あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

十二所の神々

2007-01-31 17:48:34 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語40回


十二所神社の十二所は、「じゅうにそう」、または「じゅうにそ」と読む。「じゅうにしょ」は「敬愛なるベートーベン」ほど酷くはないが、間違った読み方なので念のため。

さてその十二所神社は、かつては時宗の一遍上人が開いた光蝕寺の境内にあって十二所権現と称したが、天保9年(1838年)に大木市左衛門の寄付した現在地に移転した。

一遍は紀州熊野神社本宮にこもって彼の時宗(一遍宗)を開いたので、時宗では本宮を中心とした十二所権現を各地の時宗寺院に勧請して祀ったのである。

その後明治の廃仏毀釈の際に権現を神社に改め天神七代、地神五代をもって祭神とした。

十二所の地名は、この神社に因んでいるという説と、この字の家の数が12であったという説とがある。(「十二所地誌新稿」より)

この神社には力士石があり昔の里人が力比べをした。また鎌倉石のきざはしが2重構造になっているのは珍しく、江戸期の寺社建築と本殿の軒下の木彫りは見事である。


さて20年くらい前に、私たち一家はこの十二所神社のすぐ隣に住んでいた。

秋の祭礼には大小の神輿が繰り出し、大勢の人たちが金魚掬いや綿飴やぼんぼりや出し物をお目当てにやってきた。

出し物の目玉はコロンビアやキングの売れない新人歌手だ。マネージャーに連れられてやってきて下手くそな、しかし哀愁のにじむ演歌を歌ったものである。

去年はたしかトンガかフィジーからやってきたフラダンス?が超目玉であった。

私はフラダンスはパスして、毎回子どもが描いたぼんぼりの絵と、寄進者の氏名と金額が書かれた立て札を眺めにいくことにしている。町内会が祭礼の寄進を求めるので、私は毎年1500円の寄付をしているのだ。

ところが驚いたことに、創価学会の家ではびた一文ださないのに、近所のカトリック修道院がいつも十二所神社に3000円の寄進をしている。世界に冠たる1神教のくせに寛容の精神がある、と感心していたが、さすがに去年はやめたらしい。

この修道院は前にも触れたように三代将軍実朝が創建し、永仁元年1293年の鎌倉大地震で壊滅した大慈寺の跡地に建っている。敷地は立ち入り禁止になっているが、修道女が瞑想しながら歩む裏山の小道にはいくつもの仏像が並んでいることを私は知っている。

今を去る800年前、実朝があの金塊和歌集の素晴らしい古歌を吟じ、蹴鞠に興じたその同じ空間で、グレイの僧衣に身を固めたシスターたちが、祭壇の父と子と精霊に額ずいているとはなんという歴史の皮肉であろうか。


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贈る言葉

2007-01-30 17:34:17 | Weblog


あなたと私のアホリズム その5


昨日は学校の最終講義だった。

まだ来週の試験が残っているが、いちおうこれでおよそ40人近くの学友諸君と訣別したわけだ。ほとんどの生徒とはこのSNSというメディアを除いては二度と会うこともないだろう。

彼らは学校を卒業し、どこかへ旅立っていく。けれども私は相変わらずここにとどまり、おそらくもうどこにも行かないだろう。私は「出発すること、それは少し死ぬことだ」というガストン・バシュラールの有名な言葉を思い出したが、出発しないほうだって多少は死ぬのだ。

年々歳々同じような「学生vs代わり映えしないあほ教師」という相関関係の中ではあっても、また、それが週にただ1度90分間だけの交わりであっても、春夏秋冬と1年間授業を続けていれば、そこには毎回ささやかな波紋が広がり、忘れがたい思い出のいくつかもそこここにちりばめながらお互いの記憶の深層にゆっくりと降りていくのである。

そうしてそれらの記憶は数年、いな数十年の時間を経て懐かしく回顧されたりもする。

私には人を教えることなどできない。いちおうはもっともらしく表層の知識の断片をノートに取らせたり、毎回演習問題をやらせたりしているけれど、そんなものは水はちゃらちゃら御茶ノ水、粋なねえちゃん立小便、のようなものですぐに忘れられてしまう。

残るのは教師の謦咳だけである。稀に彼が思いがけず発した片言隻句だけが誰かの胸にトゲのように刺さることがあり、それが教育的効果のすべてである。

だから教師はいつでも彼の実存をさらさなければならない。無様で醜悪な生き様を見せなければ反面教師にもなれないのである。

知識ではなく、生に向かって懸命に格闘している姿を90分間ライブでお眼にかけることが教師サービス業の本質であり、それを感得した若者は自分で自分の勉強を始めるのである。

昨日私は、授業の最後に黒板に

春風や 闘志いだきて 丘に立つ
 
という高浜虚子の句を書いて、前途有為な彼らへの別れと励ましの言葉に代えた。

そうして今日の午後、果樹園に散歩に行ったら、突然
「われ山に向かいて眼をあぐ」
という言葉がどこかから湧いて出た。

これは確か太宰治か聖書の文句だったと思うが、じつにいい言葉ではないか。誰もいない広大な果樹園の中、真っ青に澄み切った大空の下で聳える緑の山を見つめながら、ひさしぶりに私自身も「いざ生きめやも」という気持ちになったことであった。

 
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インフィル不在の音楽論

2007-01-29 20:49:08 | Weblog


♪音楽千夜一夜第9回

稀代の悪文で定評のあった塩野七生氏の「ローマ人の物語」がようやく15巻で完結し、もうこの人の醜い日本語を読む必要がなくなったといささかほっとしているところだ。

ところで全巻をつうじてローマ時代の芸術について触れることの少なかった著者だが、最終巻の104pで珍しく音楽について語っている。

塩野氏によれば、現在のドイツの西部と南部は古代ではローマ帝国に属していたので、ザルツブルグに生まれたモーツアルトも、ボン生まれのベートーヴェンもゲルマン対ローマの図式ではローマ側に入る。

しかしワグナーの生地であるライプチッヒは中世になってから生まれた町で、ローマが征服を断念したゲルマニアの奥深くに位置しているという。

また「ニーベリングの指輪」の登場人物たちはローマ帝国末期に北部から進入を繰り返していたブルグンド族であり、ワグナーの音楽がモーツアルトやベートーヴェンよりもゲルマン的に感じられるのはこの歴史的位置によるのではないか、というのである。

ちなみにバッハ一族はドイツ中部のチューリンゲンだからやはりモーツアルトやベートーヴェンの仲間であり、ワグナー音楽とは一線を画していることになる。

しかしこの伝でいくと英国のエルガーやデーリアスやブリテンは蛮族アングロサクソンの遺風を伝え、セザール・フランクやラベルやドビュッシーは同じ蛮族のフランク族的音楽を作ったことになる。

このように音楽を音楽家の生誕地によって差別化してその特色を論ずることはきわめてずさんな暴論であり、ローマ文化を主に政治、経済、戦争、社会のインフラなどの唯物的スケルトンから再構築する塩野氏ならではの手法ではあろうが、このようなアプローチは芸術と歴史文化の誤まった理解につながるばかりか個々の音楽家の芸術を鑑賞するうえで大きな妨げになる。
 
インフィル不在のローマ論を確立してローマ文化の何たるかを理解したつもりになったように、恐らく塩野氏は古今東西の音楽家のスケルトンだけを聴いて音楽を分かったつもりになっているのだろう。


♪反歌3首

新宿は他人ばかりの街である

鳶1羽我に愛する力あり 

類型を逸脱するは難くして♪桜桜とシャウトする歌手

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ぐあんばれ宮崎緑!

2007-01-28 17:10:45 | Weblog


ふあっちょん幻論第5回&鎌倉ちょっと不思議な物語39回

鎌倉には数多くの有名人?が住んでいるようだが、その中の一人に宮崎緑さんという元NHKのキャスターがいる。

去年だったか駅前のケンタッキーフライドチキンの細道をこちらに向かって突進してくる顔のみならず全体が大きくかさばった女性がいた。眼には隈ができ、その青ざめた顔にことさら部厚い白い化粧をしていた。

そのときは誰だかよく分からず、まるで江戸時代の紋付袴姿の侍か、東洲斎写楽描く役者絵の巨大な凧のような印象だけを家に持ち帰ったのだが、数日前、新聞広告に登場した中年女性の写真を見て、その時の写楽が宮崎緑さんであったことを知った。

そして私は現物に出会ったときに受けた一種の異様さの謎がたちまち氷解するのを覚えた。彼女はあのときも、そして写真の中でも、ノーマカマリ風の肩パッド付きのジャケットを平然と羽織っていたのである。

「おお、懐かしや、肩パッドであるぞよ」と思わず私はうなった。

ご存知のようにこの種の肩が天空めがけて逆立った威嚇的なシルエットのジャケットは、疾風怒涛の80年代女性モードの代表選手であった。90年初頭までの「決して失われなかった黄金の10年間」を初代キャリアウーマン服飾史の輝く花形アイテムとして主導したのがこの逸品なのであった。

家人もこれらの肩パッド付きジャケットを何点か所有しており、それらを鏡の前で何度も羽織ながら、「でもやっぱりどこか変だよねえ」といいつつ泣く泣く処分したのが10年ほど前のことだった。

ちなみにこの肩パッドはそれを取り去ってもなおかつ「まだどこか変だよねえ」なのである。

ファッションが時代と共に変化するとき、いつでも誰でもがつぶやくのが、このセリフなのだが、驚いたことに宮崎女史はこの10年この「どこか変だよねえ」に無自覚であっと断じるほかはない。

80年代レディスモードをリードしたビッグシルエットは、90年代に入ると共に絶滅し、90年代の半ばにビッグからスリムへのシルエット転換が終了し、この同じトレンドがメンズに及んだのが00年代。そして去年からユニクロが展開しているスキニー(超細身)キャンペーンがそのファッション革命の総仕上げという流れなのだが、かの宮崎女史はこの時代変革にまったく無知であるか、あるいは知ってはいても微動だにされなかったのである。

ああ、なんと見上げた偉大なる人間国宝的存在であられることよ!

しかし世間を広く見渡せば、このように偉大な80年代的時代精神の持ち主は、彼女だけではない。超右翼の櫻井よしこ、社民党党首の福島みずほ、などといった偉大な論客たちも、イデオロギーの動向には敏感であっても、ことモードの巨大な地盤変動に関しては恐ろしいほど無自覚であることは、彼らのファションを見れば火を見るより明らかであろう。

しかしながらもっと恐ろしい?ことには、あるトレンドウオッチャーの予測によれば、あと数年も経てば、かの恐怖の肩パッドがパリコレで突如復権し、およそ20年ぶりにロイヤル・グラン・シルエット時代が戻ってくるかも知れないという。

そうなれば宮崎女史は、「超時代はずし者」ではなく、最先端のトレンドリーダーとして世界中の喝采を浴びるに違いない。

んで、その日がやってくるまで、そのままぐあんばれ宮崎緑!

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♪土曜日の歌

2007-01-27 16:44:11 | Weblog


犬ふぐりふぐり開かぬ寒さかな


今日もまた一人死にたり梅の花


佐々木眞少し死にゆく冬の朝


この国やあらゆるニュースはバッドニュース


この花の名前は何ですかと吹き来る風にわれ訊ねたり


不自由な右指伸ばし母がいう冬中咲くから冬知らずなの


中原の中也が死にし病院で定期健診今年も受けたり


吉永の小百合に誘われし夢を見たが固辞せる我に後悔はなし


なにゆえにアドレスすらすら口に出る我をリストラせしその会社の


コジュケイは飛ぶを拒否して足早に遠ざかる道を選びたり

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果樹園にて歌える

2007-01-26 16:49:33 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語38回


梅一輪開かぬ林に入りけり

我らにも希望はありて梅つぼむ

果樹園の梅持ち帰るうれしさよ

果てしなき評定続くもぐらかな

しばらくはルソーの森に遊びけり

木陰にてキャミソール脱ぐチャタレイ夫人

水仙のごとき香りの君である

少年は今日も果樹園でチャタレイ夫人を待ち伏せしている

銀色の光あまねし相模湾船影はなく鳥影もなし

西は富士東は房総南相模北東京湾すべてを見たり

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鎌倉ところどころ

2007-01-25 19:57:22 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語37回

図書館の本が流れるので、自転車で取りに行った。

図書館の向かいの御成小学校は前にも紹介したように旧明治天皇の夏季別荘として利用されたが、後に葉山の別荘にとって替わられた。そのもっと昔は中世の国衙(行政センター)があった場所で、そのもっと昔は幕府の門注所があった。

御成りから小町の通りに向かって自転車を走らせると、左側に三味線屋さんが、右側に四季書林という古本屋がある。前者は大好きだが、後者は大嫌い。というのは、この本屋は国文学関連の品揃えでは定評があり、1冊1冊をパラフィン紙で包装するなど書物に対する愛情はあるのだが、店主が偏屈でいまどき珍しい「反お客様第1主義」なのである。

いつか私がぶらりと店に入ってあれこれ物色していると、店主が「何かお探しですか?」と尋ねたので、私が「いいえ、なんとなく見ているのです」と答えると、彼奴は「そういう人は出て行ってください」とにべもないご挨拶。実に不愉快きわまりない申しようだ。

私は思わずこいつを殴りつけようと思ったが、まあよそう、こんな客を大事にしない生意気な古本屋なぞすぐに倒産するだろうと思って、「ああ、そうかよ。おめえの店ではもお絶対に買わないからな」と捨て台詞を残して、早々に退去したのであった。

私はかつてこの店で角川文庫の「信長公記」を買ったこともあったのだが、そのときはこの男は不在で、彼の細君が番台にいたのでこんな嫌な気分に陥ることはなかったのであるが、その後考えれば考えるほど腹が立ってきてあれから一度も訪れたことはない。

思うに、この男は鎌倉文士や専門の研究者などにお得意がいるので、私風情の一般大衆なぞに自分が苦労して神保町で仕入れてきた貴重本を売りたくないのかもしれないが、それにしてもいまどき珍しい店である。

アホバカ古本屋にぺっぺと唾を吐いて角を右に曲がって少し行くと、なんと現役の刀鍛冶屋さんの刀剣店がある。それも第24代目の正宗様であるぞよ。

店の後が工房になっていて、私が通ったときもトテカン、トテカンと刀鍛冶が行われていた。もちろん鍛冶装束に身を固めたりりしいいでたちである。鎌倉ちょっと不思議な物語30回で、鎌倉時代のたたら製鉄の現場をご紹介したが、なんと800年後の同じ鎌倉市内のど真ん中でも同じ地場産業が孜々と続けられていたのであった。

正宗の鍛冶屋に別れを告げて須賀線の線路を越えると、驚いたことに、物語32回で紹介したおばけ屋敷が跡形もなく消えうせていた!

桑田変じて海となる、ではないが、木造建築と人間の若さほど速やかに消滅するものはない。かくて私の数枚のスナップ写真はたちまち往時を偲ぶ貴重なドキュメントとなってしまったのであった。




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楽園への道

2007-01-24 16:54:56 | Weblog
楽園への道

鎌倉ちょっと不思議な物語36回&音楽千夜一夜第8回


十二所の名所はなんといってもここ十二所果樹園だ。もともとはわが十二所村の所有であったが、最近市の史跡保存会が購入し、広大な山全体を手入れしている。

私は昔から果樹園やORCHARDという言葉が好きだったので、鎌倉に引っ越してきてこの果樹園が歩いてしばらくのところにあると知ったときには狂喜してよく子どもたちと出かけたものだ。

そして果樹園の門をくぐるたびに、私の耳には英国の作曲家フレデリック・ディーリアスのオペラ「楽園への道」の序曲がゆっくりと鳴るのだった。

果樹園では梅や栗が栽培され、そのほかにも多くの植物と動物が成育し、山全体をぐるりと周回する散歩道は起伏に富んで四季折々の色彩と景観を心ゆくまで楽しむことができた。初夏には梅、秋には栗が採れ、一般にも安価で販売されている。

私は昨日、今日とこの果樹園を久しぶりに訪れ、手入れのために伐採された梅の枝を捜したのだがとき既に遅し、ほとんど残っていなかった。10日ほど前にボランティアの人たちが作業した帰りに持ち帰ったらしい。残念。

しかしそれにしても園内のいたるところを縦横無尽に跋扈する台湾リスの数の多さには驚く。10年前には1匹もいなかったこの外来種はあれほど多かった様々な固有種の鳥たちを絶滅させ、ミカンの実を食べつくし、大樹の幹を剥いで裸にして枯らし、外部から行政が保存しようとしている自然の楽園を、その内部から食い殺そうとしている。これでは梅や栗の果樹の収穫が危ぶまれる。

もうひとつ問題なのは果樹園にいたるまでの道端にひしめく資材置き場だ。この地は本来は国の史跡なので家屋はもちろん耕作、資材置き場、物置などに使用してはいけないのに、市長が保守系に代わった途端に所有者が土建会社や園芸業者などに勝手に貸し出し、大型トラックやブルドーザーなどが出入りしたり、産業廃棄物が放置されたり、太刀洗川への不法ゴミ投棄や無許可開拓や農耕などが野放図に行われるようになった。

今日もまるで中古自動車修理工場のようなバラックのあちこちで焚き火が行われ、大量のダイオキシンが空中に飛散していた。最近は鎌倉駅東口に「友情」というモニュメントを寄付した彫刻家のI氏の巨大なアトリエが果樹園の入り口に完成し、我ら善男善女の立ち入りをえらそうに禁じている。これも立派な不法建築のひとつであろう。

果樹園の果樹食い尽くしてや台湾リス


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幻のつつじ

2007-01-23 19:25:02 | Weblog


遥かな昔、遠い所で 第2回


郷里の我が家から田町の坂を登って質山峠を越えていくと、どこやらの山の1画が我が家の所有地になっていて、そこでは10年くらい前まで丹波名産のマツタケが採れた。

マツタケははじめのうちはなかなか見つけられない。図鑑などで見た概念だけが視野に見え隠れして実際の現物の発見を邪魔するのだろう。しかしなにかの拍子にそれは目の前に現れる。

「あ、あったぞ。ここにもあった」

大人も子どもも急な斜面を駆け登り、駆け下りながら、赤松の木陰のあちこちから顔を覗かせる大小の香り高いマツタケを競争で採った日のうれしさは格別だった。

マツタケの季節はもちろん秋だが、このマツタケ山に、なぜかきょうだい3人で初夏に登ったことがある。いまは亡き小太郎さんという祖父がわれわれを連れて行ってくれたのであった。

空は青く晴れ上がり、風はまったく吹かず、蒸し暑い日であった。
私はマツタケが採れる斜面とは反対側の山麓で途方もない大きさの見事な枝振りの赤と橙色の中間色をいした山つつじを発見した。

「これを持ってお家に帰ろう。この素晴らしいお化けつつじを小太郎さんと祖母の静子さんにプレゼントしよう」

そう決意した私はずいぶん長い時間をかけ、少年の身に余る超人的な努力をしてとうとうその赤いつつじの樹を根本から引きぬくことに成功した。

そしてそれを山のてっぺんまで懸命に引っ張りあげようとしたのだが、つつじの枝と葉の分量があまりにも多すぎて、途中の松や様々な広葉樹や草の根などのあちこちにひっかかって、とうとうある個所で押しても引いても動かなくなってしまった。

「もう帰るぞお」とみんなを呼び集める小太郎さんの声がする。私はとうとうそのおばけつつじをその場に放棄して、必死で山の尾根まで戻ったのだった。

私に引き抜かれたあのつつじはどうなったのだろう。もちろんそのまま枯れて死んでしまったに違いない。そんなことならそのままにしておけばよかったのに、と後悔したが、もう後の祭りだった。

私は時折、つつじの強烈な芳香にむせ返りながら坂を登る、私のような少年の姿を夢に見るときがある。


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♪トラベルセットが当たる

2007-01-22 20:05:45 | Weblog


音楽千夜一夜 第7回

「朝は四足、昼は二本足、夕方は3本足のものは何?」というスフィンクスの問いに「それは人間だ」と正答したのは父を殺し母と交わった古代ギリシアの王、オイデップス。

「暗い闇夜に飛び交い、暁とともに消え、人の心に生まれ、日毎に死に、夜毎に生まれるものは何?」というトゥーランドット姫の第1の問いに、「それは希望だ」と答えたのはカラフ王子。

「一日にも四季がある。朝は春、昼は夏、午後は秋、そして夜は冬である」
と語ったのは、ロシアのチェリスト、ロストロポービッチ。

みなさんなかなかうまいことを言うもんですね。

さて、そのロストロも、カザルスも、坂本龍一もバッハの無伴奏チェロ組曲が至高の名曲であるという。

だがロストロの演奏も、カザルスも、ヨーヨーマも、坂本が薦める藤原真理の演奏も、私を限りなく退屈させる。

退屈しなかったのは、かつて資生堂が「♪トラベルセットが当たる」というプレミアムキャンペーンのときに使用した第6番のアレンジを耳にしたときのみ。

同じバッハの平均律クラビールやオルガン曲やカンタータは限りない喜びを与えてくれるというのに、大好きな作曲家であっても、大の苦手の曲があるというのが不思議だ。


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遥かな昔、遠い所で 第1回

2007-01-21 16:15:39 | Weblog


私の実家は丹波の田舎だ。そこでは長らく下駄屋をやっていた。
02年に三代目の母が亡くなったあとたたまれた店は、いまも「てらこ」という屋号で町の目抜き通りに残ってはいるが、もはや訪れる客も店の新しい主人もいない。

外見も中身もそんな古式蒼然とした商店であるが、世間の人がまだ和服を愛好していた遠い昔の時代には、大勢の客が「てらこ」の下駄や草履をあらそって買い求めた夢まぼろしのような日々もたしかにあったのである。

年に1度の「えびす祭り」の大売出しの日の賑わいは今も私の眼の奥に残っており、3人きょうだいの幼い私たちが、「いらっしゃい、いらっしゃい」と声をからして店頭を行く通行人の呼び込みをした日のこともかすかに覚えている。

「てらこ」の下駄は品質が上等で、とりわけ父がすげる鼻緒はいつまでも緩まず両足にフィットして履き心地がよい、というので定評があった。母はそんな父をしっかりと支えるようにして一緒にお店で働き、いつも二人で他愛ない世間話に興じていた。

そんなある日のことだった。たまたま父と私が店にいると腰の曲がった80歳くらいのよぼよぼのおじいさんが、見るからにくたびれた格好でやって来た。そうして文字どおり弊履のごとく古く汚れた下駄をニスが塗られた部厚い木製のカウンターの上にどさりと乗せると、こういった。 

「やあてらこはん、どうもこんちは。おたくの下駄はほんま長いことよおもったわ。わいらあなあ、もう何年も何年も履いたんやが、とうとうこんな姿になりおった。ほいでな、今日はこの古いのを新しい奴に取り替えてもらおうおもて、はるばるバスに乗って町までやって来ましたのや」

はじめのうちは私たちは彼が何を言わんとしているのか分からなかった。しかししばらくしてから、彼が大昔にてらこで買った下駄が古びたら、てらこでは無償で新品に取り替えてくれるはずだ、と確信していることを知ってさすがに驚いた。

父は、「この下駄はもう古くて修理できないし、あなたが希望するようにただで新品と交換することもできない」、と汗だくになって言い聞かせるのだが、くだんの老人はいつまで経ってもそのまっとうな商人の言い分を理解したり、納得しようとはせず、まるでサントリーのボスのテレビCMに出てくる宇宙人ジョーンズ氏を眺めるような目つきで、いぶかしそうに父を見るのだった。
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さまよえる酩酊船

2007-01-20 20:47:50 | Weblog


改めてアルチュール・ランボー(1854-1-91)の言葉に耳を傾けよう。
安政元年に生まれ明治24年、大津事件が起こり、幸田露伴が「五重塔」を書いた年にマルセイユの病院で右足関節腫瘍で37歳で死んだ詩人のマニュフェストだ。

見者であらねばならない、自らを見者たらしめねばならない、と僕は言うのです。詩人はあらゆる感覚の、長期にわたる、大掛かりな、そして理にかなった壊乱を通じて「見者」になるのです。あらゆる形態の愛や、苦悩や、狂気。彼は自分自身を探求し、自らのうちにすべての毒を汲み尽して、その精髄のみを保持します。

それは全き信念を超人的な力のすべてを必要とするほどの言い表しようのない責苦であって、そこで彼はとりわけ偉大な病者、偉大な罪びと、偉大な呪われびととなり、そして至上の学者になるのです。

なぜなら彼は未知なるものに至るからです。というのも彼はもう既に豊かだったその魂を、他の誰にも勝って涵養したのですから。彼は未知なるものに達し、そして彼が狂乱してついに自分の様々なヴィジョンについての知的理解を失ってしまうとき、彼はそれらの視像をたしかに見たのです。

前代未聞の名づけようもない事象を通じた彼のそんな跳躍のただなかで、もし彼の身が破裂してしまうなら、それはそれでよいのです。他の恐るべき労働者たちが後に続いてやって来ることでしょう。彼らは他の者が倒れた地平線から開始するでしょう!

それゆえ詩人とは真に火を盗む者なのです。詩人は人類を担っており、動物たちさえも担っているのです。
彼は自分が案出したものを感じさせ、触れてみせ、耳に聞こえさせねばならないでしょう。もし彼が彼方から持ち帰るものに形態があれば、彼は形態を与えます。もしそれが無形態であれば、無形態を与えるのです。

ひとつの言語を見出すことです。どんな言葉も観念なのですから、ある一つの普遍的な言語活動の時代が来ることでしょう。このような言語は魂から魂へと向かうものでしょうし、一切を、もろもろの匂いも音も、色彩も、すべて要約しており、思考をつかみ、引き寄せるのです。

詩人はその時代に万人の魂のうちで目覚めつつある未知なるものの量を明らかにすることでしょう。彼はより以上のものを、つまる自分の思想を言い表す定式や、進歩へ向かう自らの歩みを書き留めた表記などを越えた、それ以上のものを与えるでしょう。常軌を逸した莫大さがふつうの規範になり、あらゆる人々に吸収されてまさに詩人は進歩を倍増させる乗数になることでしょう! 

そうした未来は、唯物論的でしょう。つねに韻律的な数と調和に満ちており、いくぶんかはギリシア詩であるでしょう。詩人たちは市民なのですから、永遠なる芸術もその様々な機能を持つことでしょう。

詩はもはや行動にリズムをつけるものではないでしょう。詩は先頭に立つものとなるでしょう。そのような詩人たちが存在することになるでしょう。

 
1871年の5月15日、おりしもパリ・コンミューンがペール・ラシェーズ墓地で崩壊する「血の1週間」のさなかに、17歳のランボーがシャルルヴィルで友人ポール・メドニーに書き綴った手紙が、詩人の詩と生涯の真実を正確に鮮明に物語り、その悲劇的な結末さえ見事に予言している。

ランボーは、自らが宣言したとおり、その生涯をつうじてつねに詩の先頭に立った。そして詩の本質を直感し、詩の至純の世界を体得したランボーは、詩の世界にあきたらず、詩そのものを生み出す豊潤で混沌とした現実世界に向かって、彼のさまよえる狂気の酩酊船を船出させ、まるでそれが宿命であったかのように見事に座礁させたのだ。それが彼の足掛け15年に及ぶアフリカでの貿易商売の持つ意味である。

ランボーはエチオピアのハラルを拠点に、象牙、銃、綿、コーヒー、シチュー鍋、馬、ロバ、虎、ライオン、騾馬、麝香等々、ありとあらゆる物資を交易し、アフリカでのビジネスがうまくいかないので、エジプトを経てはるか当方の中国、日本まで遠征しようと考えていた。もし彼が明治20年代のわが国を訪れたならきっと西洋と東洋の新しい出会いがあったに違いない。

けれども砂漠に逃亡した孤独で不運な詩人は、悪賢い商売人たちにうまくしてやられ、結局はさしたる利益を上げることもできなかった。のみならず過酷な気候と不慣れな生活の中で健康をむしばまれたランボーは、野蛮人に囲まれた文化果つる不毛の地で右足を切断され、極度の苦痛と高熱にさいなまれながら、余りにも短すぎた過酷な生を閉じたのである。

ほとんど意識を失い、錯乱しながら「郵船会社支配人」宛てにマルセイユの病室で口述筆記されたランボー最後の手紙(1891年11月9日)は、彼の生涯最後の瞬間における見果てぬ夢の極北の姿を痛切に伝え、彼の有名ないかなる詩篇よりも感動的である。


分け前 牙1本だけ。
分け前 牙2本。
分け前 牙3本。
分け前 牙4本
分け前 牙2本。

支配人殿、
貴殿との勘定に未払い分がないかおたずねします。私は今日、この船便を変更したいと思います。この便は名前すら知りませんが、ともかくアフィナールの便でお願いします。
こうした船便はどれでも、どこにでもあります。それでも私は手足が不自由な不幸な人間であり、何も自分では見つけられないのです。街頭で出会う最初の犬に聞いても、そのとおりだと答えるでしょう。
それゆえスエズまでのアフィナールの便の料金表をお送りください。私は全身不随の身です。したがって早い時刻に乗船したく思います。何時に船上へ運んでもらえばよいかお知らせください……

この手紙が書かれた2日後、詩人という名に値する唯一の詩人ランボーは息を引き取った。

*参考文献「ランボー全集」青土社 平井啓之、湯浅博雄、中地義和、川那部保明訳

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スミレ咲く

2007-01-19 16:08:50 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語35回

熊野神社ではもう可憐な山スミレが咲いていた。十二所の山際の崖ではたった1輪が薄紫の花弁を風に揺さぶられていた。

今年も暖冬らしい。十二所のガソリンスタンドで尋ねたら1.8リットル当たり1580円だそうだ。ひと頃よりだいぶ安くなってきたようだ。

さて今日は超くだらない話をしよう。(もっともいつもくだらない話なのだが…)

近くのガソリンスタンドには丘の上に住んでいる超多忙の有名人Mモンタ氏が給油にやってくることがある。そうしてこの男は、給油中、まるで歌舞伎の千両役者のようにかっこつけて、文字通りに見得を切っている。

するとその異様なポーズに気づいた近所のおばさんが、「あれ、あの人モンタじゃないの。え、ほんとうの本物?」」などといいながら近づいてくる。

するてーとくだんのモンタ氏は、やっとそのヒトラー&ムッソリーニ時代の男性塑像のような奇妙な姿勢を解除して、突如営業用のスマイルをにゅっと浮かべつつ、「奥さああん、僕にサインしてほしいのおお?」とかなんとか叫ぶのである。

売れっ子はつらいね。それにしても年が明けたというのに、どうしてこっちには仕事が回ってこないんだろ?

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♪木曜日の歌

2007-01-18 16:02:18 | Weblog



ランボオのような眼をした少年だった

子が父を殺めたくなる野の小道

アポロンの信託は知らず寒椿

まむし眠る谷戸に降りつむ椿かな

電光影裏タイワンリスの邪悪な眼よ

世の中はもっともっと悪くなる鴨

陽だまりに愛を乞うる人多く

わたしはたんぽぽの好きな人が好きだ

あけおめと書き来しメールにことよろと返す勇気われにはなくて

米国の猿面冠者が打つ博打こいつは春から凶と出るか

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追悼

2007-01-17 16:33:16 | Weblog

二人の白い巨人が土俵に上った。それぞれがわれこそは世界最強の戦士だ、と喚く。

やがて二人の力士は立ち上がってがっぷり4つに組み合ったがそれっきり微塵も動こうとはしない。

周囲の人々は懸命に声援を送り続けたが、力士はたらたらと汗をながすだけで相変わらず動こうとしない。

そのまま時が過ぎ、やがてあたりはとっぷりと暮れたので観客はみな現場から引き揚げた。やがて真っ暗な野原に月が昇り地面をぼんやり照らし出したがそこには誰もいなかった。

親しい人が突然病気になったり、思いがけない事件に巻き込まれて大勢の人々が亡くなったり、当の本人も目の前が暗くなって急に倒れたりする。

死んだ人のことは忘れようとしても忘れることはできないのだが、それでも朝が来て、太陽が輝くと、いつのまにか未曾有の災厄も次第に忘れられたかのような気がするので、無理矢理すべては何もなかったのだ、などと懸命に思い込んで、虚妄の日常性の中へ逃げ込もうとする。

けれども死ほどの一大事が生にとってあるだろうか? 愚かな私よ、そこでしばらく眼を覚ましていろ。


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