資格マニアの徒然草ブログ

目標としていた70歳で五百資格、2年前倒しで達成しました、これからはジャンルに関係なく、徒然なるままに書いていきます。

日本伝統文化検定のテキストを入手

2024年10月12日 | 地理・歴史系資格とその活用

 

 新聞の広告欄に載っていた、日本伝統文化検定、面白そうなので、テキストを購入。amazonnで翌日届いた。テキストは270頁、結構分厚い。

 目次を見ると、ジャンルは、伝統工芸と伝統文化、伝統工芸には、陶磁器・ガラス、金工・木漆工、和紙・染織、建築・庭園・美術。伝統文化には、伝統色・文様、茶道・和菓子・日本茶、食文化・歳時記、芸能と、ずいぶんと幅広い。さっそく、陶磁器とガラス、金工・木漆工を読んで見みたが、まあ理解できる。

 この試験は、現在は、2級、3級があって、70%以上が合格。CBT方式だから、受験チャンスも多いだろう。楽しみながら、じっくり学習していこう。まずは、3級から。

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重伝建・日本百名城の小江戸川越を散策

2024年06月28日 | 地理・歴史系資格とその活用

 孫のお宮参りで小江戸川越へ。土曜日とあって、川越の氷川神社は朝から混んでる。

 お祓いをしてもらった時に神主さんから聞いたが、運気は風に影響される。そのため、境内には風を感じられる風鈴や風車が沢山あるそうだ。そうか、そういうことか。

 神社の木、榊(サカキ)。実はサカキは関西、ヒサカキは関東に多い。関東では、ヒサカキをサカキと呼んでる。

 サカキは全縁(葉っぱにギザギザがない)で冬芽が爪のように出る。一方、ヒサカキは鋸歯(葉っぱがギザギザ)で冬芽は小さい。そしてガスの匂いがするのはヒサカキ。これは、ギザギザのあるヒサカキだ。

 そして御朱印、ここの御朱印で、「知恵いづ」と言うのがあった。知恵いづとは、松平信綱、川越藩主、家光に寄り添って幕府を助けた。知恵があることからこう呼ばれた。

 それじゃ、買おうとすると、このお札は、月に2回だけ、時間を限って売られているという。ハハ~ン、ブランドを上げる商法か。受験生の親などが買いそうだからね。

 最近のおみくじ、釣り竿で吊り上げるもの、芋掘りの鍬で掘り起こすものなど、結構楽しい仕掛けになってる。アイディアが誰が出すんだろう、きっと専門の企業があり、おみくじ部門の従業員が知恵を出してるんだろうね。

 さて、昼食を戴く。COEDOビールか。

 せっかくだから、菓子屋横丁に寄る。

 ここは芋菓子がメインか。

 そして、重伝建地区、重伝建とは、重要伝統的建造物保存地区の略。現在は日本で127地区。川越もこれに選ばれて20年以上経過している。

 今日は百名城の川越城はパス、日本で数少ない御殿がある城跡。土曜日の今日は、通りは人でいっぱい。特に外国人が目立つ。オーバーツーリズムだよ。日本人で賑やかでないとね。

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新しいコレクションかな、古墳の御墳印

2024年03月26日 | 地理・歴史系資格とその活用

 武蔵松山城のお隣は、吉見百穴(よしみひゃくあな)、国指定の史跡だ。せっかく来たのだからと入場。私は埼玉県人だが、吉見百穴は初めて訪問する。

 吉見百穴は、古墳時代の横穴墓だ。付近は凝灰質砂岩と言って掘削しやすい性質。明治時代から、住居か墳墓がと、論争があったらしいが、現在は墳墓で決着している。

 穴の数は百穴どころではない、全部で、237基もあるそうだ。戦中は、地下軍需工場になってもいた。

 もう一つ、ヒカリゴケというコケがある。穴から覗くと、確かに何やら光っている。

 最後に受付で、「御墳印」を見つけた。吉見百穴の御墳印。埼玉県には古墳が多く、県内各地と連携して、御墳印を作っているのだそうだ。もし、気分が変わって、御墳印を集め始めたら、あの時買っておけばよかった、となってしまう。念のため、無駄になってもと、1枚三百円を購入する。

 百名山、百名城、鉄印が終わって、次を考えると、まんざらでもないな、御墳印。

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洞窟巡りに付き合って~探検コースは結構面白かった、阿武隈洞

2024年03月08日 | 地理・歴史系資格とその活用

 宇都宮城、阿武隈急行、飯坂温泉に続き、最後は阿武隈洞だ。この鍾乳洞巡りは、配偶者の趣味。過去、秋芳洞、龍泉洞、龍河洞、玉泉洞などを巡っていて、阿武隈洞は、ほとんど最後の訪問洞だ。

 この鍾乳洞は、一般のコースの他にプラスして探検コースを選択できる。探検コースは、孔が低くなっていて、腹ばいに近い状態で進む場所もある。頭も何回かぶつけた。写真もそこそこ写っていたので、紹介する。

 この鍾乳洞は、昭和40年代に発見された。周囲はたぶん石灰岩の崖だろう。

 コースの案内図。ピンク色の探検コースが面白いというので、追加料金を支払う。洞窟の中は、他に観光客はなく、ほぼ貸し切り状態だった。

 さて内部だ。地底湖。

 鍾乳石。いいぞ。

 広い場所に出た。ライトがカラフル。

 石筍というのか、これは凄い高さだ。

 リムストーンは、秋芳洞に比べると、ちょっとね。

 樹氷にクリスマスツリー。

 何とも言えない景色。

 鍾乳洞の最後は、ワインの貯蔵庫。

 外国人では、台湾の方々が圧倒的だ。

 昭和48年の鍾乳洞観光、ものすごい人の列。

 この阿武隈洞、なかなかの洞窟探検でした。

 

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飛鳥時代の食べ物、「蘇」を食す

2024年03月04日 | 地理・歴史系資格とその活用

 しばらく前、大和三山を歩いた。その時の話。天の香具山の麓に牛乳やさんがあった。中に入ると、「蘇」(そ)を売ってる。

 これ一度食べて見たかったが、中々売ってるところがなかった。ここで味見した後、1個千円ちょっとで購入。宿に戻って、中身を確認、そして少し食べてみる。

 牛乳を煮詰めて作るから、牛乳?チーズ?の味だ。結構、美味しい。ネット販売はしていないようだが、アマゾンでは奈良の別の店でも販売してる。一度試してみたら。

 そう言えば、この「蘇」のほかに、似たような食べ物で「醍醐」という食べ物があった。しかし、醍醐は、その味は、今もわからないらしい。醍醐味、なんか蘇に似てるような。

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朝護孫子寺の日本三大絵巻、信貴山絵巻を観る

2024年02月21日 | 地理・歴史系資格とその活用

  第1次国宝シリーズ第3集「朝護孫子寺信貴山縁起絵巻」1968 

 大阪城を観た後は、奈良駅前に泊り、翌朝は王寺から朝護孫子寺へ。ここにある信貴山城へと向かう。山全体は朝護孫子寺という大きなお寺だ。まずはここから。このお寺も先週参拝した壷阪寺に負ける劣らず大きい。

 入口には大きな張子?の虎だ。去年は阪神のおかげでにぎわったろうな。

 ポストまで虎だ。

 融通(ゆうずう)さん、あの「融通が利く」の融通さんだ。ここにお参りすると融通が利くようになる。周りにお参りさせたい人もいるかな。

 結構大きいお寺だ。

 多宝塔。まだ、新しそうだ。

 そして、空鉢護法に登っていく。この登山道は、お城と共通だ。

 山頂へ。二上山と金剛山が見える。

 降りて霊宝館へ、ここにはあの有名な信貴山絵巻がある。日本三大絵巻だ。レプリカだけどね。本物は奈良国立博物館だが、秋の一定期間、それも一部だけしか公開されない、鳥獣戯画と同じだな。

 レプリカは、3巻とも展示されていて、じっくりと見ることができる。2巻目の童子が車とともに走る様子。

 朝護孫子寺は、起源は聖徳太子まで遡れるが、信長が松永久秀を攻めるときにお寺もやられてしまった。再建は、秀頼。扁額もこの時のもの。

 帰りのお土産屋には、虎、虎、虎だ。似たような光景を思い出す。そうか、信楽に行った時の狸、狸、狸によく似てる。さて、明日は、松永久秀の信貴山城です。

 

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飛鳥のついでに壷阪寺へ

2024年02月17日 | 地理・歴史系資格とその活用

 飛鳥検定を終えて、帰るまではまだ時間がある。そこでお隣の駅、壺阪山から壷阪寺に参拝。この壺阪寺、ニ三年前、百名城の高取城に行くときに、そばを通った。ずいぶん大きいお寺だな、と思ったくらい。

 このお寺は、眼病封じのお寺だ。

 巨大な石仏。

 多宝塔。

 本堂だ。

 奈良検定で出て来た、陀羅尼助(だらにすけ)。漢方の胃腸薬だ。

 お土産代わりに目薬を。

 お里・澤市の浄瑠璃、私、よくは知らないが有名な物語だそうだ。最初のセリフは聞いたことあるけどね。

 しかし、このお寺、介護施設などずいぶんと多角経営して成功しているようだ。さあてと、これで飛鳥検定とは、暫く離れる。次のチャレンジは、温泉名人かな。

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第1回飛鳥藤原京まるごと博物館検定を受験!!

2024年02月16日 | 地理・歴史系資格とその活用

 さあ、試験日(2月10日実施のもの)。朝は宿の近鉄飛鳥駅そばのペンションから、飛鳥公民館まで歩くことにした。約30分で、到着。ここは規制があるのか、全部の家が屋根付きだ。市役所も大きな屋根だ。

 飛鳥公民館だ。もう受験生と思しき人が入ってる。

 二階に案内される。

 試験は4択で70問、試験時間は90分だが、私は30分で退席。自己採点では、まあ大丈夫だろう。

 晴れ晴れとした気持ちで、再び徒歩で飛鳥駅へ。もう完全に飛鳥びとになった気持ちで歩く。鬼の雪隠だ。

 この標識も見慣れた。

 駅近くには、アスカルビーのイチゴ狩りが。

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飛鳥検定の受験で明日香へその3~飛鳥時代の寺社跡を巡る

2024年02月14日 | 地理・歴史系資格とその活用

 飛鳥巡りその3は、寺社跡を巡る。飛鳥遺跡とその翌日の大和三山巡りで出会った寺社跡だ。飛鳥時代は、奈良・平安時代のもっと前だ。従って、今はもうない寺社跡、廃寺も遺跡として残っている。

 まずは、飛鳥川の畔、橘寺の前にある川原寺跡、今は別のお寺が建ってる。川原寺は、天武朝では、飛鳥寺、大官大寺、薬師寺とともに四大寺に数えられていた。

 川原寺の配置は礎石が残ってるためか、しっかりわかっている。

 礎石は瑪瑙(めのう)入りだそうだ。でもどこが瑪瑙かはわからない。ちなみにこの日の二日後の本試験では、めのうの入った礎石のある寺はどれか、という出題があった。1問いただき。

 お寺からは広い敷地が見渡せる。向こうには橘寺。

 そして、甘樫丘の先、豊浦寺(とゆらじ)跡。推古天皇が宮とした、豊浦宮は、このお寺の前身だ。ここから飛鳥時代が始まった。

 大和三山巡りで出会った、元薬師寺跡。礎石の数が凄い。

 もう一つ、紀寺(きでら)跡。小山廃寺とも言う。詳しくはよくわかっていない。

 紀寺跡からの天の香具山、ここからが一番格好がいいね。

 明日は、いよいよ大和三山巡りです。

 

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飛鳥検定の受験で明日香へその2~飛鳥の遺跡を巡る

2024年02月13日 | 地理・歴史系資格とその活用

 石の文化の次は、遺跡巡り、前回11月に訪問した時は、飛鳥宮だったが、日曜でちょうど現地で発掘調査の報告会をやっていた。それに工房の跡、飛鳥池遺跡を見学した。(写真は11月訪問時のもの)

 今日はまず、飛鳥京跡苑池。発掘を終えて、今は普通の土地になっている。発掘時は、南北に池があったそうだ。

 今は何もない。

 ここには休憩舎が建つ。中に入ると発掘時の様子や古代のイラストとがある、一部を紹介。

 そして飛鳥水落遺跡。ここには日本最初の漏刻(水時計)があって、時刻が来ると太鼓を叩いたそうだ。役人の出勤の時間を知らせるものだ。実物や模型でもあるかと思ったが、表示板だけ。漏刻の模型は滋賀県の近江神宮にあった。

 お隣の石神遺跡、古代の迎賓館だったそうだ。遺跡が見当たらず探したが、工事中の場所がそうだった。というか、工事じゃなくて、発掘だな。ここからかなり昔、石人像や須弥山石が出土した。

 その隣に明日香村の展示施設がある、入場は無料だ。展示品の中からいくつか紹介する。万葉集が書かれた木簡。

 日本書記の写本、江戸時代の写本だそうだ。

 最古の暦、飛鳥時代のカレンダー、木簡だ。

 お隣の甘樫丘(あまかしのおか)に登る。

 曇天で景色はさえない。翌朝、大和三山に登った朝は快晴、再びこの丘に登った。快晴の三山全景はそちらで。写真は曇天の畝傍山と耳成山。

 そして天の香具山(左に耳成山)

 明日は、飛鳥、藤原京の社寺跡です。

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飛鳥検定の受験で明日香へその1~石の文化を巡る

2024年02月12日 | 地理・歴史系資格とその活用

 飛鳥検定(正式名称・第1回飛鳥藤原京まるごと博物館検定)に受験とその学習をするために、出かけた。初日は飛鳥の石の文化、遺跡、社寺跡を巡る。翌日は大和三山の登山、そして翌々日は検定の受験というスケジュールだ。まずは、石の文化の学習から。近鉄飛鳥駅からレンタサイクルで、石の文化を巡る。この飛鳥時代は、不思議な石の文化が存在する。

 まずは、猿石。吉備姫王墓にある4つの石だ。伎楽の仮面劇で使われたものという説がある。当時の海外の影響があるのだろう。右が山王権現、左が女。

 右が僧、左が男。

 次は、鬼の雪隠(せっちん)、石槨の一部だ。そばにある鬼のまな板とセットになっていたが、何らの原因で分かれてしまったようだ。

 少し上流の鬼のまな板。雪隠は、まな板から転がり落ちたそうだ。

 そして、一番なじみやすい、亀石。亀石が西を向くと、洪水が起こるという伝説。これはその通りだろう。

 今回の石の文化は、ここまでだが、前回訪問した際の写真があるので、それを紹介。まずは酒船石

 亀形石造物

 そして、石神遺跡から発掘された須弥山石石人像

 橘寺の二面石

 石の文化はここまでです。明日は、飛鳥の遺跡です。

 

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飛鳥・藤原京検定の学習その4~壬申の乱と瀬田の唐橋

2024年02月03日 | 地理・歴史系資格とその活用

 大津歴史博物館に行くと、大津京の模型がある。そのお隣に壬申の乱の展示だ。壬申の乱は、古代史最大の戦いだ。天智天皇亡きあと、後継を巡って、天皇の弟と天皇の子が争ったものだ。弟の大海人皇子は、吉野から、伊賀、伊勢を通って、近江へ。子供の大友皇子は、瀬田の唐橋で迎え撃つ。最後は大海皇子が勝って、天武天皇になった。皇后はきらら、のちの持統天皇だ。

 ここで決戦だ。橋を巡っての戦い。

 こちらも、模型まである。

 じゃあと、まだ時間は間に合う、瀬田の唐橋へ。京阪電車で一本だ。唐橋前駅で降りて、瀬田の唐橋へ。琵琶湖マラソンはこの当たりを通るのか。

 瀬田の唐橋を通る、結構交通量は多い。

 渡り切り、橋を一枚。黄金色というか、そんな色だ。

 橋のたもとには、「瀬田橋を制する者は天下を制する」と。古代には、壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、俵藤太伝説、中世では、義経と木曽義仲の戦い、承久の乱、そして、本能寺の変で、明智光秀の安土城進撃が阻止された。いずれも歴史上の事件だ。そんな歴史の舞台が、ここ、瀬田の唐橋だ。寒かったが結構満足した、唐橋見物でした。

 追加で思い出したこと。「急がば廻れ!」、このことわざは、瀬田の唐橋のこと。昔、京都から東方面へは、琵琶湖を横切って渡る方が距離は短かった。しかし、天候の影響からか、渡れない時も多く、結局、遠回りして、瀬田の唐橋を経由た方が速くなる、ということわざだ。瀬田の唐橋は歴史から国語まで影響があった。

 

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飛鳥藤原京検定の学習その3~大津京・近江神宮へ

2024年02月02日 | 地理・歴史系資格とその活用

 出張前泊の旅、お次は、大津京と近江神宮。大津京は、天智天皇が唐・新羅軍に白村江で敗れ、侵略の危険を感じて、大阪湾に近い飛鳥から、遠い琵琶湖のほとりに都を移したものだ。

 天智天皇が逝去して、壬申の乱が起きて、大友皇子が敗れるまで、ここは日本の中心だった。天武天皇(大海人皇子)や持統天皇(さらら)も同行していた。そして、天智天皇を祭神としたのが近江神宮である。

 JRには大津京という駅がある。そのものだ。当時は、琵琶湖に外国船が入ってきて、賑わったそうだ。

 駅のポスター、ここはカルタの発祥の地か?

 そして、京阪電車で近江神宮駅へ。近江神宮は、とにかくデカイ。

 まずカルタ(百人一首)に眼が行く。

 おお、天智天皇に、持統天皇だ。持統天皇の歌、この歌は藤原京から見た天の香具山の風景だ。この持統天皇のカルタだけは、小学生の頃から知ってた。持統って、女性だが、変な名前だと思っていた。

 そして漏刻(ろうこく)、水時計の複製だ。展示館には、天智天皇が近江で初めて作ったと書かれていたが、飛鳥では水落遺跡で初めて作った、となっている、どっちだ?

 駅に戻る途中に、大津京の遺跡を発見。木杭か、復元だな。

 ここに天智天皇やのちの持統天皇らが住んでいたんだ。

 という訳で小雪の舞う大津京は、これでおしまい。翌日仕事が終わって、大津歴史博物館へ行く。ここには、大津京の模型があると聞いたのだ。まずは写真。

 次に模型だ。

 そして隣に、壬申の乱の展示が。壬申の乱の決戦は、瀬田の唐橋だそうだ。ここからは近いから行ってみよう。それは、明日のブログで。

 

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飛鳥・藤原検定の学習その2~皇子は皇位につくか、変死するかだった

2024年01月31日 | 地理・歴史系資格とその活用

 

 飛鳥・藤原京まるごと博物館検定の学習を続けている。今日は皇位周辺の争いについて。飛鳥時代は、天皇の候補で、いろんな「皇子」(みこ、天皇の子)が頻繁に登場する、沢山登場するので、よくは覚えられない。そしてよく殺される。あんまり多いのでその数が気になる。

 飛鳥時代、天皇は、欣明、敏達、用明、崇峻、推古、舒明、皇極・斉明、孝徳、天智、天武、持統、文武、元明と続く。13人だ。また天皇の候補、皇子はたくさんいるが、何らからの理由で変死した皇子も沢山いる。

 ①穴穂部皇子は、用明天皇の崩御のあと、馬子によって誅殺された。②山背大兄王は、舒明天皇との皇位争いで敗れた後、入鹿に襲撃され自害、聖徳太子の子孫が滅んだ。③有馬皇子は、斉明天皇の甥、謀反をそそのかれ、裏切りで処刑。④大友皇子は、天智天皇崩御の後、壬申の乱で敗れ自害。⑤大津皇子は、天武天皇崩御の後、謀反の疑いで処刑、後無実が判明。⑥これに加えて、崇峻天皇はなんと天皇本人が暗殺されている。

 天皇の周辺で半分近くが、殺されているか、変死している。13人の天皇の中には女性天皇も3人いるから、13-3=10人の男子天皇の半数が、血みどろの戦いの中で天皇になるか、それに巻き込まれている。

 11月に飛鳥へツアーで出かけた。上の写真は偶然出会った飛鳥発掘の現場、飛鳥の地って、のどかで、いいなあ、と思っていたが、歴史を勉強すると、なんか、凄くない?

 

 

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飛鳥・藤原京検定の学習その1、なぜ男系の皇統は維持できたか

2024年01月16日 | 地理・歴史系資格とその活用

 

 予定していた奈良まほろば検定が、防災イベントとブッキング、しようがない飛鳥・藤原まるごと博物館検定一本に絞ることにした。会場検定だが、東京を早朝出発すれば何とか試験時間に間に合う。という訳で学習を継続。その中で感じたことを書いていく。初回は、皇統の継続だ。

 古代は女性天皇が多かった。奈良時代は、八代六名の女性天皇がいた。飛鳥時代に限れば、五代四名だ。男性天皇と同じくらいの数だ。推古、皇極・斉明、持統、元明と続く。皇極と斉明は重祚(一旦退位して再び天皇になる)だ。

 このうち、3名は天皇になる前は皇后だったし、1名は子の天皇が逝去した後、次の子がまだ幼いためピンチヒッターとして天皇になっている。

 ただし、その女性天皇が、別の豪族の男性などとは結婚していないし、子も設けてはいない。まあ、ある程度年齢も行っているから子を産むのは難しかったんだろう。最後まで独身だった。つまり、血の繋がりである皇統は、男性天皇の血を継続しているということだ。愛子様のような若い独身の女性皇族が天皇になってはいない。

 現在、愛子様のような女性皇族が、天皇になる女性天皇論が一部で出ている。しかし、古代から現代までず~っと、皇統は男性だ。これは男性でないとY染色体が続ないからというのが、最新科学の成果だそうだが、古代はどうだったんだろうか。まさか当時、染色体のことなどわかろうはずがない。

 このテキストを読んで、その理由がようやくわかった。まず、初めは血が繋がっていれば、誰でもよかった、男子だけというルールもなかった。当時は、皇后は皇族の出身、つまり近親婚だった。だから血が繋がっている皇后も即位する資格を持っていた。

 次に、飛鳥時代の半ば、天智天皇が「父系による直系継承」を「不改常典」というもので定めた、とある。これで男系が続いているようだ。

 とにかく、世界史で最長である、日本の天皇の皇統は千数百年間守られてきたのである。これって、誇らしいことだ。歴史を学習して、68歳になる今、感じてることである。

 

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