「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

畑中

2006-05-18 19:46:57 | 遠野
 松崎町白岩字畑中(はだげなが)・・・・・。
 
 私が中学生の頃は自動車学校の裏側に少し密集した住宅地があって、後は田んぼ、畑が連なって・・数件の農家のみ・・・、さらに葦といいますか原野みたいになっていて延々と光興寺橋まで続いていたと記憶している。
 しかも道は田圃道といいますか畦道の類・・・・農村地帯といってもまだ私の住む駒木や松崎の方が開けた農村といった思いがございました・・・笑

 今は、農地を残しながらも住宅地が増え、スーパーや大型店舗も立ち並び、まさに商業地帯と農村が融合したなんともいえない雰囲気でもあります。


松崎町畑中・・・バイパスを挟んだ南側は昔小平村といった・・。まだまだ農村といった雰囲気は残っております。

 さて、畑中にはなかなか行くことは少ない、強いて言えばバイパスのスーパーへの裏道として利用するくらいなもの、また観光客も猿ヶ石川を越えた登戸橋近くの「サムトの婆」のレリーフを訪ねる際に素通りするくらいかもしれない・・・。

 前々から気になっていた大木・・・標柱が建っているがなんの木なのか分からなかった・・・。


「畑中のナラガシワ」直系453センチ・・・全国で3番目に大きいナラガシラの木なそうです・・・知りませんでした・・・汗。

 畑中といいますと、歴史話題で恐縮ですが、阿曽沼臣、畑中(畠中)氏・・・。
 本姓を菊池と称し、気仙郡菊田村から天正18年、菊池時成(葛西浪人)が遠野へ移り住み、遠野孫次郎(阿曽沼広郷)に仕え、畑中村に100石知行。
 阿曽沼時代に米の生産高を石で表すということはおそらくなかったと考えますので、後の江戸時代の発想と思われますが、南部藩関係の記録には文禄4年に畑中村に100石・・南部信直(南部藩祖)より拝領。
 時成の子、畑中内膳吉光、吉忠(久左衛門)と続き吉治(久右衛門)の時に八戸氏(遠野南部)が遠野入部(寛永4年)、南部利直(南部藩主2代)より転封を命ぜられ、盛岡へ・・・南部藩士となるも後に畑中氏は絶家となる・・・・。

 畑中には阿曽沼時代、畑中舘があったとされ、舘主を畑中五郎七と伝えられる・・上記に記した歴代のうちの誰かであろう・・・。
 今はそこに畑中舘があったという痕跡は見つけ出すことはできない。
 ひょっとして、ナラガシラの大木のみ知ることなのかもしれない。


畑中のメインストリート
コメント (4)
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