マクロビオティックに初めて触れて、乾いた土に水が染み込むようなインスピレーションを受け取ったマクロビオティック同志の皆さん!私達には先ず「Credo!」がありました.「これは真実への道だ!」というインスピレーション.私達の永遠の記憶にチャンネルが合ったときに受けるひらめき、真実の響き合いに誘導されるようにマクロビオティックの道に足を踏み入れて、とにもかくにもやって見ようとの固い決意で始めたものです.マクロビオティックで知る宇宙は感情抜きの秩序の世界ですが、私達日本人に慣れ親しんだ「行」の世界でもあります.考えていても何も分からない、生身の人間としての実体験の世界です.
そうこうしているうちにスパイラルのこの世の常、必ず行き詰まる時がやってきます.行き詰まりの種類はその人によってそれぞれです.そんな時にどうするか.遮二無二突き抜けるという修行型の人もいるでしょう.どこか外の学校や教室に出てみるという気分転換型、武者修行(?)型の人もいるでしょう.なんとなくだれていって元の木阿弥型の人もいるでしょう.病気がきっかけで始めた方も、ある程度満足の行く結果が出て目的を無くしたり、なかなか思い通りにならなくて諦めてしまったり・・・・・・
このときこそが出番です.Non Credo! 自分で確かめてみましょう.私達が鵜呑みにしてきたマクロビオティックの考えを. それがマクロビオティックを自分の身に出来るかどうかのチャンスです.自分の身の丈に合った自分のマクロビオティックを組み立てられるかどうか.陰陽について.命について.この世について.食べ物について.お料理の仕方について.玄米の炊き方について.食材の選び方について.当たり前として取り入れていた理論に疑問を投げかけて、自分の答えを模索する.それが Non Credo! 本当のマクロビオティックの門です.そのドアの向こうに真実はあります.皆さん これが選択の自由というたった一つ人間の持つ自由です.
私達は自由です.どの局面においてもどちらを選ぶかという選択をしています.食べる時も食べるか食べないか、どれをどの位食べるか.これがいわゆる自由意思というものです.人生の真実を知るかどうかの選択の時期を迎えているのです.中だるみの時期にどう発奮するか、この時こそ自分のマクロビオティックに基盤を構築出来ます.どちらも選ばないという自由はありません.たとえ結果的にでもマクロビオティックを捨てるか拾うか、その都度選択して生きています.その第二のスタートに宣言するのです.「Non Credo!」
次に何が来るか.もちろん 「Credo!」 です.一段づつ「安心」の階段を上るのです.そして自分の位置を宇宙規模で納得し、人間というものを考え、父母の死に自分の死を重ねていかに手伝うことが出来るか、その反省を元に世間に貢献をし、自分の死を設計する.これは最後の楽しみです.その前に十分楽しんで貢献をしないといけません.自分の生き方そのものが、世間のお役に立つ.桜沢先生も楽しんで生きられました.久司先生もそう言っておられます.私達も楽しみたいと思います.
一回ごとの食事もCredo et Non Credo.食事を終えるとき、自分の作り出したご飯椀の中の世界を確かめましょう.お椀の中の世界が私の世界です.生物は食べた後を残しているのですから、私達の外見は、自分の食べたご飯椀の中の姿だと思ってよいでしょう.食事の後感謝の思いをもう一度空になったご飯椀に注ぎましょう.自分の身の内になったものの移り変わりがよく分かります.同じ心になったのです.そうして幾重ものスパイラルを辿って無為自然になった時、私は次のステップに行きたいと思います.湿っぽい記事を書きました?でも孔子様の世界から老子様の世界へ行くのが永遠の理想です.かなうように努力します!
そうこうしているうちにスパイラルのこの世の常、必ず行き詰まる時がやってきます.行き詰まりの種類はその人によってそれぞれです.そんな時にどうするか.遮二無二突き抜けるという修行型の人もいるでしょう.どこか外の学校や教室に出てみるという気分転換型、武者修行(?)型の人もいるでしょう.なんとなくだれていって元の木阿弥型の人もいるでしょう.病気がきっかけで始めた方も、ある程度満足の行く結果が出て目的を無くしたり、なかなか思い通りにならなくて諦めてしまったり・・・・・・
このときこそが出番です.Non Credo! 自分で確かめてみましょう.私達が鵜呑みにしてきたマクロビオティックの考えを. それがマクロビオティックを自分の身に出来るかどうかのチャンスです.自分の身の丈に合った自分のマクロビオティックを組み立てられるかどうか.陰陽について.命について.この世について.食べ物について.お料理の仕方について.玄米の炊き方について.食材の選び方について.当たり前として取り入れていた理論に疑問を投げかけて、自分の答えを模索する.それが Non Credo! 本当のマクロビオティックの門です.そのドアの向こうに真実はあります.皆さん これが選択の自由というたった一つ人間の持つ自由です.
私達は自由です.どの局面においてもどちらを選ぶかという選択をしています.食べる時も食べるか食べないか、どれをどの位食べるか.これがいわゆる自由意思というものです.人生の真実を知るかどうかの選択の時期を迎えているのです.中だるみの時期にどう発奮するか、この時こそ自分のマクロビオティックに基盤を構築出来ます.どちらも選ばないという自由はありません.たとえ結果的にでもマクロビオティックを捨てるか拾うか、その都度選択して生きています.その第二のスタートに宣言するのです.「Non Credo!」
次に何が来るか.もちろん 「Credo!」 です.一段づつ「安心」の階段を上るのです.そして自分の位置を宇宙規模で納得し、人間というものを考え、父母の死に自分の死を重ねていかに手伝うことが出来るか、その反省を元に世間に貢献をし、自分の死を設計する.これは最後の楽しみです.その前に十分楽しんで貢献をしないといけません.自分の生き方そのものが、世間のお役に立つ.桜沢先生も楽しんで生きられました.久司先生もそう言っておられます.私達も楽しみたいと思います.
一回ごとの食事もCredo et Non Credo.食事を終えるとき、自分の作り出したご飯椀の中の世界を確かめましょう.お椀の中の世界が私の世界です.生物は食べた後を残しているのですから、私達の外見は、自分の食べたご飯椀の中の姿だと思ってよいでしょう.食事の後感謝の思いをもう一度空になったご飯椀に注ぎましょう.自分の身の内になったものの移り変わりがよく分かります.同じ心になったのです.そうして幾重ものスパイラルを辿って無為自然になった時、私は次のステップに行きたいと思います.湿っぽい記事を書きました?でも孔子様の世界から老子様の世界へ行くのが永遠の理想です.かなうように努力します!