10月10日
前日にも私たちのコーラス・フェスティバルの指導をしてくださった先生たちのコンサートがすみだトリフォニーホール
で開催されました。大作を演奏しきった皆様の写真がface bookに載っていました。晴れやかですね。
練習中にも時々、マーラーとシュトラウスの曲の詩の意味とかお話ししてくださっていて、とても興味が増していたところでした。
以前にもクリスティアーネ・カルクというソプラノで四つの最後の歌を聞いたことはあるのですが、詩をはっきりと把握していなかったので
今回はちゃんと詩を読んでから行こうと思いました。
〈プログラム〉
☆一柳慧作曲 弦楽オーケストラのための「インタースペース」
☆リヒャルト・シュトラウス作曲「四つの最後の歌」
ソプラノ 山畑晴子
☆グスタフ・マーラー作曲「大地の歌」
アルト池田香織 テノール安藤英市
演奏:イル・テアトロ・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:篠崎靖男
コンサートマスター:平澤仁
ソプラノ:山畑晴子
メゾ・ソプラノ:池田香織
テノール:安藤英市
一柳慧の音楽は難しいのかと思っていたら、とても聴きやすく、このシュトラウスとマーラーの人生最後の作品の
前に演奏されるのにふさわしい曲だと思いました。まるで自分の存在がなくなっていくような感覚になって行きました。
オケの演奏も美しかったです。
先生たちの企画の文化庁の助成を受けたコンサート。こちらもドキドキですが、コンサートの始まる前のオーケストラの音合わせを
久しぶりに聞いて始まる感覚すごく好きなのです。どこかワクワクします。
山畑先生のソプラノ、声にいろいろな表情があり、オペラのときとは違う魅力がありました。人間の声という楽器が
オーケストラの楽器に負けていません。素晴らしかったです。
死後の世界とはと想像しながら、聴きましたが、なんという安らぎに満ちた曲なのでしょう・・光に包まれていくような
明るい方へと向かっていくような曲。それはシュトラウス自身の体験に基づいているとのことでした。
「大地の歌」はマーラーらしいパーツがちりばめられている曲で、大地はこの命の地球を表していて、ドイツ語の意味と
訳にはギャップがあります。生きとし生けるものの地球です。
R.シュトラウスの曲は3曲がヘッセの詩だったことを昔聴いた時にはちゃんと把握していなかったように思います。
その時はアンコールのやはりシュトラウスの「あおい」と「明日」という曲に感動していたと書いてありました。
大地の歌はかなり大変な曲なので解説を抜粋しました。
マーラー
■大地の歌 Das Lied von der Erde
この作品全体を貫いているのは、悠久の大自然のなかで「この世」(これは「大地」と訳されているErdeと同じ)の人間の生がいかに
はかなく虚しいものであるかという感情である。
曲名にあるドイツ語の‘Erde’とは、英語で言えば‘earth’である。確かに地球、大地、土を意味するのではあるが、一見してわかるように、
この作品では、人生のさまざまな様子が描かれている。主人公はあくまでも人間なのだ。あれもこれもひっくるめた、現世あるいは
地上での生活についての歌、もっとおおづかみにすると、人生についての歌なのである。
狭心症の発作を起こし,健康を害したマーラーが,現世への告別の歌として書いたのがこの「大地の歌」です。その名のとおり,全6楽章の
すべてに独唱(「テノール」と「アルトまたはバリトン(以下アルトとのみ書きます)」が入るという変わった”交響曲”です。管弦楽伴奏付き
の歌曲といっても良いような作品です。
歌われている歌詞も西欧で作られた作品としては珍しく,李白,孟浩然,銭起といった中国の詩人の作った詩のドイツ語訳がテキストとして
使われています(ただし直訳ではありません。以下の解説中の詩人の名も確定したものではありません)。これは,20世紀前半の「東洋趣味」
の流行と関係があるのかもしれません。
歌詞の内容,曲の雰囲気は厭世的なものとなっています。マーラー自身,「第9」のジンクスをかなり意識しており,ベートーヴェン,ブルックナー,
シューベルトといったウィーンゆかりの作曲家が皆,第9交響曲を書いて死んでいることを恐れていました。そのため,この「大地の歌」を第9番と
せず,番号なしで交響曲「大地の歌」と名づけました(タイトルには「交響曲」という語は入っていないのですが,サブ・タイトルに交響曲と明記されて
います)。その後,第9を欠番として,「第10番」を完成させましたが,その初演に接することなく1911年に51歳で亡くなっています。結局この
「10番」は現代では,「第9番」と呼ばれていますので,マーラー自身,「第9のジンクス」を破れなかったことになります。少々「意識し過ぎ」
ですが,その辺がマーラーらしさとも言えます。
第1楽章 大地の悲しみによせる酒の歌 Das Trinklied vom Jammer der Erde(歌詞:李白による)テノール独唱この交響曲では,テノールとアルトという2人の独唱者が1曲おきに登場します。第1曲は,テノール独唱が加わります。この第1曲は,酔った勢い歌っているような曲です。歌詞は3節からなっており,それぞれが”Dukel ist das Leben, ist der Tod!(生は暗く,死も暗い)"という句で結ばれています。第2楽章 秋に寂しきもの Der Einsame im Herbst (歌詞:銭起による) アルト独唱緩除楽章的な性格を持っている楽章です。弱音器をつけたヴァイオリンによって静かな秋風を思わせる音形がしみじみと演奏されます。この音形は楽章を通じて,ほとんどずっと続いています。その上にオーボエが憧れに満ちたメロディを演奏します。この音型は第1楽章の動機と共通しています。これがフルートで繰り返された後,アルトが「秋霧がつめたく湖面をわたる」と下降するメロディを歌い始めます。「花の甘い香りは消え去り..」と歌います。少し高揚したあとすぐに静まり,「私の心は疲れた」と孤独な心を歌います。「私はやってきた。私に憩いを与えてくれ。私には休息が必要なのだ」と歌う部分では伴奏のヴァイオリンの響きと相まって,非常に美しいクライマックスを作ります。独唱は「孤独のうちに泣こう」と歌います。オーケストラが高揚した後,静まり,独唱は「愛の太陽はもう一度現われてはくれないのだろうか」と歌います。第3楽章 青春について Von der Jugend(歌詞:李白による) テノール独唱第1楽章,第2楽章はそれぞれ10分近くかかり,最後の第6楽章は30分近くかかります。その間に入る第3~5楽章は比較的規模が小さい楽章となります。この第3楽章は,その中でもいちばん短い楽章です。東洋的な音階が親しみやすくテレビCMでも使われたこともあります。神秘的な気分になり,水面に映っている情景を歌います。第4楽章 美について Von der Schonheit(歌詞:李白による) アルト独唱フルートと弱音器を付けたヴァイオリンが別々のメロディを演奏し始めます。独唱は,乙女たちの花摘みの情景を歌います。
岸辺で疾走する馬の様子が歌われます。
第5楽章 春に酔えるもの Der Trunkene im Fruhling(歌詞:李白による) テノール独唱
「終日,酒に溺れよう」「そのまま眠り込んでしまおう」と歌います。
冒頭のホルンの動機が,全合奏のオーケストラと共に戻ってきます。テノールは最後,奔放に「私にとって春が一体何であろうか?私を酔いしれ
させておいてくれ」と歌い終わります。全曲中この楽章だけは華々しく結ばれます。
第6楽章 告別 Der Abschied(歌詞:孟浩然と王維による) アルト独唱全体の半分の長さを占める長大な楽章です。マーラー自身の現世に対する別れの言葉のようです。激しい慟哭よりはペシミスティックな諦めを感じさせる楽章となっています。それと同時に大地に対する賛歌となっています。アルトがわびし気に「太陽は山なみの後ろにかくれ」とわびし気なメロディを歌い始めます。鳥の声を表すフルートだけが,寂しく答えます。「おお見よ,月が青い空に,銀の小船のようにかかるのを」と夕べの情景をしみじみと歌います。
ハープとクラリネットによって,小川が流れるような流麗な音楽が始まり,その上にオーボエがしみじみとしてメロディを演奏します。その後,
独唱が夕暮れの小川の情景を歌い,フルートが応答します。音楽は美しい盛り上がりを見せます。
その後,第2楽章に現われた寂しげな動機が出てきて「疲れた人々は家路をたどる」と歌います。オーケストラにはいろいろな動機が出てきて,
暗くなっていく大地を歌います。
冒頭に出てきたのと同様の低弦が出てきて,独唱は「鳥は静かに枝の上にうずくまり」と歌います。オーケストラの方にも鳥の声を描写するような
音が出てきます。それが眠るように消えると,大地も静まります。
第2部は低く静かに伸ばされた音の上に,独唱が松の木陰で友を待つ身の上を寂しく歌います。ここでもフルートだけがこれに答えます。マンドリンと
2台のハープの上にフルートが歌い始め,ヴァイオリンがロマンティックに引き継ぎます。この部分のマンドリンの響きはどこか箏を思わせる東洋的な
雰囲気を持っています。
独唱は友を待ちわびる歌を歌います。音楽は憧れに満ちた気分を持って盛り上がり,自然の美しさを賛美します。冒頭に似た雰囲気になり,次の部分への
橋渡し的な部分になります。
「故郷に向かってさまよい行こう」と歌い始めます。オーケストラは感極まったように,ハープの伴奏の上に甘い音楽を演奏します。チェレスタや
マンドリンが加わり,彼岸の音楽のような美しい響きの中で独唱は大地を讃える歌を歌います。「永遠に,永遠に(Ewig...Ewig...)」という言葉が繰り返し
歌われた後,オーケストラは次第に静まり,余韻を残すように全曲は終わります。
長女マリア・アンナの死に遭い、自身も心臓疾患の診断を受けていた。同年暮れには、10年間務めてきたウィーン宮廷歌劇場の音楽監督を辞任し、
渡米するという転機を迎えている。マーラーにとって、死が身近なものとなり、音楽活動だけでなく、実生活面でもヨーロッパとの訣別という心情が
あったと考えられる。
この最終楽章のためにあるような曲ですね。アルトの低い声がとてもあっていました。人間という小さな命が大きな地球に戻っていくような感覚です。
父方の祖母が亡くなったとき、庭の土を見て自然のものは自然に返してあげようと思ったことを書きながら思い出しました。
「大地の歌」の作曲は1908年、晩年精神と肉体の病気と闘った彼は1911年に51歳の誕生日目前に敗血症により亡くなっています。大きな足跡を残した
マーラーの生涯でした。
コンサートの朝、このコンサートのことが数日前の読売新聞に載っているとコーラス仲間から
聞いていたので図書館に新聞を見に行きました。
その時の青空と赤い実がきれいだったので思わすスマホで撮りました。空も高くて秋の空になって
来ているのかしら・・ とんでもなく暑い日も続いていますが。急にぱらついた雨の中、
サッカーボールをしょった男の子が自転車で通り過ぎていきました。その後またすぐ晴天。
最近知ったオラフソンのサインが置いてありました。
演奏曲を聴いてインスピレーションで描かれた出演者の友人のNY在住のRyok Goto女史による絵が飾ってありました。
この頃小さな子供を電車の中などで見ることが多く、本当に不思議に思ってしまいます。コンサートの行き道にも電車では双子の赤ちゃんと
また別には生まれたばかりのような赤ちゃんを連れた女性がいました。この小さな生き物が、魂を持っていてそれが成長していく不思議。
どんなに小さくてもかけがえのない個性をもっています。
その前の日ももう少し大きい子たちに会い、家の近くでも長い髪の小学生が走ってきて、娘の小さなころを思い出しました。
10月7日
同じくすみだトリフォニーホールでの新日本フィルの公開リハーサルに誘っていただき出かけていきました。
リハーサルで聞いたのはドヴォルザークの謝肉祭とシベリウスのシンフォニー2番です。
秋山和慶さんは若い頃しか覚えていないので、すごくギャップがありました。巨匠なのですね。。
声があまり聞こえませんでしたが、こだわりの曲作りでした。
コンマスは以前にも見た崔 文洙(チェ・ムンス)
ドヴォルザークの謝肉祭は彩が豊かな楽しい曲でした。多分一度くらいはコンサートの1曲目で聞いたことがあるかと
思います。
シベリウスは最近よく聞く曲ですが、最後のところがやっぱり決め手でそこを何度もまとめていました。曲の最後って
すごく重要だと改めて思いました。
大きな自然に包まれるような広々とした曲です。
このゲネプロの帰りの電車の中のニュースで知った小三治さんの死はショックでした。やっと聞きに行けるようになったのに、
もう少し聞きたかったなーと思いました。ドキュメンタリーでも見ていたように病気でも高座に上がってしまう人です。それが
彼が生きているということだったのだから仕方がないのですが・・・