照る日曇る日 第1987回
嫌味な同級生のサミュエルが遊園地へ行ってヘルメットを買ってもらったという自慢話を始めました。
それに負けじとガスパールが繰り広げる壮大な遊園地行きのほら噺が圧巻。
遊園地の社長とパパが友達から始まって、オウムとカラオケして、恐竜によじ登り、しまいにはリサも加わって、シャチと遊んで打ち上げ花火を楽しんだ大空想のおはなしを繰り広げるのでした。
ガザ市にて700人の子供らの四肢を斬りたる悪魔を憎む 蝶人
照る日曇る日 第1987回
嫌味な同級生のサミュエルが遊園地へ行ってヘルメットを買ってもらったという自慢話を始めました。
それに負けじとガスパールが繰り広げる壮大な遊園地行きのほら噺が圧巻。
遊園地の社長とパパが友達から始まって、オウムとカラオケして、恐竜によじ登り、しまいにはリサも加わって、シャチと遊んで打ち上げ花火を楽しんだ大空想のおはなしを繰り広げるのでした。
ガザ市にて700人の子供らの四肢を斬りたる悪魔を憎む 蝶人
照る日曇る日 第1986回
うさぎのリサとガスパールが新学期に登校しますが、担任の先生がおっかなそうなので、校長先生に直訴して別の先生のクラスに編入してほしいと訴える!
紆余曲折があって、結局は元のサヤに収まるのですが、それにしても気に喰わない担任を忌避して別人に取り換えられるという発想が凄すぎる。
日本ではあり得ない話柄を、粛々と展開してのける驚愕の絵本です。
「腐りかけのタイが一番旨いのよ」と腐り果てたる自民党がいう 蝶人
闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3446~50
1)ポール・アンダーソン監督の「バイオハザード」
2021年製作、ゲーム原作のサスペンス映画シリーズの第1弾でミラ・ヨヴォヴィッチが美しい。
2)ポール・アンダーソン監督の「バイオハザード・ザ・ファイナル」
2016年製作のシリーズ最終作で、ミラ・ヨヴォヴィッチが美しい。
3)ラオール・ウォルシュ監督の「遠い太鼓」
1951年の限りなく下らない西部劇。いやそもそも西部劇そのものが下らないのかも。
クーパーにはもっと優れた作品がたくさんある。
4)新藤兼人監督の「流離の岸」
ヒロインの北原三枝が三国連太郎に惚れたがなんと妻帯者で母親の乙羽信子と同じ悲劇に直面する1956年のお噺よ。
5)マキノ正博監督の「弥次喜多道中記」
1938年マキノと小国英雄のコンビが片岡千恵蔵主演で撮ったオペレッタコメデイの傑作。これは翌年の「鴛鴦歌合戦」よりも遥かに素晴らしい。
大災厄なくばハマスもテロるまい「獣のような」とまで蔑まれて 蝶人
夢は第2の人世である 第131回~西暦2023年霜月蝶人酔生夢死夢百夜
ある夏の日の朝、突然あらゆる交通機関が停まってしまった。
大勢の人が職場へ行こうとしても、電車もバスもタクシーも動いていないのでどうしようもない。その結果、国民の大半が丸一日自宅待機の状態になってしまったが、このことについて当局からの発表は何もなくマスコミも何も伝えない。
人々は疑心暗鬼に駆られながら眠れない夜をすごしたのだが、夜が明け、翌朝になっても事態は何も変わらず、電車もバスもタクシーもまったく動いていない。
ここ首都圏から少し離れた海辺の旅館では、朝から宿泊客たちが大広間に集まって、三々五々ああでもないこうでもない、と口々に自分の意見を述べるのだが、相変わらず確かな情報はどこにもない。
旅籠のおかみの老婆が、勘定場から出てきて、最新の国連情報を披露したが、その中にも今回の事件に触れた発表は何もなかった。
すると、なぜかおらっちの弟の善チャンが出てきて、母の愛子さんから聞いた話を始めたので、何か重大発表かと思ったみんなが耳を澄ませると、案に相違してこんな昔話だった。
今からおおよそ半世紀前の昔、夏場は臨海学校だったその旅籠に連れてきた中津川のおばさんは、まだ幼かった愛子さんに「早寝早起きせんといかんで」と言い含めたそうだ。
死ぬまでにただ一度だけいいたかった昔は良かった昔は良かった 蝶人
「祖父佐々木小太郎半生記」~佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」より
遥かな昔、遠い所で 第114回
第3話 貧乏あずり その5
私の家には「北向きのえびす様」という小さいえびす大黒の像があった。小さい板が十二枚あって、願い事を叶えてもらった度に、板を一枚づつ供えることになっていた。
父母が信仰していたから、私も商売をやるようになって、毎晩お灯明をあげて一生懸命に商売繁昌を祈り、それがうまく行ったものだから、十二枚の板を積み上げては下げ、また積み上げては下げ、何度も何度も繰り返した。封印を解いてもらう話し合いでも、少しもいじけずにテキパキやって、全部予想以上に成功したのも、この福の神様が私に度胸をつけてくださったお陰だと思って、お礼の板を重ね重ねしたものだ。
大阪の坐摩神社にしても、あれほど入れなかった問屋の店へ、三度目には勇敢に飛び込んで、無理な取引を快く承知してもらったのも、決して私の力だけではなく、坐摩神社や稲荷様が、あの時乗り移っていたのだとしか思えなかった。
もともと私は下駄屋などやる気はなかったのであるが、案外調子よくいったのですっかり面白くなり、松山落ちなどはとうに断念して、一生懸命下駄屋をやった。そして養蚕期になると店を妻にまかせて教師に行き、この頃は中上林の睦合や物部に勤め、その給料は再び大幅に家計の上にものをいってきた。そのうちに高木銀行支店が、五百円程度の融資はいつでもしてくれるようになり、下駄屋もだんだん充実してきた。
後年キリスト教に入り、聖書の「それ有てる人はなほ與えられ、有たぬ人は有てるものをも取らるべし」(マルコ伝第四章二十四節)を読むたびに、浮き沈みの多かった私の青年時代を回顧し、有たざりし時の締め木にかけられるような苦しみ、有つようになってからのトントン拍子などと思い合わせて、万感無量なるものがある。
勝てば笑い負ければチクショ-と悔しがるその初々しさが熱海富士 蝶人
遥かな昔、遠い所で 第113回
第3話 貧乏あずり その4
秋祭りもすんで時節はずれの時だったが、紅提灯を五つ六つの軒にぶらさげて、下駄の大安売りをはじめ、元値を切って売った。「安い、安い」と評判が立って飛ぶように売れた。私はその金を持って再び大阪へ行き、前の頭金をきれいに払い、今度は前金なしに前よりはるかに多く三つの店から卸してもらった。
それがちょうど町の夷市に間に合い、ジャンジャン売った。やはり元値を切って売ったのだから、夷市の客が蟻のように集まってきて、おもしろいほどよく売れ、「綾部は下駄がメッポウ安いげな」という評判が立ち、福知山や舞鶴から買い手が来るようになって、私の店ははやった。
続いて正月の大売り出しも千客万来で、ほかの店からも羨まれ、「さすがは春助の子じゃ。なかなかやるもんじゃ」と人からも褒められた。父は道楽で身をあやまったが、商売は上手だったのである。
私の店がはやるのを見て、あれほどつめかけた借金取もぱったり来なくなった。差し押さえの口へは、私が直接行って話し合い、だいぶ負けではもらったがともかく皆済し、正月には封印のとれた畳の上で、めでたく雑煮が祝えた。まだ借金は残っていたが、誰も催促する者はなく、まだ大口三百円の残っている債権者から、「また入ったら、いつでもつかっておくんなはれよ」といわれる程、昨日の鬼も仏になって、急に融通もききだした。
今までは元値を切って売ったのだから、もうけにはなっていないけれど、とにかく商品がよくはけて、相当額の金が不自由なく融通がきき出し、店の名が出て得意のふえたことは、商人にとって絶対の強みである。問屋筋へも決して遅滞せず支払いを済ますことができたから、信用は満点で先行は明るく、まだ借金が残っていることも格別苦にはならなかった。
ベルギーからリヨンまでは良かったが初台でお茶を濁す大野和士は 蝶人
「祖父佐々木小太郎半生記」~佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」より
遥かな昔、遠い所で 第112回
第3話 貧乏あずり その3
それから舞鶴に嫁いでいる妹のこと、福知山二十連隊に入隊している弟のことを思った。満期退営しても帰る家がなかったら困るだろう……などと思うと、夜逃げの決心もすこし鈍ってきた。思い余ってうしろあたまに両手を組み、ゴロンと寝ころんで考えていた時、ちぎれた新聞紙が枕元にあったのをとりあげて、何気なく読むともなしに読むと、三文小説にちょうど私のように借金取にいじめられている男が、「今何といわれても金は一文もねえ。但しおれも男だから、キンタマだけは一人前のを持ってる。よかったら、これでも持っていけ!」とタンカを切るところがあった。
これを読んで、メソメソしている自分を不甲斐ないと思った。もっとこの男のように「ズブトクやらねばいけないと思った。夜逃げなんかやめにして、城を枕に討ち死にの覚悟で、やはり綾部に踏み止まり、逃げるにしてもそれからだ。と、私は虎の子の二十円あまりを持って、大阪へ鼻緒の仕入れに行った。今まで取引をしていた問屋へは借りがあるから顔出しができぬ。御堂筋の方へ行って別な問屋をさがした。すぐに二三軒見つかったが、何しろ二十円ばかりのはした金を持って虫の良い無理をいおうと「いうのだから、どうも敷居が高くて店に入れない。行ったり戻ったりしていると、近くに坐摩神社というりっぱなお宮があったので、私はそれへ参り、いきなり鈴をメヤクチャに鳴らして祈った。「どうか私を強くしてください! どうか私に勇気を与えてください!」と。それから店に行ったが、どうも敷居がまたげない。また神社に引き返して、今度は傍にある稲荷様にも祈ったが、やはり入れない。また引き返して三度目を拝んで行ったら、今度は入れた。
私は「今は金がないが、決して不義理はしないから、これだけで、できるだけ多くの商品を卸してくれ」と、十円を出して頼むと、主人は案外快く承諾して、五十円ほどの下駄と下駄の緒を送ってくれる約束をした。
この勢いで第二の店、第三の店へ行き、五円づつ金を入れて、商品を送ってもらう約束をし、それが豆仁という運送店に出荷されるところまで見届けて綾部へ帰った。
キムタクと中居に続けて「新しい地図」まで汚すジャニー喜多川 蝶人
遥かな昔、遠い所で 第111回
第3話 貧乏あずり その2
父を送って帰った夜、入り口の戸をあらあらしくたたいて起こす者がある。町の信用金庫の某氏の長身が、提灯をさげて立っていた。父が逃げたということをいち早く聞きつけて、信用組合からいっぱい借りている父の借金を「いたい君はどうするつもりじゃい」とかみつくような談判である。
職務に忠実な某氏の言い分にさらさら恨みはいえないわけだが、情け容赦のないことばで、ズケズケといじめつけられるのは、骨身に応えた。それから毎日門に迫る債鬼ひきもきらず、何しろ父は借りられるだけの人から、借りられるだけの金を借りまくっていたもので、金額は三、四千円くらいだったが、五円、十円の小口もあって、後に私がつぎつぎ払って、戻ってきた借用証書が、一番の支那カバンにザっと一杯、今も保存しているほどだから、債権者の数は大変なもので、中には札付きの高利貸もあって、それが入れ替わり立ち替わり来て、私を絞木にかけるのである。
泣くにも泣けない私は、ただありのままに「父の借金だからといって、踏み倒す考えは毛頭ありません。何とかしてお返しする覚悟ではありますが、今どうするわけにもまいりません。どうかお返しできる時までご猶予をお願いします」と判子で押したようないいわけを、何度も何度も畳に額をすりつけてくり返すよりほかに手も足もでなかった。
ありもしない金で牛肉を買って、親類の者に集まってもらって相談もしたが、叔父の一人は、「おじじゃのおばじゃのいうものは縁の薄いもんじゃ。きょうだいとか、嫁の親元とかで心配してもらいなはれ」などといって、けっきょく構ってくれるものは一人もなく、かえってこんなことをしたのがわるくて、督促はいよいよきびしくなり、ついに一部の債権者から財産を差し押さえられ、福知山から高某という執達吏が来て、家財道具、畳建具に至るまで封印をつけてしまった。ところがこの執達吏は情け心のある人で、「私は職務上やむを得ずこんなことをやるが、あんたにはまことにお気の毒だ」と、父の借金のために苦しんでいる私に、思いやりのことばをあけてくれた。これこそ鬼の親玉かと思ってこわがっていた執達吏にやさしく慰められたのは地獄で仏に会ったほどうれしかった。
こんなみじめな身の上になってしまった私は、とても綾部で生きていく道はないと思った……。愛媛県へ行こう! あちらでは蚕業界に多少私の名も売れているし、青野氏のような有力な知人もある。松山市には渡辺旅館という泊まりつけの宿屋もあって、私夫婦をひと月くらいは金無しでも泊めてくれるだろう。その間に蚕業界に就職口でも求めたら、多分何とかなるだろう……と、妻にも話して、私は夫婦で夜逃げを決心した。差し押さえ残りの手回り品、売れ残りの下駄までつめて、信玄袋三つにまとめ、駅近くの知人の家に預けた。それから工面した金がとうやく二十円あまり、これでは松山までの旅費しかない。それがいかにも心細かった。
ほんとうは下らぬ作だと思いつつそうはいえない悲しい人々 蝶人
遥かな昔、遠い所で 第110回
第3話 貧乏あずり その1
私の母はよい母だったが、父は善人ではあったが大ザッパでだらしがなく、大酒というほどではなかったが酒好きで、芸者などあげてハデに飲んだものだし、女道楽もなかなかなもので、いつもどこかにかくし女があったようだ。
母はまじめに店を守って商売に精を出していたが、父の金づかいが粗いため、家計はだんだん不如意になり、借金がかさむ一方だった。私の養蚕教師で得た給料は皆母に渡した。母は有りがたがって、いつも押しいただいてよろこんだ。
そこで私もできるだけ節約して一文でも多く母に渡そうと心掛けた。その頃菓子といえばコンペイ糖だったが、私はそのコンペイ糖一つ買ったことはなく、時々中白の砂糖を買って来て、指先につけて少しづつねぶり、ひどく労れた時などには、砂糖湯をして飲むのが、ただ一つのぜいたくで、半斤ほど買って来ては、長い間たのしんだものだ。
私がそんなにして家に入れる金は、盆仕入れのたしや、借金の利払いにつかわれて、初めのうちは相当家計の助けにもなったが、借金がかさむにつれて、焼け石に水ほどのききめしかないようになった。
私は明治三十七年妻(菊枝、昭和十七年病死)を迎え、それから五年たって明治四十三年には母が死んだ。その前年妹を舞鶴に嫁がせる時、ひとり娘だというので、分に過ぎたこしらえをしてやった無理さんだんなども、家計に響いて、母の死後は家中に火の車が舞った。
ヤケになった父の乱行は一層つのり、はては芸者をつれて隠岐の島へ逃げるといいだした。困ったことだとは思ったが、私のいうことなど聞いてくれる父ではなし、とめてみても仕方がないと思って、いよいよ出立の時には舞鶴まで送っていった。
その頃、舞鶴から隠岐通いの汽船があった。それに乗って父は行った。父はその時五十八だった。父はそれまでに隠岐へ二三度行ったことがある。隠岐には日本海の潮風に吹かれて、目の細い良質の桐がある。それを買い込んで下駄材ばかりでなく、琴材として京都方面に売ってもうけたことがある。まんざらあてなしに行ったわけではなく、父としては隠岐の島で一旗あげるつもりで行ったのではあるが……
親亡きあとのあれやこれやを障碍の息子にいうてきかせれば話半ばに「分りましたあ」 蝶人
闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3441~45
1)クリント・イーストウッド主演監督の「クライ・マッチョ」
2021年のメキシカン現代風西部劇。棺桶に片足を踏み入れた東森選手が古き良き時代の牧童に扮して、未来を持つ少年を訓導する。
2)リドリー・スコット監督の「最後の決闘裁判」
旧友に妻を強姦された騎士が決闘でその決着をつける2021年の最新作。黒澤の「羅生門」に倣って三者三様の視点で描いているのだが、「羅生門」のようにドラスティックな違いがないので、徒に重畳して退屈する。
3)チョン・ジウ監督の「ハッピーエンド」
最後にハッピーとは正反対の悲惨な結末を迎える1999年韓国製の典型的な不倫浮気悲劇映画ずら。
4)ロバート・ゼメキス監督の「キャスト・アウエイ」
2000年のサバイバルアドヴェンチャー映画。絶海の孤島に不時着したトム・ハンクスがロビンソン・クルーソーの現代版となって大自然と人智を尽くして格闘し、4年後に無事帰還を果たすが、火くらい自分で起こせるようでなきゃだめだと思った。
5)ブライアン・カーク監督の「21ブリッジ」
NY市警ぐるみのヘロイン犯罪に一匹狼刑事が挑む2019年のアクションスリラー映画。
5匹だけ残してメダカは喰われたりネコかカラスかアライグマか 蝶人
照る日曇る日 第1985回
昔から私が好きな、北海道登別在住の歌人の第2歌集である。
例に拠って終わりの方からアトランダムに引いてみよう。
関根勤がラビット関根だった頃日本にはまだ未来があった
書を捨てて街へいったん出たものの結局は古書店に入った
岡井隆とミキーマウスは同い年どちらも不自然に元気なり
メメント・モリ、メメント・モリと繰り返せば森進一が泣いているような
いずれも一読切れ味明快。確固たる個性と主義主張の中に、どことなくユーモアとウイットが感じられる。
こういう歌を、平然とうたってのけるひとは、ニッポンひろしといえども、なかなかお目にかかれないだろう。
こいつなら大丈夫だと見極めて全国民が袋叩きす 蝶人
レアード・ハント著・柴田元幸訳「インディアナ、インディアナ」を読んで
照る日曇る日 第1984回
ハントが何者であるかはさっぱり知らんかったが、訳者を信用して読んでみたらまあまあ面白かった。柴田選手に拠れば、なんか当節のアメリカ文学の旗手らしい。
冬の朝霧の向こうに登場人物が謎めいた動きをしているように感じられる、亡羊として文章が続くが、それは散文というよりは抒情的な散文詩のような印象を与える。
物語の輪郭は、ようやく小説の終わりの方で急いで読者に伝えられるが、主人公のノアも、その結婚相手のオーバルも頭がへんちくりんで、それがこの曖昧模糊たる文章に象徴されているのだろう。
新婚早々のインディアナ州の自宅に、みずから火をつけて全焼させたために強制的に精神病院に入れられたオバールからノアへの、拙くて可憐な手紙がインサートされ、それが本書の詩的で抒情的な性格を支えている。
ノアは聖書に出て来るノアのもうひとつの箱舟で、そこには孤独で悩める青年ノアがひとりしか乗っていなかったという挿話も、限りなく物悲しい。
米国のインディアナ州はもともとは先住民たるインディアンのもの 蝶人
蝶人物見遊山記第375回&鎌倉ちょっと不思議な物語第451回
子育ての終わった30歳から日本画の筆をとり、92歳で没するまで、日本各地はもとより中国、インド、カンボジア、アフガニスタン、エジプトなど文字通り世界を股にかける旅の中で遭遇した人や風景や物をモチーフに、幾他の名作を遺した庄司福(1910-2002)の回顧展をみました。
そういう画家なら、世界各地の名所旧跡の絵葉書的な画題に満ち溢れているのではないか、と考えるところですが、案に相違し、殊に晩年になると、どこの馬の骨とも知れぬ石ころや野菜、湿原や山の滝に焦点を当てた、具象画というより抽象的な精神画のような象徴的な作風に変遷してゆくのが興味深い。
私がいっとう感心したのは、北海道大雪山の麓の雪原の木隗と、ここそこに点在する水芭蕉を描いた1987年の「到春賦」という作品で、ようやく白い花を開こうとする水芭蕉の蕾が、まるで春の到来を喜んで今まさに飛び立とうとするダイセツアカネヒカゲのように美しいのでした。
なお、来る11月26日に終了する本展に来場すると、旅に同行した彼女の息子庄司準氏の涙なしには読めない思い出の記、彼の伴侶で夭折した庄司貴和子(1939-1979)の代表作を併せて鑑賞することができます。
学会の池田大作大往生一時代が終わりましたな 蝶人
蝶人物見遊山記第374回&鎌倉ちょっと不思議な物語第450回
清方の弟子に伊藤深水がいることは知っていたが、その他にも西田青坡、寺島紫明、山川秀峰、柿内青葉、笠松紫浪、勝田哲など数多くの門弟が存在していたことをはじめて知った。
これらの教え子たちは、清方からそのデッサンや彩色などを思い思いに学んだが、その両方と唯一無二の気品において、彼らの師を超えることは遂に出来ず、むしろ師の18番の定型を脱臼気味にひと捻りすることによって、彼ら独自の方途を見出したようだ。
大胆な構図といささか下品なエロチシズムに彩られた西田青派の「廻覧版」は、その代表的な作品である。
なお本展は、阿呆莫迦観光客が傍若無人に買い食いしながら闊歩する小町通りの離れで来る11月26日まで開催中ずら。
父母もまたこの激痛に耐えたるか微苦笑しつ心臓抑える 蝶人
闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3436~40
1)テレンス・ヤング監督の「007殺しの番号/ドクター・ノオ」
ショーン・コネリー主演の1962年のシリーズ第1作。いま見るとコネリーも弱いし
随分のんびりしたアクションスパイ映画だが、そこがいいともいえる。
2)ガイ・ハミルトン監督の「007/ロシアより愛をこめて」
1963年製作、007の第2作。ボンドガールのイタリア女優、ダニエラ・ビアンキは81歳で健在だそうだ。
3)ガイ・ハミルトン監督の「007/ゴールドフィンガー」
思わせぶりなタイトルと音楽だが、しかしてその実態は内容空疎な1964年製作のシリーズ第3作のアクションドラマなり。
4)テレンス・ヤング監督の「007/サンダーボール作戦」
1965年製作のシリーズ第4弾。敵スペクターに奪われた原爆をボンドがとりかえす海洋冒険活劇だがさっぱり面白くない。
5)ルイス・ギルバート監督の「007は二度死ぬ」
1967年、舞台を日本に移してスペクターと戦う最後のショーン・コネリー。若林映子と浜美枝、丹波哲郎、それに佐田の山がでている。
6)ピーター・ハント監督の「女王陛下の007」
1969年の第6作。めでたく美女と結ばれたのに、スペクターに花嫁を殺されたジョージ・レーゼンビーの007。さて次回はどうなるか?
7)ガイ・ハミルトン監督の「ダイアモンドは永遠に」
1971年の第7作でコネリーもだんだんだれてくる。疲れってしまったのか、スペクターは登場しない。
「救急車は貴重な資源です」というのだがもっと正確な表現はないか 蝶人