神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

日記の転記で見えた20代後半

2023年06月20日 10時27分40秒 | 時代検証
昨日はなぜかやたら疲れていて、夕飯を終えると、もはや無意識にベッドに倒れこむようにして寝てしまいました。
いろんな夢を見て目が覚めると21時になっていました、2時間半ほど寝たようです、これで楽になり風呂に入ってから日記の転記をはじめました。

今は1977年です、27歳大人になりました、色っぽい話、艶っぽい話、友達の送別会をするために飛び込みで料亭に行ったら、案の定、芸者は全て予約でいない
「年寄りでもいいから」と頼み込んだら40過ぎの芸者がいて来てくれた。
こっちは20代3人だから母子で飲んでいるような感じだったが、店が気を使ってくれて、30歳くらいの芸者が空いたからと言って交代してくれた。
この芸者が滅法明るい人で、歌が大好きで最後は大合唱になり、帰り際に店から連れ出して喫茶店で酔い覚ましのコーヒーを飲んで話をしていた。

翌日、スーパーのテナントで仕事をしていたら、なんと彼女が5歳くらいの子供連れで買い物に来てびっくり
お互いびっくりして言葉も出なかった、どちらも夜の顔と昼の顔が違いすぎて

同い年の従兄弟や同級生、妹も結婚して、また同級生の女子は子供を連れて歩いているのを見て、いよいよ自分にも結婚という焦りが出てきたころだった。
すれ違いみたいな男女関係が続いていて特定のステディはいなかったが、ちょこちょこ・・・遊びはあったようだ
というのは、自分では忘れていたが日記にはしっかり書いてあり、それを見て当時を思い出した次第であり、年相応のことはしていたのだと少し自信になった。
結局、この年の秋に女房殿と出会って、翌年結婚したのだった。

この年は仕事の上でも大きな転機があり、我が家としては父の飛躍の年であり、それは多難な年でもあったのだ
私が結婚を急いだ原因の一つは、母が病弱で松本の大学病院に長期入院してしまい、また一昨年に妹も結婚、弟は東京の大学に入学して、我が家は父と私の二人だけ
それなのに商売の規模が3倍にもなり、仕事が終わると二人で毎日、ホットプレートでキャベツと豚肉を焼いて食べる生活で、うんざりしていたのだった。
まさに現れた女房殿に、父は私以上にラブコールを送ったのだった。
めでたしめでたしの結婚とも言えなかったが、まあ今日まで何とか一緒にいるのだから、それはやっぱりめでたいのだ。

今思うと、その頃の自分はけっこうハチャメチャな生活を送っていた、すべて日記を今になって客観的に見ることが出来るからわかったことだ。
将来的な定まった夢や計画など持たず、一か月のうち半分以上は麻雀にうつつを抜かし、それも徹夜麻雀が多く、その家で泊まってくることも度々
結構みんなに迷惑をかけていたのだ、その頃はたしかに麻雀はブームだったが

翌日休みの日は朝6時まで打ち続け、家に帰ると昼まで寝てからパチンコ、その足でまた麻雀に行く
平日は深夜2時3時まで打って帰宅して3時間4時間寝て仕事を始める、と言った状況で、とても仕事に身が入る余地など無かったのだ。
私の人生の失敗は、そのころであらかた決まったようだ、そのくせ自意識が強くて仕事は結構やっていたつもりでいたから、意見する父としょっちゅう対立していた、今振り返ればまことに愚かなことだったのだ。

仕事はダメ人間だったが、遊び友達には恵まれていた
ゆえに仕事がダメだったとも言えるが、面白おかしく生きた人生だったともいえる、その天罰を受けても仕方がない

あらためて日記で振り返る自分の人生は、小説を読んでいるような面白さがある。


「推し活」青春

2023年06月19日 10時38分35秒 | 時代検証
大谷2試合連続24号、トラウト久しぶりの15号アベックホームラン
レンヒーフォー、1イニング2回ボール直撃の珍プレー
デッドボールで一塁に出た後、次打者の1.2塁間のヒット性の当たりを足に受けてアウトでチェンジに、2度も痛い目にあってアウトになるとは、持っている人?

昨日テレビの報道番組で「推し活」というのが都会で流行していると言うのを見た。 初めて目と耳にした言葉だった
よくわからないが、自分が応援する(ファン)グループやネットキャラなどのイベントに参加するだけでなく、そのフィギアやさまざまな関連アイテムを集めることに喜びを感じ、「生きがい」と言い切る
私の世代でも「おっかけ」という言葉はわかるし周りにもそういった人たちは、かなりいた。
「推し活」と「おっかけ」の違いが判らないが、「推し活」の若者はファッション的にも「コスプレ」のいでたちでイベント会場に集まる。
小学生から20代の姿が多かったが、アイテム集めのために数万円から数十万円を使うと言う、社会人だと累計数百万円も使ったと言う人もいた。
学生はアルバイトの掛け持ちで資金作りに励むと言ってた、週に8日分働くと言った人もいた

見ていて、老人性の批判がまず頭をよぎり、「今どきの若者は」という常とう句も浮かんできた。
「今どきの若者は」とは結婚して子供が生まれてから45年間使い続けている言葉、もう口癖と言ってもよい

だが若者からしてみれば余計なお世話だ、私にも「今どきの若者は」と言われた時代があった。
「アメリカかぶれ」「ビートルズきちがい」などと言われ、休日にはエレキギターをバイクにくくって練習にいったりもした。
だから、いつの時代も「今どきの若者」は何かに夢中になることで青春を過ごす、それは同じ嗜好の若者同士の出会いの場であり、(つらい)現実から離れて生きがいを感じる瞬間でもある。

高校生の時「エレキバンドなんかやっていると不良になる」なんて先生や親に言われたこともある
でも、あの時のメンバーで不良や反社会的団体の構成員になった者などは一人もいない、家庭を持ち、子を持ち、個人事業者、会社員、あるいは自衛隊員になって、みんな社会に貢献した。

大人になって平穏な生活を送ると、子供たちのすることが危険で危なっかしく見える、お金がかかると知ると、良くないことでお金を必要以上に欲しがるのではないかと心配する
だが、いつの時代でも、お金の為に犯罪や危険な思いをする若者の比率は同じだと思う、我々だってそうだったのだ
夏休みは、ほとんどがアルバイトをした、それでバイクを買ったり、旅行をしたり、エレキギターを買った。
20歳の時、大学生たちとドライブして交通事故で死んだ美人の同級生女子もいた、いつだって青春には危険がつきものだ。

若者は甘い蜜の香りに誘われ、美しい花に集まり群れるミツバチ
その花が咲き乱れる季節を青春時代という
「今どきの若い者は」と批判するのは、殺虫剤を花園に撒く頑固爺さんか、心配性の爺さんだ。
花園に群がるミツバチをのんびりと眺めている爺さんになりたいものだ。



日記の整理 1971年9月15日 16日 21歳

2023年05月13日 20時08分18秒 | 時代検証
連休をもらった 今年の初夏、月3日の休みが、ようやく週休制になった
僕の休みは水曜だが、木曜が店の休業になったので連休になったのだ
こうなれば東京行きだ、東京にいる東海大学生の同い年の従兄弟に電話したら
「いいよ、おいでまってるよ~」

新潟発、急行佐渡1号7時発で行くつもりが、同僚が送ってくれるはずだったが
会社のキャブスターがバッテリー上がりで、とうとう間に合わず、このままでは次の9時の佐渡2号も間に合わない、それで地主さんからスカイライン2000で引っ張ってもらって、ようやくエンジンがかかって駅に送ってもらった。

赤羽に降り立ったら従兄弟が待っていた、5番ホームから池袋へ行き、西武池袋線で練馬駅に降り、彼の下宿へ行った

実は従兄弟はダミーで、同じく中学校、高校と親友だった法政大学生のTが世田谷の本天沼にいるので、それを訪ねるつもりだった(敬老の日)
しかし従兄弟と「コイコイ」にハマってしまって、Tに会うのはやめて明日は東京をぶらつくことにした。
夜はお礼に、従兄弟にイカの刺身とキャベツの千切りとみそ汁を作ってやった

目が覚めたら9時半、なんのかんのとやってたらもう午後1時で、納豆かけご飯を食べた
練馬ともなると都心と違って空気もまずまずで田舎者でも住みやすそうだ

2時に出発した、池袋で乗り換え、新宿西口で降り、日本一高いビル47階建て新宿のランドマーク「京王プラザホテル」を見る
それから西武、小田急デパートへ行って、後輩に頼まれたレモンちゃん(落合恵子)=『深夜ラジオの女神』のエッセイ本とポスターを探したがなかった

地下鉄丸ノ内線で銀座へ行く、ソニービルと三越を探したがここにもなかった、いったい誰のために東京へ来たのかわからなくなった
京橋まで歩き、地下鉄で上野駅へ、ラーメン食ったらもう帰る時間だ 
6時7分の特急とき5号で新潟へ帰る
楽しい2日間だった、従兄弟と二人でこれほど親しくつき合ったのは初めてのことで、有意義であった。
帰りの列車の中で、銀座で買った「星占い」の本を読んだ、かなり合っているので年度末まで、この本に従って暮らしてみようかな。


*この時代、京王プラザが日本一のビルだったんですね、10年くらい前に行って食事をしたけれど、周りのビルが全て京王プラザより高くて、穴倉感いっぱいでした。
貧乏大学生と月給18000円の丁稚では、東京へ行ってもラーメンくらいしか食べられなかったのですね、でも楽しかった。
*スカイラインの地主さんは後のバブル期に広大な田畑を売って、当時のお金で1億円以上の所得となり、新聞で新潟市の長者番付に載りました
この頃は高額所得者が新聞で発表されたので、プライバシーなしの時代だったんですよね、今なら凶悪強盗団の絶好の資料になりますね。




昭和の日 つづき

2023年05月01日 16時42分11秒 | 時代検証
昭和を考えた時、なぜか昭和50年から60年の10年間の世の中の様子が思い出せない
年齢で言えば25歳から35歳、そうだ結婚して子育てと仕事で精いっぱいだった頃だった・
世の中はまさにバラ色で、とにかく景気がどんどん上昇していた
田舎町でも、パパママストアーの魚屋、肉屋、八百屋、雑貨屋の中から営業成績の良い店は、総合店舗いわゆるスーパーマーケットに転換していく時代だった。
我が家も魚屋オンリーから、野菜、食品(缶詰とかマヨネーズとか)、精肉、雑貨(洗剤、ちり紙など)まで並べるようになり、売り場面積も3~4倍に広げた
それでも町の中心商店街では衣料品店が地方デパートに転換したり、もともとの食料品店が50坪ほどの広さに拡大したりしたから、我が家ような20坪ほどの店舗では太刀打ちできなかった、それでも負けずに毎週チラシを入れ、卵や砂糖、洗剤の特売を行った。

やがて地方デパートから声がかかって、鮮魚部門がどうしても難しいので専門店に入ってもらいたいとオファーが父のもとに来たのだ
父は一つだけ条件を出して受け入れられたので、テナントとしてデパートに入った、ここで父子は別々の店を経営することになった。
(条件に付いては長くなるから書かない)

これから10年くらいの間紆余曲折があり、36歳の時、この店を他人に譲って
私は料理店の板前として入った
魚屋から、割烹の板前に「へんんし~~~ん」というわけだ
どちらもできるところが私の特技といえたが、生活は180度「へんし~~んん」
日曜休みの魚屋から、不定休の料理屋になり、売り上げも魚屋の時の3倍以上になったから家庭サービスは無くなった
家庭と育児を放棄したようなものだ、土日は冠婚葬祭が多忙で朝5時から深夜まで働きずくめ、子育てどころでなかった。
残業時間(考えたことも無かったが)が月100時間になることも珍しくない
週休2日制、週40時間労働制なんて、そんな時代になるなんておもったこともなかった。40時間なんて3日で達成した。
このあたりが昭和の団塊世代、バブル戦士の悲劇であった

どんな仕事についても忙しいことは同様だった時代、我々の反面教師が「ゆとり世代、ゆとり社会」に反映され、それはそれで後に問題になったのだ。
昭和生まれと、平成生まれでは全く異質の日本人に見える
祖父と孫世代、明治の祖父と昭和の孫以上に理解しあうことが難しい

昭和は遠くなりにけり、まもなく昭和100年を迎える
昭和時代が戦国時代と言われるような時代が来るような気がする。



昭和の日

2023年04月30日 14時27分44秒 | 時代検証
今の生活になり、月日、曜日に無頓着になった
日曜も旗日もほとんど関係なくなって、同じような毎日が繰り返すだけ

国民の休日を昔は「旗日」と言った
各家の軒先には日の丸の国旗が出されて、祝日を祝った
国旗が一般家庭で掲揚されなくなったのはいつごろだろうか?
たぶん東京オリンピックの頃がピークだったのではないだろうか(1964年)
あのオリンピックでは日の丸の旗が随分と振られたはずだ
WBCの日本大会で日本が無敗の活躍を見せたが、スタンドが日の丸で埋め尽くされる様子はなかった。
私も家や会社で国旗を掲揚しなくなったのは昭和40年代だった気がする
昭和天皇が崩御されたときに久しぶりに国旗を出して、半旗を捧げた。
それ以来、国旗は陽の目を見ない。

我々世代が子供の頃には、祝い事があると国旗の小旗を振って行進したものだ
小学生の時ローカル鉄道線開通で小旗を振って市内をパレードした記憶がある。

昭和天皇在位期間中(戦後)は4月29日は天皇誕生日であり、平成時代になって天皇がかわると「みどりの日」となった、意味がわからない
今は「昭和の日」となり、これはわかりやすい。

私は昭和25年生まれで、22年~24年生まれをいう「団塊世代」から一年遅れて生まれた。
日本は5年前までアメリカと中国、イギリスなどを相手に世界戦争を行っていたのだから、まだ戦争の臭いが田舎町にも残っていた。
その第一は兵隊から帰ったばかりの気の荒い父親をもったこと
どこの親父も怖かったから口答えなどすると、すぐにげんこつが飛んできた

昭和と令和・・・昭和は封建的だった だが・・・時代とは比べる意味はない
その時代に生きる人も変わるからだ
新しい時代が常に最新の新しい時代とは限らない、後退することもあるのだ

第二は近所には幾つも防空壕が残っていた、わが町は田舎ゆえ爆撃されることはなかったが、それでも国か町かの命令で作ったのだろう
今でいえば核シェルターだ、それを作らないのはまだ今は北朝鮮などに対して危機感は口で言うほど感じていないのだろう。

第三は、まだ戦中の海上機雷が海岸に流れ着く、不発爆弾が地中で発見されるなどあって、新潟県の上越地方の海岸で見つかった機雷が爆発して警官や小学生中心に100名前後が死んだ事件があった。

第四は、少年雑誌には必ず、戦争中の日本軍の勇ましい英雄伝や、ゼロ戦、戦艦大和などの勇ましい写真や物語が掲載されていた
それは全て勝ち戦の勇ましいものばかりであった、編集者もたぶん兵隊帰りかそれに準ずる人だったのだろう、
負け戦など書くのは悔しかったのだろうと思う、それを読んで私などは「日本は世界一強い」と胸を躍らせていたのだった。
日本の戦争の真実に触れたのはいつだろう? かなり後だったと思う
ずっと強い日本が好きだった・・が
それまで自分の祖父母が空襲で亡くなったことも認識していなかったのだ

昭和は64年間続いた、天皇陛下の在位期間としてもたぶん1位なんだろうと思う(神話に類する天皇は別として)
昭和元年が1926年だから2025年が昭和100年になるはずだ、きっと盛大な式典がおこなわれるんだろうな。

中世以前はともかく、近世になって日本が180度転換したことが二度ある
最初は武家政治から議会政治に転換した明治維新
もう一つは帝国主義から民主主義国家に変わった、日米戦争
前者は江戸時代から明治への転換、後者は昭和の中での転換

昭和の64年間はまさに「激動」
昭和元年から17年までは怖いもの知らず、政府も国民も自信に満ちたイケイケの時代、千島列島、樺太半分、朝鮮半島、台湾を領有し、グァム、サイパンなど南方諸島の統治権を持ち、中国東北地方に広大な満州国建設、傀儡政権を操る。
昭和18年から20年は国家存亡の危機、建国2600年、外国に侵されたことが無い日本が東京、大阪、名古屋、横浜をはじめ全国都市の大部分を焼き尽くされ
300万人以上の国民が死んだ、そして敗戦

昭和20年から27年 敗戦により主権国家としての日本は消滅、アメリカの占領統治下となり、独立国家の地位を失う
アメリカが作った新憲法発布、日本は永遠に軍隊を持たず、戦争放棄国家になった。 日本人が住む地域も明治維新当時の領土に戻った、但し固有の千島列島、小笠原列島、沖縄列島は連合国に接収される。

昭和27年から昭和40年代 主権国家としての独立を回復してから国勢回復の猛烈なスピード、「高度成長時代」わずか20年で一人当たりの所得も数十倍になった。 焼け野原の東京は戦後20年かからず新幹線が走り、オリンピックを開催するまでに復興した。
                  つづく













78年前の東京大空襲って知ってますか

2023年03月10日 12時05分54秒 | 時代検証
昭和20年8月に広島と長崎に原爆が投下されてそれぞれ10万人近い市民が一瞬にして殺害され、その後も被爆二世、三世が亡くなったり、苦しんだりした。
それより半年ほど前の3月10日深夜零時から2時間ほどの間に数十万発と言う焼夷弾(発火爆弾)が寝静まった東京下町一帯に落とされて、10万人の東京市民が焼き殺された。
今日で、あれから78年たったから、私の祖父母も今日が78回忌となる
東京都城東区亀戸3丁目に祖父母と私の父の3人家族で住んでいたが、父は当時20歳で調布の部隊に入隊していたため難を逃れた。
祖父母と言っても、当時祖父は49歳、祖母は45歳くらいだから老人ではない。
祖父母にとって初孫の私は、これから5年後に生まれるから、当然顔を合わせていない。
空襲の夜、二人の足取りは亀戸駅方面に向かって逃げて、それ以後行方が分からない
駅方面は特に酷かったというから、そこで命が途絶えたのであろう
祖父の妹(叔母)は浅草象潟町(浅草4丁目あたり)、弟(叔父)は千住にいたが、弟だけが無事であった
身元がわからぬ炭化した遺体がそこかしこに倒れていたというし、防空壕に逃げ込んでも酸欠で亡くなったり、高熱で蒸し焼きになったという
走って来た馬が一瞬で炎に包まれて燃えたという記事も読んだ
高熱で水分が蒸発、乾燥した空気は僅かな摩擦で発火したらしい
熱さに耐えられず隅田川や十間川に飛び込んだ人は3月の冷水に溺れた
残酷なこと極まりない、今もウクライナがロシアプーチンの攻撃で大勢の国民が殺されているから他人事に思えない。

祖父はわかっているだけでも4代先まで江戸の生まれであるから江戸っ子だったようだ、(父の)叔父さんも話したことがあるが、べらんめぇ口調で、せかせかと速足で歩く人だった。
父と叔父さんだけが生き残り、二人だけで祖父、祖母、叔母さんの葬儀を浅草日輪寺で行った、費用は父が出したそうだ
その時、作ってもらった位牌は今我が家の仏壇にある。 お骨もなく、お墓もないので本所の震災慰霊堂に東京空襲被災者も祭られているから、そこが墓地だと思って、東京へ行くと立ち寄ってお参りしてくる。
祖父も祖母も父が心を込めたので良い戒名をつけていただいた
祖父は善照院***心居士 祖母は春光院***浄大姉
祖母の「春の光」、いまどきのような、ほのぼのとして良いなあと思う。





バレンタインチョコ

2023年02月15日 09時18分28秒 | 時代検証
ちょっと意外なニュースを聞いた
最近の女子は「義理チョコ」を配らない人の方が過半数だそうだ
その代わり、自分のご褒美とかでちょっと高級なチョコを自分用に買うのだと、聞いていたが
それも、あまりないらしい、だからバレンタインチョコの売り上げ数量は減っているという
だけど売上金額は増えている? なぜ?
義理チョコが減ったかわりに、高級な「本命チョコ」が売り上げを伸ばしているらしい
バレンタインにこだわらずチョコ全体で言うと販路が広がって伸びているそうだ
現役の時は10ケくらいは毎年「義理チョコ」を貰ったが、商売人はしっかり「ホワイトディ」も広めて二重取り
それを思えば、家族からしか来ない今は、ホワイトディのお返し分で、自分チョコを買えば、けっこうランクの良いチョコが食べられるのでは?
と・・思ったが、「同じ買うなら何もチョコでなくてもいいや」という考えになって、やっぱりチョコはいらない。

高級なチョコは最近の値上がりで一個当たり300円あがったとか言っている
義理チョコは一箱でも500円~2000円くらいだから
いったいどんなチョコかと調べたら、あるある、10ケ入り12000円なんて安い方で、4ケ入り12000円なんてのもネットショップにあった。
「へ~」である、これならステーキ食べるか、温泉でも行った方がいいな」と思った平凡な庶民のyottinであった。
因みに今、時々買うのは「ラミーチョコ」、本物を知らない私はこれで十分なのである







がんばれニッポン! 2115年

2023年02月02日 08時25分25秒 | 時代検証
高速道路の無料化実施が2065年から引き揚げられて、2115年までに延ばされた
これが実施されるかどうか、先延ばしを決定した人たちも確かめるすべはないのではないか。
2115年と言えば、運よく私が生きていれば165歳である、まあ2065年でも115歳だから同じようなものだ。
もっとも運転免許だって、あと10年持っているかどうかだから関係ないけど
本当は今頃はスイスイ無料で高速を走っていたわけだが、以前にも先送りされたということになる、結局「言って見たけどや~めた」と言うわけだ
言い訳は、どうにもなる、あのトンネル天井壁崩落の悲劇を言われたら、無料化より有料で安全な高速道を選ばざるを得ない、最初からできないことは口にしなけりゃよかったのに、結局年金同様に先を見通すのが甘すぎたということだ、必要なものは必要だから仕方ない。

 日本人はどんどん貧乏になって、個人GDPは39300ドルで世界27位
韓国29位、台湾31位とほぼ同じになって来た、しかも抜かれそうとか
若い時は王様気分で遊びに行った国だから、情けない気分だ
19位サンマリノで5万ドル、20位は香港49860ドルもう東アジアのトップの座も転げ落ちたんだね
実際、ずっと年収が水平ラインなのに税金と物価はぐんぐん上がっているから「貧乏になった感」は半端ない、普通の鍋焼きうどん、久しぶりの外食で1200円には驚いた、「この味で1200円はやす~い」って言ってみたいけど言えない
提供側も、消費者も大変なこの頃、高収入、高価格で回る経済がGDPを引き上げるのだが・・・高価格先行、低賃金据え置きではたまらない
TOP企業の大幅賃上げが始まったが、零細勤務の労働者との格差は開くばかりだ

国も老人がどんどん増えて年金支給が目に上がるだろう、もらう方は物価上昇分が年々足りなくなるが、でも日本人は愚痴は言っても音を上げないし、暴動も起きないから立派だ
「武士は食わねど高楊枝」のさむらい魂は健在だ
だが殺人強盗、傷害強盗が白昼堂々と多発するのを見れば民度の低下、安全国家の崩壊、貧しさの表面化は明らかだ。
一番怖いのは政府が国民の貧乏感を容認することだ、国家が国民生活の向上をあきらめたらアウトだ。








スキー場の思いで

2023年01月30日 08時55分51秒 | 時代検証
長野県小谷村の栂池高原の最上部から更に上った、2000m級のバックカントリーで雪崩が発生して、スキーヤー(ボーダー?)が巻き込まれた
驚いたのは、巻き込まれた人たちが全て多国籍の白人だったということ
もともと小谷村、白馬村はオーストラリア人を中心にスキー好きの外国人が多くやってくる場所で、ロッジなどのオーナーになった人も多い
ジャンプをはじめ、長野オリンピックの会場にもなって世界に存在をしれるようになった。
私も10代から40代まで、栂池高原の知人のところで遊んだり、ホテルにカジキを定期的に届けに行って、時には調理を手伝ったりして、夜にはオーナーの息子と飲んで一晩泊めてもらったりしたものだ。
あの頃の白馬駅付近の賑わいはかなりのもので、今は面影もない
もちろんスキー場の宿泊施設も軒並み満員で、夜もこうこうと灯りがともっていたものだ
この沿線は関東圏より、関西圏のお客さんが多かったように思う、まだマイカー所有者が少ない時期だった、中央線や北陸線で来ると言っていた
ホテルのスナックで神戸の女子大生と飲んだ時、初めて生の関西弁に触れて感動した。
知人のロッジオーナーは時々、栂池高原からバックカントリーをスノーモビルで岩岳方面へ行くことがあり、私も誘われたことがあったが、メカ音痴の私には無理だった。
高校時代からスキーと言えば、栂池高原や、ローカルな池の田だとか行っていたが、やはり有名なのは八方尾根だった
あの頃は白馬は「信濃四谷」と言ったが、なぜ「白馬」になったかしらない。
長いスキーを電車(ジーゼル)に持ち込むから車内は人よりスキーの方が存在感があった、大糸線のジーゼルカーで白馬大池まで行って、そこからバスに乗り換えて親の原まで上がる。帰りはつづら折りの道路を駅まで滑って降りてきたこともある。
馬の背コースが一番の難コースで、私はそこを滑る技術は無かったから、鐘の鳴る丘で、おこちゃま滑りをしていた。
社会人になってからは、新潟市に移ったので、上越沿線にかわった
苗場、湯沢高原、六日町、小出、石打丸山などに出かけた
スキーは仕事が忙しくなるにつれてしなくなり、40代でやめた。

今朝の雪の様子


時代は変わる

2022年10月25日 05時04分25秒 | 時代検証
今日は金沢で竜巻があったとテレビで放映してい、ひどい一日のようだった
あすから、金沢方面に行くので大荒れが明日でなくてホッとした
旅行支援が始まって、どこもかしこも大賑わいだ、昨日も国道を走ったけれど、田舎町のラーメン店(けっこうキャパはある店)で外に数十人も並んで待っているのは初めて見た。
また新井道の駅の飲食店もどこもかしこも外まで行列、前回の長岡丘陵公園同様、日曜は気軽に出かけるなんてのは、ちょっと無理になってきた。
そのくせシーズンが終わった黒姫高原や霊仙寺湖などは余裕たっぷりだから、場所によってもかなり違っている。
東京国立博物館は現在所有の国宝のすべてが展示されているし特に刀剣がすごいらしい、東京は久しく言っていないので行ってみたい気もあるが、予約で入場制限があるらしい、そんな風に面倒なことは嫌いだから、あっさりあきらめた。
いままで自由に行かれた美術館、博物館が、人数限定だとか、予約制だとか面倒な世の中になってきた
葬儀もすっかり家族葬が定着して、コロナが日常化してもこれはもう文化として、この形態があたりまえになるんだろうな、きっと
コロナ前から人付き合いが限定的になる傾向だったし、若い世代ほど他人に家に上がられることを嫌う傾向が強まっているとか。
会社の宴会や社員旅行が煙たがられるようになって、すでに20年にはなるだろう
昭和の時代は終身雇用制が当たり前で、会社は社員の生活を一生を保証する、
社員は会社に一生を捧げる、と言うのは暗黙の了解で行われていた
人口爆発して、やがてバブル、そしてバブル崩壊となったころから、会社は社員の使い捨て、パートの増大となり
社員は会社への信頼や忠誠心を持たなくなってきた、ほかの会社に目移りすれば直ちに転職、アメリカ型になってきた。
実は私も若いころは人間関係に縛られる日本型にうっとおしさを感じ、アメリカ型の自由にあこがれたのだった。
そして今の時代はまさにそうなった、自由である代わりに能力がない人間が切り捨てられる格差社会が目に見えるようになってきた。
令和の時代は、もはや昭和と比べることはできない