名著「葬式は、要らない」。
幻冬舎新書。著者は島田裕巳(ひろみ)さん。
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2010年に出た本だ。当時すでに読んだ本で、それを私は再び読んでいる。
二度目の読書はいいね。
理解が深まるし、年月を経て自分の知識もかなり増えているので、読むのが楽しい。
島田先生は宗教学者である。
この本の出版当時は東京大学先端科学技術研究センター客員教授(↓)だったが、現在は東京女子大学に勤務しておられるらしい。
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この本には、日本の葬式についての島田先生の疑問がいろいろと書かれてある。
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第一章から順番に、・・・
葬式は贅沢、急速に変わりつつある葬式、日本の葬式はなぜ贅沢になったのか。
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世間体が葬式を贅沢にする、なぜ死後に戒名を授かるのか、見栄と名誉。
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檀家という贅沢、日本人の葬式はどこへ向かおうとしているのか、葬式をしないための方法、葬式の先にある理想的な死のあり方。
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因みに私の両親の話をすると・・・
1.葬式をしていない。
2.戒名ももらっていない。
3.墓もない。
焼いて、ただ海洋葬(散骨)を依頼しただけだ。
日本が私の両親みたいな人ばかりなら、この本も出版されなかっただろうね(笑)
私の父は生前私にこう言った。
「普段から何年も会ってもいない人ばかりなのに、自分が死んだあとにその人達にわざわざ遠いところから自分に会いに来てもらう必要がない。それって私にとってはおこがましいことだ。生きている皆さんには、もっと時間を他の有効なことに使ってもらいたい。だから私の葬式なんて不要だ。また死後に戒名をカネで買う意味がわからないから戒名も不要だ。自分は出家もしていないからな。みんな戒名を買いたがるが、戒名の本来の意味を知っているのだろうか。白洲次郎が何と言ったか(=白洲次郎は「葬式も戒名も要らない」と言った)、おまえ(=私のこと)は知っているか? 私は焼いてからただ海に撒いてもらえばいいから」と 。
母は父ほどの合理主義者ではないので、本当はどう思っていたかはわからないが、「私もそれでいい」と言っていた。余談になるが、私は父とは話が合うのだが、母の言うことは理解できないことも多かった。父の話はスッと私の腑に落ちるが、母は腑に落ちない話ばかりしたのである。
・・・なんてことを山荘で考えていた。
たまたま私はこの島田先生の本を山荘に持参していた。最近何人かの方の墓じまいの話を知ったからだ。ご立派な家系で相当立派な墓があり、その墓を引き継げそうな人がいっぱいいるのに、墓を潰してしまうことを決める親族が多いのだ。それはなぜか?・・・と考えていたら、もっと遡って、葬式って何だろう?ということを考えたくなったのである。
山荘でこんな本を読んでいたら、いや、こんな本を読んでいたからか、12月29日に義母が亡くなった。年末にそこから急にいろんなことが動き出した。義父はもう90歳であまり動けない。中心になって動いているのは義姉(=喪主)と妻である。
妻のものの考え方は、私や私の父のそれに似ているが、義姉の考え方はまったく異なる。私からすると随分不思議なポイントがいくつかある。
義姉は神道が大好きなのだ。義姉はある神様の信者らしいのだが、義母の死に際しては義母が形式的には浄土宗に属するということから、神道式の死後に付けられるおくりなではなく、本来なら仏教で生前に出家した僧侶に付けられる戒名が義母に授けられることを望んだ。
そしてインターネットでみつけたウェブサイト(?)で、義母の喪主として義姉は義母の戒名を急遽買って来た。因みに義母はもちろん出家もしていない。極めて俗っぽい(=悪い意味ではなく、現実的で冷静な)人であった。いよいよお別れとなる前には、神主でも僧侶でもなく、義姉自身が義母の前で祝詞(神式)かお経(仏教)かわからないが(その場に私はいなかった)、唱え始めたとのことだ。
優しかった義母のことや、今回のことをいろいろ考えていたら、私は音楽が聴きたくなった。
マイスキーって日本の曲も演奏しているのね。
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浜辺の歌なんてのがあったよ。五木の子守歌も。
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ではそれを。
浜辺の歌♪
沁みるねぇ。
高天からくちを飲んでいるからかな(笑)。
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義母は優しい人だったよ。私にも丁寧に接してくれた。
夜遅くになり、室内が薪ストーブで暑くなり過ぎたので、空気を入れ替えよう。
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「急速に変わりつつある葬式 - 「直葬」登場の衝撃」とある。
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直葬は私にとっては衝撃ではなかった。
ここでいう「直葬」(じきそう、または、ちょくそう)とは故人がなくなった後、自宅に遺体を安置して近親者だけで通夜をし、火葬場に直接送り込むというものだ。つまり告別式とか葬式がないのである。
この本の出版よりはるか前に、私の父は正に「直葬」されたのである。私の母に至っては、遺体が自宅に安置されることすらなかった。自宅はすでになく、一人息子の私から600km離れた病院で亡くなった。コロナ禍の一番酷い時で、人が集まることすら危険視された。母は病院で亡くなり葬儀社の手で火葬場へと直接的に寂しく運ばれた。
だから私にとって直葬なんて衝撃でも何でもないのだ。
それで済むと考える私のような人にとって、現代において広く行われている葬式の多くは不思議なことでもある。
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それでもまだ葬式とは、私にも理解できることではある。
故人と関わった人や故人に世話になった人が、故人のことを思い、故人をお見送りする儀式なのだから。
私が理解できないのは戒名だ。
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まず本来的な話として、戒名とは出家した立派な人である僧侶が、生前に授かるものだ。
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ところが現代多く行われているのは、生前出家もしなかった俗世界の人である故人のために、その死後になって遺族がカネを出して戒名を買うという行為である。
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そしてこんなことが行われる仏教国は日本以外にはない。
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お寺は「戒名がないと極楽浄土へ行けない」と言って、戒名を授かることを故人の遺族に勧め、相当な額のカネを取って似たような漢字を組み合わせた戒名を捻りだして来る。
俗人のためにカネで買う戒名などまったく意味がないと、私は不思議に思うのだ。
因みに、私の父が死んだ時「戒名無し、葬式無し、墓無し(海洋葬)」について、私はあるお寺の僧侶にその問題点を尋ねた。その方がおっしゃるには「まったく問題ない」とのことだった。死んだら土に還るまでのこと。戒名や葬式があろうがなかろうが、だれもがただ土に還るということらしい。
かつては埋葬方法の多くを占めていた土葬が、現代の日本の多くの場所で不可能になってしまっている。したがって厳密なことを言うと、故人のお骨は通常は骨壺に入れられ、それが墓石の下部のカロート(唐櫃、骨壺を安置するスペース)に置かれているから、土には還っていない。しかしまあ地面に近いところにはあるので、意味的には土に還ったと言えなくはない。問題はマンション型というか、建物の中の墓である。あれでは土に還ったとはまったく言えない。
私がお尋ねした僧侶はそのような意味のことをおっしゃった。恐ろしく先進的な考えを大胆に披露してくださった僧侶だったね。仏教界からは、それが今の仏教界の経済的基盤を崩すものととして嫌われそうな考え方だ。しかし物事を突き詰めて考えればそういうことになると私も思う。
土に還るという意味からしたら、私の両親の海洋葬(散骨)は最も基本に忠実な方法ではある。
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葬式、戒名、墓。
加えて日本の墓って、基本的に家単位でつくるのはなぜだろう。個人別の墓ではなく、家単位で、複数の人の小さなお骨をひとつの墓の下の狭いスペースに一緒に入れることは、昔は支配的だった埋葬方法である土葬が日本では限られた地域以外で見られなくなってしまったことにもよるのだろう。加えて特に都市部やその郊外では人口密度の高さから土地が足りないことにもよるのだろうね。
女性の多くは嫁として戸籍上は別の家に入るが、墓が家単位になることにより、やがてその女性が亡くなると、生家とは別の嫁ぎ先の家の墓に、お骨となって入るケースが多い。なぜ?と私は思う。「そんなのごめんだわ」と思う女性も多いはずだ。そりゃそうだろう。私は男だが、私だったらそんなの絶対嫌だ。
「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利に ・・・」と日本国憲法に定められているが、戦後作られて来た日本の墓の多くが個人単位でないのは不思議だ。いろいろと不可解で、酷ですらあると思える日本の墓。
それだけ大変なことが多く、やたら高くつく墓なのに、その多くが世代が替わると墓じまいされてしまう近年の現実。
やっぱり私は散骨でいいわ。嫁じゃないけど(笑)。
考えるとキリがないが、歴史的にも浅い現代の様々な習慣がある。惰性的妄信的にそれらに従うのではなく、そもそも何のためにそれをしているのかってことくらいは、基本に立ち返って考えたい。
【つづく】