雪の無い穏やかな新年を迎えたと思えば、そのまま1月は早春のような天気が続き、早2月・・・。
1ヶ月はあっという間で過ぎ去ったという感じです。
さて、午後辺りから寒気が強まって冬らしい天気となるとの予報、予てより最新画像の収録、縄張図的な図面作成を考えていた地元松崎町の城館跡めぐりを早期のうちに実施したいと考えておりましたので、雪が降る前の午前中勝負と位置付けて、光興寺の横田城跡と興光館跡を探訪いたしました。
横田城跡(護摩堂)・・・主郭に建つ薬師堂

地元遠野の城館跡調査をはじめて4年、ここ横田城には何度となく通ったが、当初は薬師堂の建つ平場のみを画像に収めるだけ、しかもこの薬師堂、来る度に戸が開いていたり、閉まっていたり、さらに半開きなんていうのもあって、戸の中から誰かに見られている感覚がいつもして、あまり単独では行きたいと思わない場所でもありました。
遠野市指定の史跡でもあり、また全国のお城ファンにとっては、遠野では鍋倉城と共に外すことができない城跡でもありますから、ちょくちょくと観光客含み訪れる場所ではありますので、地元城館調査員としては、より詳しく知っていなければならない立場でもあり、気持ち悪いなんて言ってられない、懐には福泉寺の身代御札を偲ばせて毎回出かけております。(今日は忘れてしまった)
しからば城跡の全容を掴んでいるのか・・・といえば実はまだ北東側の五万堂沢沿いは未踏でもあり、対岸の上の山集落から眺めていただけ、大き目の土塁が展開されている光景は目にはしておりましたが、本日の探訪で流石遠野郷領主の主館とうなる場面しばしば、横田城は他の遠野市内の城館ともまた違った味わいがある城館跡とあらためまして思ったところです。
北東側土塁群(一部)

画像は北東側斜面の中程から下部にかけて配置されている土塁ですが、これがまた結構な数が配置されており、少し出た斜面複数を切岸し半島状にしてその間には縦堀を形成、さらに中には離島のように小山状に切岸してこれらをいくつか組み合わせたもの、すなわち沢方面から攻めあがる敵兵は横隊に広く散開しようと横隊に隊列を組んで攻めてこようと、必ずこの土塁に阻まれ、土塁と土塁の間の窪地を通らなければならない構造で、広く散開した兵もここで一塊となって縦列となる計算、土塁や半島状に配された城方によって集中攻撃を受ける設計とみました。


3年前に八戸の藤九郎さん、八王子の深円さんと横田城背面の遺構を発見、その際に土橋や広めの空掘、そして半島状にせり出した防御施設と思わせる構造をみて、皆で横田城も捨てたもんじゃないと言い合ったこと以上に今回の探訪は良い発見をいたしました。
よく設計施工された館、無論、どの館跡も考えなしに造られたものではないのですが、流石遠野領主、阿曾沼氏主城といったことがもの凄く感じられました。
横田城全景

建保年間(鎌倉時代)に阿曽沼親綱(広綱二男)が遠野へ下向して築城と伝承されるも、鎌倉時代の築城とはどうしても考えられない構造でもあり、伝承は伝承としながらもここらで思い切って史実の本格的な考証、検証が必要ではないのかと思います。
さらに阿曽沼歴代の遠野下向は何時頃か、広く伝えられる系図の真相は、宇夫方氏との関係は、阿曾沼氏はほんとに田瀬から遠野全域、大槌、釜石、山田豊間根まで含む広大な領域を治めていたのか、これらは今後、当ウエブサイト「遠野松崎じぇんご弐・遠野阿曾沼氏の頁」等で考察していきたいと思っております。
それと興光寺館跡も探訪いたしましたが、こちらは後日エントリーといたします。
興光寺跡中腹から遠野バイパスを望む
1ヶ月はあっという間で過ぎ去ったという感じです。
さて、午後辺りから寒気が強まって冬らしい天気となるとの予報、予てより最新画像の収録、縄張図的な図面作成を考えていた地元松崎町の城館跡めぐりを早期のうちに実施したいと考えておりましたので、雪が降る前の午前中勝負と位置付けて、光興寺の横田城跡と興光館跡を探訪いたしました。
横田城跡(護摩堂)・・・主郭に建つ薬師堂

地元遠野の城館跡調査をはじめて4年、ここ横田城には何度となく通ったが、当初は薬師堂の建つ平場のみを画像に収めるだけ、しかもこの薬師堂、来る度に戸が開いていたり、閉まっていたり、さらに半開きなんていうのもあって、戸の中から誰かに見られている感覚がいつもして、あまり単独では行きたいと思わない場所でもありました。
遠野市指定の史跡でもあり、また全国のお城ファンにとっては、遠野では鍋倉城と共に外すことができない城跡でもありますから、ちょくちょくと観光客含み訪れる場所ではありますので、地元城館調査員としては、より詳しく知っていなければならない立場でもあり、気持ち悪いなんて言ってられない、懐には福泉寺の身代御札を偲ばせて毎回出かけております。(今日は忘れてしまった)
しからば城跡の全容を掴んでいるのか・・・といえば実はまだ北東側の五万堂沢沿いは未踏でもあり、対岸の上の山集落から眺めていただけ、大き目の土塁が展開されている光景は目にはしておりましたが、本日の探訪で流石遠野郷領主の主館とうなる場面しばしば、横田城は他の遠野市内の城館ともまた違った味わいがある城館跡とあらためまして思ったところです。
北東側土塁群(一部)

画像は北東側斜面の中程から下部にかけて配置されている土塁ですが、これがまた結構な数が配置されており、少し出た斜面複数を切岸し半島状にしてその間には縦堀を形成、さらに中には離島のように小山状に切岸してこれらをいくつか組み合わせたもの、すなわち沢方面から攻めあがる敵兵は横隊に広く散開しようと横隊に隊列を組んで攻めてこようと、必ずこの土塁に阻まれ、土塁と土塁の間の窪地を通らなければならない構造で、広く散開した兵もここで一塊となって縦列となる計算、土塁や半島状に配された城方によって集中攻撃を受ける設計とみました。


3年前に八戸の藤九郎さん、八王子の深円さんと横田城背面の遺構を発見、その際に土橋や広めの空掘、そして半島状にせり出した防御施設と思わせる構造をみて、皆で横田城も捨てたもんじゃないと言い合ったこと以上に今回の探訪は良い発見をいたしました。
よく設計施工された館、無論、どの館跡も考えなしに造られたものではないのですが、流石遠野領主、阿曾沼氏主城といったことがもの凄く感じられました。
横田城全景

建保年間(鎌倉時代)に阿曽沼親綱(広綱二男)が遠野へ下向して築城と伝承されるも、鎌倉時代の築城とはどうしても考えられない構造でもあり、伝承は伝承としながらもここらで思い切って史実の本格的な考証、検証が必要ではないのかと思います。
さらに阿曽沼歴代の遠野下向は何時頃か、広く伝えられる系図の真相は、宇夫方氏との関係は、阿曾沼氏はほんとに田瀬から遠野全域、大槌、釜石、山田豊間根まで含む広大な領域を治めていたのか、これらは今後、当ウエブサイト「遠野松崎じぇんご弐・遠野阿曾沼氏の頁」等で考察していきたいと思っております。
それと興光寺館跡も探訪いたしましたが、こちらは後日エントリーといたします。
興光寺跡中腹から遠野バイパスを望む
