「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

本姓菊池、駒木氏

2007-02-25 14:14:51 | 歴史・民俗
 青空が広がるも風は冷たい、そんな中、近所に存在する八幡沢館を探訪してまいりました。

 近くなのでいつでも行ける、そんな思いとは裏腹に何故かまだ3度しか探訪していない場所、しかも初探訪では、笹藪から飛び出した黒い塊と遭遇、斜面を丸くなって駆け上がっていく動物を目撃、姿も見えなくなった頃に恐怖心が沸きあがり「ギャー・・」と大声を出しながら来た道を取って返して来た記憶が蘇る、そんな場所でもありました。

八幡沢館・・・馬場跡?


 今回で4度目、午前中一杯をかけて探訪、なんとか図面もとることができました。


帯郭




 天正年間といわれる江刺菊池一族の遠野流入、その中の一族、駒木氏もまた同時代に移って来たものなのか・・・・。

 この八幡沢館は、空掘は確認できないが、広めでよく切岸された帯郭が、はっきりくっきり残されており、天正年間に築館された館といわれれば、そんな感じがしないでもない。

 また馬場跡もあるということで、それらしき広めで奥行きがある帯郭も確認できる。

土淵町似田貝方面・・・主郭から


 小烏瀬川を挟んで南、東側は土淵町、駒木氏とほぼ同時代に遠野へ来たとされる本宿氏の居舘は同じ山野が連なる東側僅か300mのところにある。
 

主郭跡に建つ稲荷社

 古の八幡沢館とは関連無いものと思いますが、主郭跡に稲荷社が鎮座している。
 昭和8年に建てられたらしい・・・・。
 北へ約200mの高台に駒木氏が勧進したと伝えられる八幡神社があるが、一方では前九年合戦での八幡太郎義家に由来する神社とも云われている。
 この八幡沢館含み、この界隈は義家伝説が語られる地でもある。


 天正年間、菊池豊前広道なる武将が阿曽沼氏に仕え、駒木村5百石を拝領し、駒木を治めていたと伝えられる。
 駒木の在名にて、豊前は駒木氏を名乗ったとある。

 嫡男隼人広三は、慶長6年、遠野の政変での赤羽根峠の戦いに遠野方上野広吉旗下として従軍、盲目の17歳の軍師として武功を挙げたといわれるが、17歳の軍師・・・・?

 後に南部利直より旧領を安堵され、八戸直義(遠野南部)が入部した際に遠野を離れ以来南部藩士として命脈を伝えております。
 駒木隼人広三には弟有り、広安といい、こちらも南部藩士の家系である。

 遠野南部家に仕えた駒木氏もございますが、此処八幡沢館と関りある家かは不明ですが、何かしら関連はあるものと考えられます。


八幡沢館・・・松崎町駒木海上



 
 八幡沢館の北東約1キロの山野に駒木館跡がある。
 安倍時代といわれるが、その造りは戦国的で、仲間内でいう遠野規格型館でもあります。
 駒木氏開基といわれる西教寺の存在、天文年間まで遡る伝承もありますが、天正年間に遠野入りしたと伝えられる八幡沢館の駒木氏とは年代が合わず、私は別系の駒木氏が居たのではと考えております。

 駒木館に居た前駒木氏、八幡沢館の後駒木氏、ふたつの駒木氏の謎も取り組んでみたい、懸案ばかりが増えてますが、まずは地元から・・・・です。



 おまけ

 海上舩瀧不動



 いつの頃から存在するかは不明・・・地元古老によると、現在地より北側の沢伝いにお堂はあったといわれ、大水が出た際に流失、さらに別場所に移されるも人家が上方へ移るに従って遷され、今の場所には昭和の初め頃に遷されたといいます。

 明治初年までは、福泉寺五重塔や大観音堂が見える南側の平地(元祖角助の墓)に、集落があったそうです。
 しかし、度々の大火に遭い、家々のほとんどは海上へ移動・・・その当時、防火祈願として不動明王を祭ったのが最初ではないかといわれております。

 6月28日祭礼、地元のご婦人方によるご詠歌がこのお堂で催されます。



 お不動さんということで、福泉寺と何かしら関連があると思っていたが、やはり関係が深いことがわかった。

 宥尊とは福泉寺初代住職
コメント (8)
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