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明治維新の整理(2)

2018年01月11日 09時16分22秒 | 明治維新の整理

孝明天皇・・・・明治天皇のおとうさま

幕末の天皇はどのくらいの力があったのだろうか、少なくとも德川政権下では德川の援助で食い扶持を

つなぎ、様々な宮中行事も徳川将軍の援助無くしては出来ない状況だったのだろう。

だが孝明天皇が天皇の権威を取り戻す時代がすぐそこまでやってきた、それは黒船襲来がきっかけだった

アメリカを始め、欧米の強国は日本に港の開港と貿易を迫ってきた、時に沿岸で空砲を撃って脅した

たかが一隻の船であっても、多くの大砲を装備している、その性能は高く、幕府の旧式の大砲などオモチャに等しい

250年の平和呆けの徳川幕府は、この降って湧いた災難に右往左往するだけで明快な対処が出来なかった

一方、孝明天皇は異国を嫌い、その態度は明快だった、そして腰が引けている幕府に「異国の異人どもを追い払え」

強く命じた、この時点で天皇の方が幕府より肝が座っていてぶれなかったのだ。

信念を持つ者は、迷う者より強い。 徳川幕府の大臣達は天皇から追い払いを命令され、米英からは開国しなければ

覚悟はいいなと脅されて、まるで韓国の文在寅大統領が日米と北朝鮮に挟まれて苦労しているのと同じ状況に

なった。

なんとか米英をなだめて返事を先延ばししてもらい帰国させたけれど、こうした事実は日本中の大名や、その家来

たちに大きな選択と決断を宿題として残したのだった。 俄に動かなかった日本が騒がしくなってきた。

米英仏露の軍艦が相次いで日本にやってきた1850年前後から、西南戦争で西郷隆盛が自刃、翌年ライバルの

大久保利通暗殺までの約30年間が明治維新のハイライトである。

こんな日本で先頭を切って動いたのは、德川御三家水戸藩の殿様、德川斉昭(なりあき)だった

早くも神国日本の危機とばかりに、国防の建白書を幕府に提出したり、自らも防備のための装備拡充に励んだ

この殿様、天下の副将軍水戸光圀公の子孫である。

徳川家は江戸の本家が代々将軍を継いでいくが、もし嫡子が居ない場合は、御三家のうち尾張徳川家か、

紀州徳川家から将軍を選ぶように、そして水戸徳川家は

将軍の資格は与えぬ代わりに代々天下の副将軍として将軍を補佐して、また非があれば意見するようにと

德川家康が遺言していったのだ。

さて、そんな立場であるけれど、德川家より天皇の家臣であると強く思っている水戸徳川斉昭である

当然、夷敵を追い払えと天皇と同じ考えであるから、江戸城に乗り込んであたふたする老中等大臣に

罵声を浴びせる、「おまえ達が、ぐずぐずするなら水戸藩だけでも夷敵と戦うぞ!」という気構えだから

将軍も老中もたじたじである。

前後するけれど、同じように国防を意識して国内の各地で心ある諸藩は大砲の製造や兵士の訓練を始めた

九州の薩摩藩島津斉彬、佐賀藩鍋島公、本土では越前松平春嶽、信州松代藩、そして長州藩の吉田松陰は後に

明治維新の中心となる若者達に尊皇愛国の教育を行っていた、また幕府の家臣の中にも危機感を持つ者が

多少なりいたのである。

そのような肝を据えた雄藩に比べ、幕府の弱腰はついにアメリカのペリー提督の再来に屈して日米和親条約を

結び主要港湾を開港した

当然孝明天皇の怒りは頂点に達した「德川家、頼むに足らず!!ふぬけどもめ!、日の本に夷敵を追い払う

根性のある大名はいないのか(京都のお公家さんの言葉を標準語に翻訳)」

この頃、德川12代将軍德川家慶が亡くなり、13代に德川家定がついた、あの薩摩から嫁入りした篤姫の夫である

篤姫を将軍家に送り込んだのは島津斉彬であった。   

将軍德川家定、大河ドラマ「篤姫」のとおり、この国難をリーダーとして解決して行くには精神的に弱い部分がある

将軍であった. (大河では「真田丸」で主人公を演じた堺雅人が、「篤姫」でも、この德川家定を演じていた。)

 故に幕臣老中が幕府を主導していかなければならなかった、そんな中で頭角を現したのが数年後に大老

(筆頭老中)となる井伊直弼(いいなおすけ 彦根藩主=井伊直政の子孫《勿論血はすでにつながっていないけれども》

であった。

                                                              つづく

 

 

 

 

 

 

 


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