あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2008年茫洋長月歌日記

2008-09-30 10:27:11 | Weblog


♪ある晴れた日に その40


逝く夏やあまたの栗を拾いけり 


紋黄揚羽の雄が由比ヶ浜真っ二つ

名月や五人揃いし美人かな

道端に魚の尻尾が落ちていた

水に漬け叩きつけたるわがパソコン

おんどりゃ誰じゃあ正体明かせ

オラオラ、オンドリャガアア~

片脚を置いてどこかへ消えた人

一ヵ月発注がない怖さかな

彼岸花刈られず残りし力かな

月下美人誰一人見ず散りにけり 

紺碧の翡翠熱帯魔境に消ゆ
 
この場所で死んだ人を覚えている


暮れなずむ夕陽か
はたまた朝焼けか
わが心なる行き合いの空 

生きることは苦しきことなり
朝毎に
私の骨は激しく痛む 

輪舞 輪舞 輪舞
三組の蛇の目蝶のカップルが
生き合いの空を舞っていた 

道端に栗がひとつ落ちていた
誰も見ていなかったので
拾って帰った 

卒中の後遺癒えざるも
理髪師は
巧みにわれを切りたり

紺碧の翡翠
故地を
魔境に変える

佐渡の空
発信カードつけて飛び立ちぬ
100%中国産のニッポニア・ニッポン

ご丁寧に発信筒をつけられて
佐渡の空に放たれしは
中国産ニッポニア・ニッポン

結局は
他人がやっていることには興味がない
ということになるんだな

ドミンゴもフレーニもゼフィレッリもみな若かった
クラーバーがオテロ振りし
76年12月7日ミラノの夜

スカラ座の罵倒にめげず
オテロ振る
カルロス・クライバーの雄々しき姿

われのみが
段ボールを捨てるらし
雨音しげき火曜日の朝

この場所で
確かに人は死んだのだ 
世界は死に塗れている

誰もが知っている
小さなことを
ひそやかに語りたい

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日中共同研究「「満洲国」とは何だったのか」を読んで

2008-09-29 17:21:29 | Weblog


照る日曇る日第165回

いわゆる満州国について私たちの父祖たちが行った行為について、私たちはあまりにも知らなさすぎるのではないだろうか。
おりから珍しくも日本と中国の歴史家たちが共同で「満州国」について研究した成果を集大成した本書が刊行されたのは意義深いことだった。

日本から見ても中国から見ても、政治経済生活文化面から見ても、民族自決の観点から眺めても、日本帝国主義の軍事的侵略と植民統治の奇怪なアマルガムであるこの偽国家の威勢の良いでっち上げとその最後の土壇場の目も当てられない無様な崩壊は、日本人の本性をあますところなく全世界に見せつけるむごたらしくも口悔しい事例となった。

そしてその源流を垣間見るためには、「韓満ところどころ」で無邪気に一等国の優越感に浸って二等国民を見下していた漱石子規の時代、いな本当は日清日露以前の征韓論の時代までさかのぼらなければならないが、だがしかし、もしも一九三一年九月一八日の柳条湖事件なかりせばと思ってみるのも阿呆なことか。

とにもかくにも、頼まれもしないのに自分の勝手な都合だけでよその国に武装して乗り込んでいって、気に入らないやつを皆殺しにしたり、自分で鉄道を爆破しておいてそれを他人のせいにして罪をなすりつけたり、反対する者を投獄したり、拷問したり、「丸太」と称して生きたままでマウス代わりに細菌実験の検体にしたり、土地や財産を取り上げたり、異国の太陽神や王を拝ませたり、生産物や収穫の大半を取り上げて異国に送らせたり、それらの行為をけっして悪事とは認識せず、八紘一宇だの王道楽土だの五族協和のために行った素晴らしく善いことだ、もしもどこか悪い点があったとすれば、それはその悪事を余儀なくしたもっと悪い奴らのせいだと世界に向かって公言した。

侵略と植民地支配の被害の実体的質量は、加害者から見ても被害者から見ても共通して等価であるはずだが、その認識は、加害者には霞のようにおぼろで、時と共にすみやかに忘れ去られ、対して被害者側には子子孫孫にまで痛々しく伝承される。
私はこの本で今まで知らなかった多くの事実を知らされて、日本人の普段は柔和な心性の深奥部には秘められた爬虫類の暗黒領域が根強く横たわり、そこには武と暴への陶酔が現在もなおめらめらと隠微な炎を消さずにいるのではないだろうか?という疑いを懐いた。あるいはそれは万国に共通するフロイドが説いた「エス」に起因するのかもしれないが。

満州には自分で望まずに渡った人やかの地で生まれた人も数多くいたが、志願して渡満した人もいた。漱石の「それから」に登場する平岡は、三部作の最後の「門」では安井と名前を変えるが、彼は日本ではうまく行かず、満州へ行って一旗揚げようとたくらむ。

帝大を出たインテリの安井には満州が日本の正当な領土であるという確信などあるわけがない。しかし、うさんくさい新天地ではあるが、もしかするとそこは己の胡散臭さにふさわしい新世界かもしれない。すでに先が見えたこの本国にはないものが満州にはあるかもしれない。その海のものとも山のものともつかない新天地で新しい自己実現を果たそうと見果てぬ夢を見るのであるが、まさにそのときこそ一個人が自覚的に侵略に乗り出した瞬間ではなかっただろうか。

のちになって日本帝国は余剰国民男女を国策で強制的に満州へ移民させるが、当時の日本には左翼崩れをはじめそういう了見の人物がごまんといたのである。

♪一ヵ月発注がない怖さかな 茫洋

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残雪の「暗夜」を読んで

2008-09-28 10:09:45 | Weblog


照る日曇る日第164回

そういえば私も時々夢を見る。いつものように見る夢だ。会社でリーマンをやっていたときの話だ。

わが親しきリーマン・ブラザーズが続々と登場して、中間管理職の私に対してある種の決断を迫るのだ。

会社はバベルの塔のような高い高い塔の上に聳えていて、いつも雲や霧で覆われている。

塔の下は荒涼たる海原だ。世界の中心からきびしく隔離されているので訪れる人もまばらだ。私たちリーマンは外来者に期待せず、またわずらわされることもなく、ここ数カ月来のテーマである、「父母未生以前の真面目とは何か」に真摯に取り組んでいた。

部下Aが「それは天然の旅情というものではないでしょうか」というので、私は少し考えてみたのだが、どうもその答えは問いに対して正しく答えているとは思えない。しかしその答えのどの点が正しくないのかさっぱりわからなかったので、仕方なく、「天然の旅情から父母未生以前の真面目が誕生しないとは言えないけれど、この問いが期待している答えとは、そのような情緒的なものではないでしょう。もそっと実証的なもの、もそっと科学的なものではないだろうか」と答えた。すると部下Bが、「では課長、そのもそっと実証的なもの、もそっと科学的なものとはいったいどういうものなのですか」と迫ってきた。

困った私が思い余って波が立ち風が荒れ狂う眼下の海を眺めやると、おりよく巨大な一羽の鳳がやってきた。

鳳はその優美な形態に似合わない不気味な声でひとこえ鳴いたが、その鳴き声がなにを意味するのかは私にはさっぱりわからなかった。部下Aにも理解できないようだ。

そこで部下Bが鳳に「Never more?」と大声で尋ねると、鳳は目玉をぎょろりと半回転させて、しかし何も答えず、胸壁で見張りに立つ私たちリーマンの帽子を灰色のくちばしで順番にたたき落してから、小雪が舞い落ちる暗黒の空高く舞い上がったのであった。
♪彼岸花刈られず残りし力かな 茫洋
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続 ロナルド・トビ著「「鎖国」という外交」を読んで

2008-09-27 10:38:05 | Weblog


照る日曇る日第163回

秀吉、家康を経て我が国は鎖国に突入したというこれまでの学説を全面的に否定したのがロナルド・トビさんの本書である。幕府は一方ではキリスト教を禁じ、日本人の海外渡航と帰国の制限、ポルトガルの追放を行ないつつも長崎、対馬、薩摩、松前の「4つの口」を絶えず開放して琉球、朝鮮、中国、ロシア、オランダなどの異世界との交易と情報交流を継続しながら幕末に至ったと説く。それはそうかもしれないが鎖国体制が存在しなかったとまでは強弁できないのではないだろうか。

それはさておき、この本の面白さは朝鮮通信使など絵画に描かれた異国人の解説である。異国人をどのように描くかは、日本人がどのように異国人を認識しているかということでもある。南蛮人と出会う前の日本人にとって世界は、「本邦」と「唐」、「天竺」の3つの世界しかなかった。「三国人」から多国籍「万国人」への視点の広がりに対応して、我が国の画家たちはそれまで類型的であった「毛唐人」の顔や体形や衣服や装束を琉球人と朝鮮人と中国人の実態に合わせて写実的に描き分ける様になるが、それは正確な国境の測量と地図の完成に比例している。

著者が次々に取り出してくる絵画や地図が興味深いのは、そこに当時の日本人たちの世界観と彼らの自己同一性の位相がはしなくも表現されているからである。

江戸時代の初期まで我が国の成人男子はひげを蓄えるのがマッチョとされて一般的だったが、幕府が安定してくると後水尾天皇の頃からはそりおとすようになる。黒澤明の「七人の侍」では不精な有髭だった武士たちが、ゴリゴリの法治国家となった近世では無髭を強制され、「月代・髷・ひげなし」の三点セットが日本の「国風」をあらわす身体的な特徴になった。とトビさんは説くが、なにあと二〇年もすればこの国も、もっとゴリゴリの超国家主義体制が一世風靡して、新しいメンズファシズム三点セットが汝忠良なる臣民に強要されるようになるだろう。

それはともかく、第三章「東アジア経済圏のなかの日本」、第五章の「朝鮮通信使行列を読む」や第六章「富士山と異国人の対話」などは通史の枠をはみ出して生き生きと叙述され、これは小学館版「日本の歴史」の白眉と言うてもあながち愚かではないだらう。

♪ご丁寧に発信筒をつけられて佐渡の空に放たれしは中国産ニッポニア・ニッポン 茫洋
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ロナルド・トビ著「「鎖国」という外交」を読む

2008-09-26 14:36:48 | Weblog


照る日曇る日第162回

 663年の天智天皇の「白村江の戦」は同盟国の救援という大義名分があったとしても、豊臣秀吉による文禄・慶長の役は明々白々な海外侵略であった。

この狂気の戦によって日本軍は多数の敵兵を殺しただけでなく老若男女の民間人を貴賤の別なく殺戮し、その耳や鼻を大量に切り取り、塩漬けにして秀吉のもとに搬送したのみならず、島津、藤堂、伊達、毛利、加藤、小西などの諸将は数万人を下らない朝鮮人捕虜を一種の戦利品として国内に拉致し、陶工を有田、唐津、萩、薩摩苗代川などに監禁して陶磁器の生産に従事せしめ、あまつさえ少なからに人数を東南アジアやヨーロッパに奴隷として売りとばした。

 私たちは北朝鮮による日本人の拉致を金正日の専売特許のように非難するが、それに先駆けてそれと同じような行為を私たちの英雄と称えられるご先祖たちが大手を振って敢行していたこと、またこれらの蛮行はすぐる大戦においても帝国軍人によって各地で繰り返されたことを忘れてはいけないだろう。

秀吉のみならず隆盛、利通などの明治の元勲たち、そして昭和の軍人の一部はとかく中国、朝鮮、台湾、琉球などの異邦の人々を己よりも下位に見てもっぱら軽侮、差別し、軽々に植民地支配を企図し、実践したが、本書では三代将軍家光が明朝の再興をめざす鄭芝龍一派に加担して対清遠征軍派遣計画を立てていたという驚くべき史実が明らかにされている。(137p)

私たちの黄色い肌の下には、何世紀経っても侵略戦争大好きのDNPが潜流しているのであらうか。


♪結局は他人がやっていることには興味がないということになるんだな 茫洋


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さらばプロムス2008

2008-09-25 11:35:52 | Weblog


♪音楽千夜一夜第41回 

この夏8週間にわたって英国各地で繰り広げられたプロムス2008が9月13日のラストプロムスをもって終了した。

私のパソコントラブルのために多くのプログラムが聞けなかったのは残念だ。諏訪内選手の鋭いヴァイオリンは聞けたが、ポリーニやブレンデルやウチダミツコを耳にすることができなかったのも残念無念。毒にも薬にもならないサイモン・ラトルとベルリン・フィルのただうるさいだけの演奏にはほとほとうんざりしたが、晩年の輝きに静かに燃えるベルナルド・ハイティンク指揮のシカゴ響が素晴らしいマーラーを聴かせてくれた。

若くしてロイヤルコンセルトヘボーのシェフとなってフィリップスに数多の凡庸な録音を残したこの大根指揮者が、よくぞここまで円熟の境地に達したものである。どうかベルリン・フィルと果たせなかったマーラーの交響曲の全曲録音をシカゴと入れてほしいものだ。

ここ数年は私も疲れ、英国も、世界も、さだめしあなたも疲れ、古典音楽じたいぐったりと疲れているせいだかなんだかよくわからんが、ともかく最終日のあの熱と感動が失せていくのはいかんともしがたいところである。往年のマルコム・サージェント、コリン・デービス、アンドルー・デイビスの熱っぽい演奏といかにも英国人らしいスピーチが懐かしい限りだ。あの英国ナショナリズムはちょっとグローバル・ナショナリズム的なところがあり、「なるほどこれがかつて7つの海を制覇した大英帝国の歌の根っこなのか」と判然とするところが、すこしくありますね。

去年はチエコの凡才ビエロ・フラーベックだったが今年のトリはロジャー・ノリントン爺。例のノン・ビブラート奏法でワグナーやらベートーヴェンのなんと合唱幻想曲を狼少女エルモーのピアノで格調高く演奏したが、エルガーの「希望と栄光の国」をノンビブラートで演奏する暴挙に出たニリントンはただの馬鹿野郎か。テンポもリズムもめちゃめちゃで英国国歌につづく恒例の「蛍の光」のア・カペラの大合唱も聴衆のノリはいまいちだった。結局ターフェルの巨大な一吠えにシカない小手先だけの演奏だ。

来年はどうあってもアンドルー・デイビスをアメリカのピッツバークから呼び戻してBBC響を♪ヒップ、♪ヒップ、♪ヒップさせてほしい。


♪ドミンゴもフレーにもゼフィレッリもみな若かったクラーバーがオテロ振りし
76年12月7日ミラノの夜 

♪スカラ座の罵倒にめげずオテロ振るカルロス・クライバーの雄々しき姿 
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息子の言葉『父の遺したもの』第2回

2008-09-24 10:11:12 | Weblog


ある丹波の家族の物語 その10&♪遥かな昔、遠い所で第83回

オルコット作「若草物語」を読んでの父の感想は、次のようなものでした。
「何でも買うことのできる金持ちは不幸です。」

また父は、特殊学級の先達者、杉野春男氏(小倉市、四七年モスクワ空港で没)の「花に水やりを教えられた精薄児が、雨の中、傘をさして水をやる姿に感動す。」という言葉をメモしていますが、私は、障碍児を孫に持った父なりの関心と苦悩がこれを書かせたのだろうと想像しています。

キリスト者としての父については、実は私はよく知らないのです。けれども信仰が父の生きる糧であり、絶えず聖書の言葉を胸に刻みつつ生活していたのは、熱意と集中力をもって書き遺された聖句のメモがおのずとそれを物語っています。とりわけ私が驚かされたのは「ヘブル書一一章」と「使徒行伝七章」。この二つの章は旧約聖書を凝結したものである」との断定でした。

さらにまた五九年四月二二日、イースター昇天祈祷会における中島牧師の言葉、「イエスの復活は信仰の出発点である。」も、父の心にしっかりと触れたのでしょう。

父はおそらくこうしたメモを下駄の商いを営んだと同じ、暗くて狭い仕事場で書きつけ、折にふれて思考を反芻し、一人の信仰者として、一人の市民として、一介の商人としての在るべき道を必死で摸索し続けたのでしょう。

私は息子として、そのことにいささかの感銘を覚えたものですから、父の許しも得ずに、つい長々と駄文を連ねてしまいました。
私はクリスチャンではありませんが、いま何者かに一生懸命に次のように祈りたいと思います。「死せる父よ、死んでも私たちと共に在って、私たちを見守ってください」と。

一九八五年九月一三日


♪丹波竜わたしの実家を闊歩して 茫洋
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息子の言葉『父の遺したもの』第1回

2008-09-23 13:43:22 | Weblog


ある丹波の家族の物語 その9&♪遥かな昔、遠い所で第82回


父が私たちの前から、それこそ忽然として姿を消してから早や1年を迎えようとしています。

最近の日本人の平均寿命からいえば、短すぎた生涯ではありましたが、その最後の瞬間が、隣人への奉仕に捧げられていた事実に象徴されるように、その71年の生は父なりに充実し、終始一貫していた一生であったように思います。

百年余の歴史を持つ地方の商家をつつがなく経営し、3人の子供を大学にまで入れてやり、信仰を培い、傍目もうらやむ夫婦愛を晩年に至るまで守り育てた男、それが父でした。
当たり前といえば当たり前、世間でよくある話じゃないかといわれればそれまでですが、その平凡な人生を、普通の人として淡々とやり遂げた父と、その父を傍らで力いっぱい支え続けた母に対して、私は大きな拍手を贈ってあげたいと思います。

父は死後2冊の小さな覚書を残しました。粗末なメモ用紙に父らしい几帳面な筆致で晩年の日々に書き残されたこれらの文章の多くは、やはり父自身の言葉ではなく、古今東西の作家、思想家の言や、聖句からの引用であります。

内村鑑三、椎名麟三、夏目漱石、キェルケゴール、ドストエフスキー、森有正、遠藤周作、亀井勝一郎、マリア・テレサといった有名人の言葉に交じって、次のような書き抜きがありました。

「五七年一月一三日、ワシントン・ポトマック川に航空機墜落の時、一人の紳士ヘリコプターの命綱を二回も人にゆずり、自らは河の中に沈んだ。」

おそらく父は、もし自分がこの紳士の立場にあったらどう振る舞えただろうと何度も自問したに違いありません。


♪一歩くたびにポケットの中で鳴くんだよニイニイゼミが 茫洋
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孫の言葉『おじいちゃん』第3回

2008-09-22 16:54:48 | Weblog


ある丹波の家族の物語 その8&♪遥かな昔、遠い所で第81回


八月九日 ねんど

きのうねんどで遊びました。

はじめハンバーグを作って、クッキーも作りました。クッキーは、ABCDEFGHIの形にしました。

おいじちゃんに「おひとつ、どうぞ。」と言ったら、「お、上手にしたなあ。」と言いました。

ボールも作りました。そのボールで、おじいちゃんとキャッチボールをしました。

ねんどは重いので、ちょっと手がいたかったです。


八月十日 おはかまいり

今日の朝、早起きをして、おじいちゃんとお母さんとおはかまいりに行きました。

じょうろで、花立てのところに水を入れて、持ってきたトレニアとしゅうかいどうをさしました。

そして、おまいりをしました。

「○○の、おなかに赤ちゃんができました。どうか、元気な子が生まれるように守ってやってください。」とおじいちゃんが言いました。○○とは、お母さんの名前です。

そして帰りました。


♪誰も知っている小さなことをささやかに語りたい 茫洋

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孫の言葉『おじいちゃん』第2回

2008-09-21 10:10:10 | Weblog


ある丹波の家族の物語 その7 ♪遥かな昔、遠い所で第80回


一二月二九日 おてつだい

 おじいちゃんは、はき物店をしていて、毎日げたをすげていました。

わたしが「げたのうしろのシールをはる。」と言って、シールのカンをとって中のシールを出しました。

シールには「てらこ」と書いてあります。お店の名前が「てらこはき物店」だからです。

できあがったげたへどんどんはっていきました。

はりおわって、たいへんな仕事やなと思いました。


小学四年生、夏休みの日記から
八月三日 ほたるがり

きのうの夜、おじいちゃんとほたるがりに行きました。

川の近くに一ぴきいました。

「ほら、あれがほたるだよ。」とおじいちゃんが言いました。

わたしは生れてはじめてみました。

「本当、きれいね。星みたい。」
わたしは空の星とほたるを見くらべました。

おじいちゃんが、「つかまえられないから帰ろうか。」

「うん。」と言って帰ろうとしたら、もう一ぴきいました。


♪耕君はいま昼食を喰らいつつ今晩のメニューを尋ねる大谷崎に似たり我が家の長男 茫洋
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孫の言葉『おじいちゃん』第一回

2008-09-20 11:43:00 | Weblog



ある丹波の家族の物語 その6 ♪遥かな昔、遠い所で第79回


―小学三年生、冬休みの日記から
きょうはおじいちゃんと、なわとびをもっておはかまで、さんぽしました。

おはかについて、さかをのぼっていくと「○○家」とかいたおはかがありました。○○とは、おじいちゃんのみょうじです。

中に入ってみると、おはかが五つありました。手をあわせておいのりをしてから、おはかのまえでなわとびをしました。

あとでおじいちゃんが「じゅうじかのところまでいってタッチして、またもどってくるからとけいではかっといて。」と言いました。わたしは、ちょうどデジタルどけいをもっていたので、「いいよ。」と言いました。

「よーい――どん」と言ったとたんにおじいちゃんがはしりました。じゅうじかにタッチしてもどってきました。そしたら、なんと五四秒でした。


♪紋黄揚羽の雄が由比ヶ浜真っ二つ 茫洋

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父の言葉『思い出の記』第四回

2008-09-19 09:17:32 | Weblog


ある丹波の家族の物語 その5 ♪遥かな昔、遠い所で第78回


「おそらくキリスト教より立派な宗教があるかもしれない。それだのに、そんな宗教をさがさないのは、キリスト教が私の求めるものに対して必要にしてかつ十分な保証を与えてくれているので、他の宗教を探す気になりません。」

干天で乾ききった土に慈雨が降ったように私の胸にしみとおりました。この文を目にしたことを心から感謝します。

神よ、常にこの迷える者にみ手をさしのべてください。1980年五月『丹陽』第三号より

―テモテヘの第二の手紙
「私が世を去るべき時はきた。私は戦いをりっぱに戦い抜き、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や義の冠が私を待っているばかりである。


♪紺碧の翡翠熱帯魔境に消ゆ 茫洋
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父の言葉『思い出の記』第三回

2008-09-18 11:03:28 | Weblog


ある丹波の家族の物語 その4&♪遥かな昔、遠い所で第77回



さて、誠にたよりない足取りで信仰の道をたどりはじめましたが、聖書に記されている数々の奇跡を、如何様に頭でなく心で受け入れる信仰をもつことができるかと、迷い続けました。

この世の常識を越えたい岩のようなこの難関を突破しなければと、立ち向かうたびにハジキ返される思いをしました。そして、私ごとき者は、とてもみ救いにあずかる信仰は持つことはできないのではないかと思っていました。―私の拙い筆ではこのあたりを上手に表現できないのです。―

 水に浮かぶ根なし草のようなこの信仰を力づけ、励ましてくれたのはクリスチャン作家椎名麟三氏―戦争中筋金入りの共産党員として検挙され、長い間東京の警察署をグルグルとタライ回しされている間に、神の存在を知り転向した人―の「生と死に就いて」の中で書かれた次の文章でした。

「一体信じられないことは信仰の浅さや罪の深さの証明でせうか。端的に申し上げれば、キリスト教には信じるか信じないかのようなせっぱつまった自刃のやいばは持っていないのであります。キリスト教においては不思議なことと思われませうが、信じられないということもそのまま充分に生きていけるようにされています。」

この場所で確かに人は死んだのだ 世界は死に溢れている 茫洋



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父の言葉『思い出の記』第二回

2008-09-17 14:19:54 | Weblog


ある丹波の家族の物語 その3 ♪遥かな昔、遠い所で第76回

 私は、子供のころから今日まで、内向的で人見知りする性で、しばしば自己嫌悪におちいることがあります。そして早くから罪ということを意識していました。

 どの兄も私を無理に教会に連れて行くことをしませんでした。私自身、このような罪ある者は教会に行く資格なしと、愚かにも敬して遠ざかっていました。

 旧制商業高校を出ると兄の商売を手伝って、ますます礼拝出席がおろそかになりました。その間にあって、今に至るまで頭に焼きつき忘れ得ないのは、「汝らのうち罪なき者まづ石を投げうて」のみことばです。

このみことばに就いて評論家、亀井勝一郎氏は「私は感動なくしてこの一節を読むことはできません。その背後にある大沈黙が私を感動させるのです。深い叡智と偉大な愛情のごとき沈黙に感動します。」と書いておられますが、私はわが意を得たり、とうれしく思いました。

が、次の文章で「キリスト信者の最大の嫌みはその罪悪感であります。彼らは自分はこのような苦しみを経験した。このような罪を犯したと罪の意識を忘れぬようにし、懺悔こそ神に愛される道であると安心して、罪の意識の深さを誇るのは傲慢である。」とあります。

これには衝撃を受けました。氏の説が全部正しいとは思いませんが、大いに反省させられました。

♪水に漬け叩きつけたるわがパソコン 茫洋

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ある丹波の家族の物語 その2

2008-09-16 11:51:56 | Weblog


♪遥かな昔、遠い所で第75回

父の言葉『思い出の記』第一回

私は大正二年、岡山県倉敷市に生まれました。父は、私が九歳の時に亡くなりましたが、姉一人、兄六人、妹二人という賑やかな家庭でした。

倉敷教会は、田崎健作先生の精力的な伝道で発展し、県内でも指折りの教会になっていました。

 母と長兄夫婦は弘法大師を拝んでいましたが、五人の兄は大学在学中に洗礼を受けました。私のすぐ上の兄、豊は母に内緒で同志社大学神学部を受験、合格しました。母はとても立腹しましたが、田崎先生の説得に折れて入学を許しました。

 同級に東方信吉先生がおられました。この兄が在学中夏期伝道のため、ひと夏綾部に来て、当時小学生だった家内らと共に楽しく過ごされたそうです。

 また後年、東方先生が丹陽教会を牧されたことをお聞きしてその巡りあわせに驚きました。


われのみが段ボールを捨てるらし雨音しげき火曜日の朝 茫洋
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