した

一方、徳川幕府はこの危機を打ち破るべく、親藩の福島県会津松平藩を京の警護に当たらせた、会津藩は新撰組を使い

勤王党の浪士を弾圧した、一方勤王党も幕府方に対して反撃のテロを行った、京の都はふたたび戦乱に巻き込まれる

 

開国になって、イギリス人などが公使館をもち、外国人が日本国内に住むようになると、攘夷の武士たちは不満を持ち

日本各地で外国人を襲う事件が起こった、その対象はイギリス人が多かった

水戸藩士が1861年に江戸で英国公使館を襲い、62年には薩摩の大名行列を乗馬で横切った英国人を殺害した

(生麦事件)これに怒った英国は幕府から賠償金を取っただけで治まらず、薩摩を艦隊で砲撃した、薩摩藩もこれに

応戦して町が焼かれるなどの大被害を受けながらも互角の戦いをして、英国艦隊を追い払った

これにより英国は日本人の勇敢さと強さを改めて知り、薩摩も英国の攻撃力を知って攘夷一辺倒ではいけないという

考えを持った。

それは、下関で英国艦隊に砲撃を加えて、手痛い反撃に壊滅した長州藩も同じであった

ところがこれが孝明天皇の耳に入り、「薩摩、長州あっぱれな忠臣」と絶賛された、同時に天皇は幕府頼むに足らずを

実感されたのであった。

                               つづく