寒気が強まりまとまった積雪との予報は見事的中ながら、積雪は数センチ、お昼過ぎにはほとんど融けてしまった。
それでも時折、小雪が舞ったり風も吹いたりと寒いには寒いですが、どこかしっくりこないが正直なところです。
光興寺橋方面・・・2月2日(雪はほとんど融けてしまった)
興光寺館跡
2月1日、横田城につづき、探訪してまいりました。
興光寺館跡
画像は2月1日のものです
標高340m・比高70m
館主・興光寺靭負(こうこうじゆきいえ)・天正年間~慶長年間
遠野バイパス、光興寺橋正面の山野で主郭とみられる頂部の平場は南北10m東西9m。
郷土資料には南北36m、東西12mと記述されているが、どうみてもその半分程にしかみえない。
北西側の背部は二重の空掘で峰を断ち切っており、土砂等の堆積等も含めて風化が著しい・・・・。
空掘跡
興光寺氏は阿曾沼氏重臣というよりも、直臣といった印象があり、興光寺館からは眼下に畑中、小平の村々(バイパスを挟んで北が畑中村、南が小平村)が見渡せ、遠く松崎館、海上の八幡館も見ることができ、これらの監視をも含む物見場的な館だったのではと考えております。
興光寺靭負は遠野阿曾沼最後の当主、孫三郎広長に従って遠野勢の侍大将として南部勢の一員として最上に出陣、広長留守の遠野は鱒沢広勝、上野広吉等の一門、一族による謀反が起こり、広長は遠野への帰還が果たせず、気仙郡世田米(住田)へ亡命、広長舅の世田米広久や伊達政宗の援助により3度、遠野奪還の戦いを繰り広げますが、興光寺靭負は二度目の戦い、赤羽根峠の戦いで討死と伝えられ、主君に最後まで付き従い、最後は戦場の露と消えたことにより、阿曾沼氏の忠臣として語り継がれております。
残された興光寺氏縁の人々、ご子孫がどうなったのか、その系譜は伝えられているのかは、不明です。
松崎館方面
松崎館主の松崎監物もまた、興光寺靭負と共に一方の侍大将として広長に従い、同じく赤羽根峠の戦いで討死。
こちらも忠臣として語られております。
さて、興光寺館跡の山にもお宝伝説があって、瓶に漆と黄金を入れ土中に埋めたという伝えがあるとか?
なお、光興寺を興光寺と記述しておりますが、以前は興光寺なそうで、館跡に隣接の山野に興光寺という寺院が存在していたようです。
後に廃寺となりましたが、江戸時代の明和年間に大慈寺19世、義山和尚により再興、興光寺を光興寺に改め、いつしか村名も興光寺から光興寺になったとか・・。
おまけ
今年の館跡探訪をとりあえず開始いたしましたが、まずは今まで探訪した館跡の縄張図的な図面及び画像の収録をと考えて、新規に探訪する館跡、再訪となる館跡が混在した調査になるものと思われます。
その中でもまずは地元松崎町を主に考えておりますが、下記に横田城の図面を掲載いたしました。
一般の方々が見てもイメージし易い図面と思いましたが、なかなか難しく、しかも位置のずれやメモの取り忘れ、度忘れもあって若干適当な面もみられます。
いずれ、3Dとか立体的で誰が見ても解りやすい内容に徐々に取り組んで参りますので、とりあえずご勘弁願います。
横田城(遠野市松崎町)
それでも時折、小雪が舞ったり風も吹いたりと寒いには寒いですが、どこかしっくりこないが正直なところです。
光興寺橋方面・・・2月2日(雪はほとんど融けてしまった)
興光寺館跡
2月1日、横田城につづき、探訪してまいりました。
興光寺館跡
画像は2月1日のものです
標高340m・比高70m
館主・興光寺靭負(こうこうじゆきいえ)・天正年間~慶長年間
遠野バイパス、光興寺橋正面の山野で主郭とみられる頂部の平場は南北10m東西9m。
郷土資料には南北36m、東西12mと記述されているが、どうみてもその半分程にしかみえない。
北西側の背部は二重の空掘で峰を断ち切っており、土砂等の堆積等も含めて風化が著しい・・・・。
空掘跡
興光寺氏は阿曾沼氏重臣というよりも、直臣といった印象があり、興光寺館からは眼下に畑中、小平の村々(バイパスを挟んで北が畑中村、南が小平村)が見渡せ、遠く松崎館、海上の八幡館も見ることができ、これらの監視をも含む物見場的な館だったのではと考えております。
興光寺靭負は遠野阿曾沼最後の当主、孫三郎広長に従って遠野勢の侍大将として南部勢の一員として最上に出陣、広長留守の遠野は鱒沢広勝、上野広吉等の一門、一族による謀反が起こり、広長は遠野への帰還が果たせず、気仙郡世田米(住田)へ亡命、広長舅の世田米広久や伊達政宗の援助により3度、遠野奪還の戦いを繰り広げますが、興光寺靭負は二度目の戦い、赤羽根峠の戦いで討死と伝えられ、主君に最後まで付き従い、最後は戦場の露と消えたことにより、阿曾沼氏の忠臣として語り継がれております。
残された興光寺氏縁の人々、ご子孫がどうなったのか、その系譜は伝えられているのかは、不明です。
松崎館方面
松崎館主の松崎監物もまた、興光寺靭負と共に一方の侍大将として広長に従い、同じく赤羽根峠の戦いで討死。
こちらも忠臣として語られております。
さて、興光寺館跡の山にもお宝伝説があって、瓶に漆と黄金を入れ土中に埋めたという伝えがあるとか?
なお、光興寺を興光寺と記述しておりますが、以前は興光寺なそうで、館跡に隣接の山野に興光寺という寺院が存在していたようです。
後に廃寺となりましたが、江戸時代の明和年間に大慈寺19世、義山和尚により再興、興光寺を光興寺に改め、いつしか村名も興光寺から光興寺になったとか・・。
おまけ
今年の館跡探訪をとりあえず開始いたしましたが、まずは今まで探訪した館跡の縄張図的な図面及び画像の収録をと考えて、新規に探訪する館跡、再訪となる館跡が混在した調査になるものと思われます。
その中でもまずは地元松崎町を主に考えておりますが、下記に横田城の図面を掲載いたしました。
一般の方々が見てもイメージし易い図面と思いましたが、なかなか難しく、しかも位置のずれやメモの取り忘れ、度忘れもあって若干適当な面もみられます。
いずれ、3Dとか立体的で誰が見ても解りやすい内容に徐々に取り組んで参りますので、とりあえずご勘弁願います。
横田城(遠野市松崎町)