まずはお知らせ・・・・
遠野ぶれんど仲間で遠野通いブロガーの山猫氏(駿河国在)が来遠予定です。
11日午後に遠野入り、夕方から街でミニぶれんど会を催すことにいたしましたので、市内ブロガーの皆様、コメンテーターの皆様、ご参加をよろしくお願いします。
なお、亘理のタマ千代さんのご来遠は6割、7割方のお出まし方向ということですが、きっと遠野へ来られるものと思いますので、是非にこの機会に山猫氏、タマ千代姫にお会いになられまして、遠野関連情報、ご意見の交換方々、親睦を深められますことをお願いいたします。
後日、懇親会場をお示しいたします。
jengo2@mail.goo.ne.jp
↑に参加表明と共に連絡先等お知らせいただければ嬉しいです。悪用はいたしません・・笑
本題・・・久しぶりに綾織町新里の西風館跡を探訪して参りました。
何度となく遠くから眺めるも、3度目までは実際に山野に分け入ることが出来なかった西風館跡。
場所の特定は出来ていても入山口が特定できず、しかもかなりの高位置にある館跡ということで躊躇もしておりましたし、何よりもその昔、館主一族がほぼ壊滅する戦いが繰り広げられた曰くつきの場所柄、決して一人では行かないでください・・・ではないが、かなりこのことも根底にあって、なかなか足を踏み入れることが出来なかった館跡でもありました。
笠通山方面
館下は母親の実家、叔父や大叔父から千人堀と呼ばれる大き目の堀跡があるはず、さらに郷土資料には度々取り上げられる一族、宇夫方氏縁の館ということで、遠野でも大き目の館域を誇る雰囲気があって、ここは是非ともということで、3年前の初冬に意を決して探訪、きつい山野ながらもイメージ以上に良好な遺構を残すすばらしい館跡でもありました。
主郭背面の空掘跡と土塁跡(一部)
三重の堀で背面の峰を断ち切り、少し風化が進んでいるが、それぞれの空掘が複雑に交差していただろう痕跡がある。
また、堀底の高さ、幅共に遠野では大きい部類に入り、一部藪に覆われてはいるものの、見事と思わせる遺構を残しております。
前面の帯郭
堀跡も見事なら帯郭も見事、整然と5段からなる段状の形状が前面の斜面に張り巡らされている姿は圧巻そのものです。
探訪4度目にして初攻略、5度目は八幡社のある下部の山野を探訪、6度目は八戸市在のI氏と共に探訪、前面の帯郭を共に見、そして今回7度目、なんとか新しい画像と図をとる事ができました。
さて、冒頭でも少し触れてますが、一族壊滅の憂き目にあった館落城の顛末
西風館は綾織方面を領していた谷地館主(二日町)の宇夫方氏が宝徳合戦(宝徳2年1450)に隣国葛西領の金成右京太夫が率いる葛西勢に突如として攻撃されるも鱒沢氏、宮守氏、達曽部氏、稗貫郡の大迫氏の援軍を得て撃退、しかしこの戦いから遠野代官として、また盟主と君臨していた宇夫方氏の勢いは陰りがみえはじめる。
平城の谷地館の防御性能の限界を感じたのか、宇夫方氏(宇夫方守儀)は山城の必要性を痛感したと伝えられ、新里の地に西風館を築き、子の広豊に新館を与えたとされる。
守儀の嫡男広豊は西風館を弟の広国に与え広国は分家となって西風館氏を名乗ったといわれる。
宝徳合戦から約100年の後、広国の孫の代、広本の時に弘治3年(1557)、突如としてまたもや葛西勢の襲撃を受け、しかも夜襲だったと伝えられ、不意を付かれた西風館は館主広本をはじめ嫡男広将、次男、そして郎党の多くも討死と伝えられ、辛うじて奥方に抱かれて難を脱した三男広久(後の西風館大学広久)のみが逃げ延びたと伝えられる。
この事件で遠野西側勢力の重鎮、宇夫方氏は壊滅的な打撃を被り遠野の歴史からひとまず姿を消すことになりますが、宇夫方氏の本流は広豊とあり、西風館は弟の広国に与えられ分家であるといわれる。
この時、本家の宇夫方氏はどうなっていたのか、伝えられる系図等によれば、西風館がいつしか嫡流かのような記載がされ、この事件にて宇夫方氏の動向が伝えられないことを鑑みますと、宇夫方一族は西風館氏が嫡流となり、本来の宇夫方氏もそれ以前に衰退していたものか、或いは西風館氏没落により、同じ命運を辿ったものなのか、いずれ江戸時代に遠野南部氏に仕えた宇夫方氏は西風館大学の末裔でもあるので、西風館氏が宇夫方一族の嫡流となっていたものと思われます。
この襲撃事件、まさにどのような戦いがあったのか、誰に攻められたのか、全く伝えられていないという・・・葛西勢ということになっているが、葛西勢はどのようにして遠野へ侵入してきたのだろうか、これは主家阿曾氏沼氏の影がちらついているのではと先人の研究者も唱えておりますが、まさにその匂いがいたします。
他国の軍勢が密かに遠野に侵入、しかし、これほど各地に大小の館が配置されている遠野、必ずやその動きはキャッチされるはず、これは遠野の内部で手引きし、通り道の館、村々に緘口令を布いていた雰囲気が感じられる。
そもそも遠野でも大きな勢力だったとはいえ何故に宇夫方一族の西風館をターゲットとしなければならなかったのか、これには主家と宇夫方一族との何かしらのトラブルか、主家による陰謀等があったものと推測されます。
ということで長くなりましたが、さらなる詳細は本編サイトにて後で掲載予定です。
おまけ
味噌カッパラーメン
たかむろ水光園清流亭
かっぱとは遠野のラーメンでは辛いを表すものと思っていたが、まさにその通りで辛味噌ラーメンでした。
遠野ぶれんど仲間で遠野通いブロガーの山猫氏(駿河国在)が来遠予定です。
11日午後に遠野入り、夕方から街でミニぶれんど会を催すことにいたしましたので、市内ブロガーの皆様、コメンテーターの皆様、ご参加をよろしくお願いします。
なお、亘理のタマ千代さんのご来遠は6割、7割方のお出まし方向ということですが、きっと遠野へ来られるものと思いますので、是非にこの機会に山猫氏、タマ千代姫にお会いになられまして、遠野関連情報、ご意見の交換方々、親睦を深められますことをお願いいたします。
後日、懇親会場をお示しいたします。
jengo2@mail.goo.ne.jp
↑に参加表明と共に連絡先等お知らせいただければ嬉しいです。悪用はいたしません・・笑
本題・・・久しぶりに綾織町新里の西風館跡を探訪して参りました。
何度となく遠くから眺めるも、3度目までは実際に山野に分け入ることが出来なかった西風館跡。
場所の特定は出来ていても入山口が特定できず、しかもかなりの高位置にある館跡ということで躊躇もしておりましたし、何よりもその昔、館主一族がほぼ壊滅する戦いが繰り広げられた曰くつきの場所柄、決して一人では行かないでください・・・ではないが、かなりこのことも根底にあって、なかなか足を踏み入れることが出来なかった館跡でもありました。
笠通山方面
館下は母親の実家、叔父や大叔父から千人堀と呼ばれる大き目の堀跡があるはず、さらに郷土資料には度々取り上げられる一族、宇夫方氏縁の館ということで、遠野でも大き目の館域を誇る雰囲気があって、ここは是非ともということで、3年前の初冬に意を決して探訪、きつい山野ながらもイメージ以上に良好な遺構を残すすばらしい館跡でもありました。
主郭背面の空掘跡と土塁跡(一部)
三重の堀で背面の峰を断ち切り、少し風化が進んでいるが、それぞれの空掘が複雑に交差していただろう痕跡がある。
また、堀底の高さ、幅共に遠野では大きい部類に入り、一部藪に覆われてはいるものの、見事と思わせる遺構を残しております。
前面の帯郭
堀跡も見事なら帯郭も見事、整然と5段からなる段状の形状が前面の斜面に張り巡らされている姿は圧巻そのものです。
探訪4度目にして初攻略、5度目は八幡社のある下部の山野を探訪、6度目は八戸市在のI氏と共に探訪、前面の帯郭を共に見、そして今回7度目、なんとか新しい画像と図をとる事ができました。
さて、冒頭でも少し触れてますが、一族壊滅の憂き目にあった館落城の顛末
西風館は綾織方面を領していた谷地館主(二日町)の宇夫方氏が宝徳合戦(宝徳2年1450)に隣国葛西領の金成右京太夫が率いる葛西勢に突如として攻撃されるも鱒沢氏、宮守氏、達曽部氏、稗貫郡の大迫氏の援軍を得て撃退、しかしこの戦いから遠野代官として、また盟主と君臨していた宇夫方氏の勢いは陰りがみえはじめる。
平城の谷地館の防御性能の限界を感じたのか、宇夫方氏(宇夫方守儀)は山城の必要性を痛感したと伝えられ、新里の地に西風館を築き、子の広豊に新館を与えたとされる。
守儀の嫡男広豊は西風館を弟の広国に与え広国は分家となって西風館氏を名乗ったといわれる。
宝徳合戦から約100年の後、広国の孫の代、広本の時に弘治3年(1557)、突如としてまたもや葛西勢の襲撃を受け、しかも夜襲だったと伝えられ、不意を付かれた西風館は館主広本をはじめ嫡男広将、次男、そして郎党の多くも討死と伝えられ、辛うじて奥方に抱かれて難を脱した三男広久(後の西風館大学広久)のみが逃げ延びたと伝えられる。
この事件で遠野西側勢力の重鎮、宇夫方氏は壊滅的な打撃を被り遠野の歴史からひとまず姿を消すことになりますが、宇夫方氏の本流は広豊とあり、西風館は弟の広国に与えられ分家であるといわれる。
この時、本家の宇夫方氏はどうなっていたのか、伝えられる系図等によれば、西風館がいつしか嫡流かのような記載がされ、この事件にて宇夫方氏の動向が伝えられないことを鑑みますと、宇夫方一族は西風館氏が嫡流となり、本来の宇夫方氏もそれ以前に衰退していたものか、或いは西風館氏没落により、同じ命運を辿ったものなのか、いずれ江戸時代に遠野南部氏に仕えた宇夫方氏は西風館大学の末裔でもあるので、西風館氏が宇夫方一族の嫡流となっていたものと思われます。
この襲撃事件、まさにどのような戦いがあったのか、誰に攻められたのか、全く伝えられていないという・・・葛西勢ということになっているが、葛西勢はどのようにして遠野へ侵入してきたのだろうか、これは主家阿曾氏沼氏の影がちらついているのではと先人の研究者も唱えておりますが、まさにその匂いがいたします。
他国の軍勢が密かに遠野に侵入、しかし、これほど各地に大小の館が配置されている遠野、必ずやその動きはキャッチされるはず、これは遠野の内部で手引きし、通り道の館、村々に緘口令を布いていた雰囲気が感じられる。
そもそも遠野でも大きな勢力だったとはいえ何故に宇夫方一族の西風館をターゲットとしなければならなかったのか、これには主家と宇夫方一族との何かしらのトラブルか、主家による陰謀等があったものと推測されます。
ということで長くなりましたが、さらなる詳細は本編サイトにて後で掲載予定です。
おまけ
味噌カッパラーメン
たかむろ水光園清流亭
かっぱとは遠野のラーメンでは辛いを表すものと思っていたが、まさにその通りで辛味噌ラーメンでした。