蛍さんの父は廊下に出て行き、扉の陰に蹲ると可笑しくて仕様がありません。
クックックと忍び笑いをすると涙が出てきてしまいました。
すると不意に、
「兄さん、そんなに可笑しいかい。」
と声がして、すぐ隣の病室から義弟が姿を現しました。
どうやら彼はその部屋に隠れて、後から出てきた姉をやり過ごしたようです。
「あんな人でも僕の姉さんなんですから、仕様が無いでしょう。」
そう言う義弟に父は涙をためた笑顔を向けると、
「いやぁ、それでも可笑しくてね、あの年まであんな言葉1つ知らないなんて…、君は知っているんだね。」
そう彼が言うと、義弟はええと頷きました。
「家の者は誰も教えなかったのかい。」
蛍さんの父が重ねて尋ねると、まさかと蛍さんの叔父は言います。そして義兄の隣にしゃがみ込みました。
「とうの昔から、母だって、兄や姉だって、僕自身だって、姉にちゃんと言いましたよ。」
「では何故あんなに物を知らないんだ。」
と父が問うと、叔父は言うのでした。
「姉は、思い込みが激しくて、一旦こうと思ったり覚えた事は、こちらが後から変えようとしても変わらないんです。」
「本当に?そんな人間がいるのかね?」
父は不思議そうに半信半疑でもう1度義弟に尋ねるのでした。
「わざとじゃないのかい?内に来てからは母や父の言う事を聞いて、物事はきちんとしていたようだったが、
それでも時折不思議に感じていたんだ。そんな時はわざと間違えているんじゃないかとも考えていたんだが、
こんな言葉を知らないとなると、これは相当驚いてね、しかもこっちの方が知らないと思われるとは、心外だったなぁ。」
父は可笑しくてしょうがないという風に、あんな姉を持って気の毒な事だと憐憫の情を込めて義弟の顔を見守ります。
「医者でも何度か説明されただろうに、ずーっと誤解して来ている事の方が無理なんじゃないのかなぁ。」
蛍さんの父は如何にも母という人間が不思議で仕様が無いのでした。